空爆対事后评価 by accinent

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									                  <2>空爆に対する事後評価


1999年3月24日から同年6月10日までの78日間に NATO 軍は9300回出撃した。使用された

NATO 軍機は延べ1259機に上り,うち982機が米軍機であった(約80%)。又、この期間の軍事

的攻撃目標は900に上り2400発のミサイルと爆弾が使用されたが、そのうち35%が巡航ミサイ

ルやレーザー誘導爆弾などの精密誘導兵器 precision guided munitions,PGM(8)であった。特に

空爆開始直後の数日間の PGM 使用率は90%であった。湾岸戦争Gulf War(1991.1.17~

2.27)でのPGM使用率が8%であったことと比較しても、今後の戦争形態way of warfare は

益々,在来型の陸軍中心のものから海軍中心のものへ、そして空軍中心のものへと移行 shift して

いくと思われる(9)。因みに、ユーゴ空爆による NATO 軍の物的損失は軍用機2機のみであり人的損

失はなかった(10)。

他方,今回の空爆によるユーゴ連邦側の直接の被害だけでも相当なものに上った。戦車122台、

装甲兵員輸送車222台、火砲454門(対空迎撃能力の80%以上に相当)が破壊されたほか、

15000人以上のユーゴ軍戦闘員が死傷した。推定4万人の戦闘員combatantsの40%近くに達

する損失である。又、民間でもセルビア製油施設の100%、テレビ・ラジオ関連施設の45%が破壊

され、誤爆(人為的・機械的誤操作によるもの20件、及び正確な目標攻撃に付随する民間人被害

10件の計30件)によって1500名以上の民間人 civilians が死亡した。民間人負傷者は約3500名

に上った。他方、コソボ自治州の住民200万人のうち約90%を占めているアルバニア系住民の

47%にあたる約85万人がユーゴ軍の掃討作戦によって難民refugeesとなって周辺諸国に流出し

た(11)。「いずれにせよ、戦争自体は横綱と幕下の取組みたいなもので、ベオグラードに勝ち目のあ

ろうはずはなかった」(12)。

NATO 軍がユーゴ空爆を停止したその日(1999.6.10)、国連安保理はコソボ自治州紛争に関

する決議を採択した(賛成14、反対0、棄権1‥中国)。この決議に基づき、ユーゴ軍撤退後のコソ

ボ自治州の治安維持にあたる NATO 主導のコソボ平和履行部隊 Kosovo Force,KFOR(13)が1
2

日早朝、同州々都プリシュテイナPristinaに到着した。NATO軍はこの3日前の6月9日にユーゴ軍

との間で軍事細目協定を締結し後者のコソボ自治州からの撤退を約束させていた(6.20撤退完
了)。他方、プリシュテイナに司令部を置いたKFORはコソボ解放軍Kosovo Liberation Army,

KLA(14)と非軍事化協定を締結し後者の武装解除を取り決めた(実際の武装解除開始は6.28,

終了は1999.9.17)。なお、前記安保理決議が設置した国連コソボ暫定統治機構United

Nations Interim Administration Mission in Kosovo,UNMIK(15)が6月コソボに入り、難

民帰還や復興支援の任務についた。




 [注]

(8)従来のミサイルと異なり、自らの推進手段を持たずレーザーやミリ波レーダーなどの光学的誘

導によって攻撃目標に到達するミサイルであり、命中精度が高い。See,e.g.imidas2000,

pp.1024,1402.

(9)戦術面及び戦闘効率の面で陸軍の比重低下は否定できず、今後も、「海空軍が前面に出て遠

距離から戦争を戦い、陸軍は戦後の平和維持活動を担当する形態が定着するだろう。その意味

で、ユーゴ空爆作戦は米国の戦争の形を変えた歴史的転機と言える」(名越健郎“Washington

Report”,世界週報1999.7.27、pp.22~23)。第二次大戦後、海空軍とりわけ空軍の戦力

Forceとしての比重の増大を受けて、国連海洋法条約United Nations Convention on the

Law of the Sea,UNCLOS(adopted 1982.4.30,entering into force

1994.11.16)でも船舶のほかに航空機にも国際海峡int’nal straitsの通過通航権right of

transit passageを認めているが、湾岸戦争Gulf War(1991.1.17~2.27)やユーゴ空爆

(1999.3.24~6.10)を経て三軍中、空軍力の圧倒的優位が確認された今、航空機の通過通

航権は短期成立のinstant慣習国際法規としての地位も取得したと考えていい時期にきていると思

う。

(10)ヘームリ国防副長官Deputy Secretary of Defenseの議会証言(1999.7.22)。Cf.

『世界週報1999.10.5』p.14.

(11)『世界週報1999.7.27』pp.10~11,48~49.『世界週報1999.10.5』pp.14~

15.imidas2000,p.439.佐瀬昌盛著『NATO』文藝春秋刊1999,p.13.

(12)佐瀬、ibid.,p.13.

(13)NATO17カ国のほかに、オーストリア、フインランド、ロシア連邦、アラブ首長国連邦が参加し
ており、マケドニアに7000人、コソボに4000人以上派遣されている。なお、ロシア軍のKFORへ

の参加についてコーエン米国防長官Secretary of State,William Cohen(1940.8.28~,

在職’97.1~)とセルゲーエフ・ロシア連邦国防相Igor D.Sergeev(1938.4.20~,在

職’97.5~)との間でヘルシンキ合意文書が署名され(1999.6.18)、ロシア軍はKFOR司令

部に代表部を設置しそこを通じてKFORの命令をロシア軍部隊に伝達し、ロシア軍独自の担当地

域を設けないこととした。Cf.imidas2000,p.424.

 他方、ロシア連邦以外の5カ国(英米仏独伊)は、KFORの活動の枠内で治安と難民の安全な帰

還を確保するためにコソボ自治州を5地区に分割して、それぞれ一地区を担当することとした。

See,e.g.Deutschland,D20032F,no.4/99,p.30.

(14)90年代に入るや早々にコソボ自治州々議会(在プリシュテイナPristina)がセルビア共和国か

らの独立を宣言し(1990.7.2)、ユーゴ連邦7番目の共和国として独立する旨の新憲法を採択し

た(1990.9.7)。ちょうどこの時機に、武力によるコソボ独立を唱える強硬派によりコソボ解放軍

Kosovo Liberation Army,KLAが組織された。その実態については不明の部分もあるが、「中

核戦闘員2000人、武装した支持者が数万人」と分析されている。See,e.g.WORLD

YEARBOOK 1999,p.50.

(15)50番目の国連平和維持活動PKOになる。第3回のPKOである第 1 次国連緊急軍UNEFⅠ

(1956.11~1967.6)のみ国連総会決議で設立されたが(GAR998-1956.11.4,

GAR1000-1956.11.5)、ほかは全て安保理決議で設立されている。Cf.外務省作成『平和

維持活動(PKO)と日本』pp.3~4;imidas2000,p.321.




                    2.空爆の国際法的評価
                <1>国際平和維持の強制行動




さて、NATO軍によるユーゴ空爆を国際法的にどのように評価するかに付いては難しい問題があ

る。それは、今回、湾岸戦争Gulf War(1991.1.17~2.27)のときとは異なり、対ユーゴ武力

行使を容認する安保理決議はなく、国連憲章§51が認める個別的自衛権及び集団的自衛権行使

のいずれの場合にも該当しないからである。国連の集団安全保障体制scheme of collective

security のもとでは、武力行使use of force は憲章第 7 章に基づく強制措置としてか、憲章§

51に基づく自衛権の発動としてしか認められないからである。

本稿1.<1>★印は対ユーゴ制裁関係の事項であるが、特に 1991 年以降、アメリカyドイツなど

の個別国家のレベル、そしてEC(1993 年以降はEU)や西欧同盟WEUや欧州自由貿易連合EFTA

などの地域的機関のレベル、更には国連のレベルでも各種の制裁措置が執られていたことを示し

ている。制裁sanctionとは国際法規に違反した国家に対して当該法規を遵守させるために課され

る措置一般をいう。この点に関する諸国家の実行state practiceを観ると、復仇reprisalsや干渉

interventionや自衛self-defenseというカテゴリーの国家実行が確認されるが、20世紀に出現

した国際連盟League of Nations(1919~46)や国際連合United Nations(1945~)といっ

た一般的国際機構は従前の復仇や干渉や自衛を制度化組織化して集団安全保障体制を構築して

いる。現在、制裁として同体制にビルト=インされている強制措置は非軍事的措置(経済制裁や外

交関係断絶などの外交的措置)と軍事的措置に二分されて理解されている(Charter of the

UN,§39,41)。今回のNATO軍によるユーゴ空爆が、巷間よく指摘されているとおり、国連の集

団安全保障体制の枠外で、安保理からの授えなしで実行されたことは明確な法的事実legal fact

である。しかし、安保理としてはまったく手をこまねいていたわけではなく、1992 年にはユーゴの在

外資産の凍結や禁輸を加盟国に要請する経済制裁決議を採択していた点に注目しなければなら

ない。国際連盟や国際連合の有効であることについては、すでに実証的研究も発表されており

(16)、湾岸戦争Gulf War(1991.1.17~2.27)でさえ経済裁だけで目的を達し得たはずで速

効を求めた拙速の策であったと非難の声がでているほどである。

それではなぜNATOは非難の多い軍事制裁を、しかも国連の枠外で、行為の適法性

lawfullnessに関わるいわば二重のチェックtestsを無視する形で遂行したのであろうか。問題は、
EC(現EU)諸国家がユーゴ紛争を欧州の問題として認識していたという点にある。つまり、アフリカ

のルワンダ内戦(1994.4~7)にも比肩すべき民族浄化ethnic cleansingが行われた旧ユーゴ

紛争(1991~5)の継続的最終局面としてのコソボ紛争は、欧州人権条約Convention for the

 Protection of Human Rights and Fundamental Fredoms(signed 1950.11.4,

entering into force 1953.9.3)第 6 議定書(signed 1983.4.28,entering into force

 1985.3.1)で死刑を廃止し(17)、米州死刑廃止条約(1990)や死刑廃止議定書Second

Optional Protocol to the International Covenant on Civil and Political Rights,

aiming at the Abolition of the Death Penalty (signed 1989.12.15,entering

into force 1991.7.11)への道を拓いた文明国たる欧州諸国家にしてみれば、ユーゴ連邦は

地域的にはヨーロッパに属しながら、人権感覚はアフリカのルワンダにも等しいヨーロッパの恥部と

して映ったはずである(18)。特に第二次大戦後、米・中・露・日本の台頭により政治的比重が低下し

たヨーロッパでは政治的経済的統合を推進するとともにキリスト教とギリシア=ローマ文明の正統

的継承者として人権領域で国際社会を指導することに自らの存在理由raison d’ etreを見出して

いただけに、その思いは第三者の想像を超えたものがあったはずである。1991年9月19日に独

首相コールHelmut Kohl(1930.4.3~,在職’90.10~’98.10)と仏大統領ミッテラン

F.M.M.Mitterrand(1916~1996,在職’90.10~’98.10)が、「ユーゴ紛争は欧州共同体

ECが招集する和平会議の枠内で解決すべき」との共同声明joint statementを発表したが、これ

こそユーゴ紛争の本質とそれに基づく解決の方向性orientierungを象徴的に示していたといって

いい。つまり、コソボを含めたユーゴ紛争はヨーロッパの地域的紛争として、欧州の安全保障のため

に複合的・重層的に構築された「地域的取極又は地域的機関regional arrangements or

agencies」(Charter of the UN,§52)を利用して解決するとの意思をこの共同声明から読み

取らなければならない。その意味で、ユーゴ紛争については当初より合憲的解決ないし憲章内解決

が目指されていたといっていい。事実、1991年11月にはEC及びEFTAが相次いで対ユーゴ経済

制裁の実施を決定しているし(11.12,15)、翌1992年には国連安保理が採択した対ユーゴ経

済制裁決議の実行性を確保するために(=禁輸措置を監視するために)、西欧同盟WEUが加盟国

海軍を、そしてNATOが地中海配備海軍を共にアドリア海に派遣することを決定した(7.10,実際

の監視活動開始は7.16)。
ところが、国連のユーゴ問題への対処の仕方に憲章外的要素が介在ないし混入してきた。それ

は、1992年2月21日の国連安保理決議SCR743(1992)でクロアチアでの停戦監視を目的と

する国連防護軍United Nations Protection Force,UNPROFORの設立・派遣が決定され

たときである。

このPKOはその後、旧ユーゴ各地に展開し部分的に武力行使の権限も与えられていた(尤も、そ

の後、活動範囲はボスニア=ヘルツエゴビナに限定された……1995.3.31安保理決議

scr982)。このUNPROFORの軍事的機能を代替補完することをNATOは期待されたのである。

こうした形での国連に対するNATOの軍事的協力は、国連事務総長Secretary Generalの憲章

外活動によって、さらに拡大させられてしまった。即ち、1993年12月2日、ガリButros Butros

Ghali国連事務総長(1922.11.14~,在職’92.1~’96.12)が明石 康(1931.1.19~)

国連事務次長をUNPROFOR(約2500名で構成)統括を任務とする“旧ユーゴスラビア問題担当

事務総長特別代表”に任命し、翌94年2月には、セルビア人武装勢力に対する空爆をNATOに対

して承認する権限を彼に付与している。実際に、彼の承認を得て、NATO空軍機が同年4月10日

以降累次に亘り、サラエボ周辺のセルビア人勢力に空爆を実行した。つまり、ユーゴ空爆

(1999.3.24~6.10)の5年前にNATOの軍事行動は旧ユーゴ紛争で国連PKOに協力する形

で一応の合憲性prima facie constitutionalityを取得していたのである(尤も、攻撃対象が国家

という完全な国際法主体であるか、単なる武装勢力という不完全な国際法主体であるかの違いは

あるが)。但し、ここに所謂“一応の合憲性prima facie constitutionality”とは、事務総長のポス

トの政治的性格と彼の権限の自由裁量的性格を前提として成り立つものであり(19)、彼は自らの行

動の結果につき政治責任が追及されることを覚悟すべきものであった(20)。

言うまでもなく、PKOの一環としてサラエボ周辺のセルビア人勢力に対して加えられた空爆と主

権国家たるユーゴ連邦に対する空爆とは同列に論じられるものではない。しかし、いずれも地域的

機構たるNATOによる軍事行動であって、旧ユーゴ紛争とコソボ紛争は欧州に固有且つ同根の民

族紛争として、いわば、なし崩し的に地域機構たるNATOが国連から紛争解決主体たる地位を承

継して紛争解決にあたったものと解さざるを得ない。こうした事情を生み出した一つの要因として

“旧ユーゴ問題担当国連事務総長特別代表”たる明石 康(1931.1.19~)の旧ユーゴ問題紛争

当事者に対する調停活動の不調があった。同氏はカンボジアでのPKO(国連カンボジア暫定統治
機構UNTAC,’92.1~’93.9)代表としてカンボジアの復興を実現した実績を残していた。その

彼にとってUNPROFORの統括は2度目のPKOであった。アジアの先進国日本出身の同氏は同じ

アジアのカンボジア国民から見れば、PKO代表にふさわしく尊敬に値する人物として認識は一致す

るであろうが、旧ユーゴ地域に分散混在する各民族集団にとっては自分たちの紛争の本質を理解

し得ない他地域からきたよそ者として彼を認識せざるを得なかったと思われる。ここに彼のPKOが

不調に終わらざるを得なかった遠因がある。

事務総長の憲章外活動たる周旋mediationの有効性についてはつとに指摘されているが(21)、明

石の事務総長代理としての職務の不調は、国連機関たる事務総長の責任に着せられるべきもので

あり、紛争解決主体としての国連が後退し地域機構たるNATOによる紛争解決が求められる事実

上の与件を提供してしまったといえる。NATOにとっては、ヨーロッパ最初のPKFたる

UNPROFORに対する軍事協力としてのセルビア人武装勢力に対する空爆(1994.4.10以降

累次)も主権国家ユーゴに対する空爆(1999.3.24~6.10)も、「国債の平和及び安全

international peace and security」(Charter of the UN,§39)を脅かす同根の継続的民

族紛争に対する地域的機関による強制行動enforcement action として統一的に認識されてい

たと解しうる。このようなNATOの主観的地位は、ユーゴ空爆の側面に限って言えば、国連安保理

が持つ強制行動の権限を、「安保理の機能不全impotence of the Security Council」(22)を

理由として緊急避難的に代位行使したものと理解し得よう。「国際の平和及び安全の維持

maintenance of international peace and security」という最重要の国際公益の帰属主体

は国連が代表する国際社会(23)である。緊急避難権right of emergency は伝統的国際法の下

では、言うまでもなく国家の基本権として論じられてきたが、国際公益観念が成立した20世紀に

は、国際連盟や国際連合のような一般的国際機構とは別個に国際社会そのものの団体的性格=

法人格性legal personality を承認することも、社会学的にも法理論的にも可能であると思われ

る。国際社会と国連の関係は、国家とそれを代表する政府の関係を類推して考察できることを

NATO軍のユーゴ空爆が図らずも教えてくれたのではなかろうか。そうであるならば、ユーゴ空爆

は、最重要の国際公益の侵害を目前にした国際社会の緊急避難emergencyであり,NATOが国

際社会の機関として緊急避難の任務を遂行したと解釈することができる。NATO軍のユーゴ空爆は

本来国連が担うべき機能を緊急に代位行使したという意味で手続法的瑕疵はあるものの、あくまで
国際社会(=国際法団体)の緊急避難であったという意味で自然法的及び実体法的正当性

rightousnessを認めざるを得ないと思われる。又、NATO軍によるユーゴ空爆はロシア連邦や中

国の反対を押し切って実行されたが、国際平和維持のための強制行動というその目的と機能の点

で、かろうじて合憲性をも取得している。さらに、NATO軍の国際法上の地位については、

UNPROFORへの軍事的協力関係を通じてコソボ問題に関しても強制行動をとる既得権vested

rightを取得していたとみなすこともできよう。特に1998年11月13日、96時間の猶予期限付で

ユーゴ空爆のための臨戦体制命令を発出してからのNATOは、旧ユーゴ問題の継続的民族紛争

の最終局面にあるコソボ紛争についても、NATO自体の存在理由raison d’etreをかけて取り組

んだ形跡が看取され、紛争解決主体としての地位を既得権として獲得していたとみなすことが可能

である。ここに国際紛争の解決にかんする安保理の国連憲章という条約上の権限(Charter of

the UN,§24,39)と、慣習国際法上存在が確認されている既得権との対立矛盾という興味深

い論点が浮上しているそかそ、この論点については、本稿の直接のテーマではないのでその存在

を指摘するにとどめる。


 [注]

(16)野林 健「政治的武器としての経済制裁」国際法外交雑誌第89巻3・4号pp.114~139.

湾岸戦争Gulf War(1991.1.17~2.27)の際にも強制行動を容認する決議

(SCR678-1990.11.29)を採択する前に、安保理は対イラク経済制裁決議

(SCR661-1990.8.6)及び同強化決議(SCR664-1990.8.25)を採択していた。特に後

者の決議では、経済制裁の実行性を確保するための武力行使が容認されているが、これは経済制

裁の有効性が歴史的に立証されているからであるといえる。Cf.鳥井 順『軍事分析:湾岸戦争』第

三書館刊1994esp.pp.208~220.

(17)1970年代以降、先進諸国が相次いで死刑廃止に踏み切った。特に、欧州理事会Council

of Europe加盟国はトルコを除き22ヶ国が死刑を廃止した。この結果を踏まえて第6議定書が成

立したのである。この22ヶ国を含め、現在、世界の58カ国が死刑を全面廃止している(1997年3

月現在、Amnesty International調べ)。先進国で死刑を存置しているのはアメリカ合衆国(州に

よって対応が異なり、1985年現在で37の州が依然死刑を残している)と日本だけである。こうした
状況を観ると、死刑制度を廃止しているか否かが文明国か否かを判定する基準として、尐なくとも

ヨーロッパ地域国際法(条約及び慣習法双方)で確立しているといえる。ユーゴ連邦(死刑を存置して

いる)はヨーロッパ地域国際法のこの国際標準international standard(文明国標準)にも適合し

ない非文明国的性格の濃厚な国家として他の欧州諸国から判断されたはずである。このような対

ユーゴ観が後のNATO軍による空爆のひとつのコンテストになっていた点も指摘しておく価値があ

ると思われる。Cf.佐伯監修(ロランド=カーメン著』『アメリカ刑事手続法概説』第一法規刊1994,

esp.pp.460,466~467;imidas2000,p.615.

(18)見よ、『ジュリストno.1146(1998.12.1)』p.15.

 常設の国際刑事裁判所が未成立のため、民族浄化ethnic cleansingの名の下に行われた「重

大な国際人道法違反」を処罰し平和を回復するという憲章第7章に基づく緊急の暫定措置として、

旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(International Tribunal for the Prosecution of

Persons Responsible for Serious Violations of International Humanitarian Law

Committed in the Territory of Former Yugoslavia since 1991)及びルワンダ国際刑

事裁判所(International Criminal Tribunal for the Prosecution of Persons

Responsible for Genocide and Other Serious Violations of International

Humanitarian Law Committed in the Territory of Rwanda and Rwandan

Citizens Responsible for Genocide and Other Such Violations Committed in

the Territories of Neighboring   States between 1st Jan. and 31st

Dec.1994)がそれぞれ安保理決議(SCR825-1990.5.25,SCR955-1994.11.8)で

安保理の補助機関として設置された(但し、任務遂行にあたり、司法機関として安保理から独立の

地位を保持する)。Cf.ibid.,pp.4~28.

 ところで、常設の国際刑事裁判所International Criminal Court,ICC設立のための外交会議

が1998年にローまで開催され(6.15~7.17)、国際刑事裁判所設立条約Rome Statute of

 The International Criminal Courtが採択された(7.17,但し2000年1月10日現在未発

効)。この会議に我が国代表団々長として出席した大和田 恒(1932.9.18~)は、国際刑事裁

判所が「将来の事態についてこれがどう機能するかについての不確定性から来る懸念ないしは不

安感があることは事実です。そういう中で米国としては、旧ユーゴスラビア国際刑事法廷、ルワンダ
国際刑事法廷のときとは全く違った判断を迫られたと言えるでしょう。特に外国に軍隊を派遣する可

能性が高い立場に置かれている国として、米国は、第二のユーゴスラビア、第二のルワンダのよう

な事態に対して、検察官の立場から国際社会としてどう対処するかという見地ではなくて、自国の

国民が被疑者の立場に置かれる危険にどう対処するかという、いわば被告席に自分を置いてこの

条約を検討することになった」(ibid., p.23)と論じている。この文脈から汲み取れるのは、アメリ

カの軍事力をも規制するほどに成長・確立した第二次大戦後の欧州主導型の国際人道法及び国

際人権法の存在である。

(19)事務総長の憲章外活動に一応のprima facie合憲性が推定されるのは、彼に広範な自由裁

量的行為が認められているからであるが(Charter of the UN,§98,99)、その成否は彼の個

人的見識と力量に負うところが大きいといわれている。“In effect, the Secretary General

has considerable discretion and much has depended upon the views outlook

 of the person filling the post at any given time”(M.N.Shaw,INTERNATIONAL

 LAW,3rd ed.,Grotius,1991,p.715).ショーShawは、事務総長の権限拡張に大きな足

跡を残した人物として第2代事務総長ハマーショルドDag Hammarskjord(スウェーデン、1905

~61,在職’53~’61)を積極的に評価している(ibid.,p.715)。ハマーショルドは伝統的PKO

の理念である防止外交preventive diplomacyを提唱し、UNEFⅠ(1956.11~1967.6)を設

置し、事務総長として始めて憲章§99を発動して約2万人のコンゴ国連軍ONUC(1960.7~

1964.6)を派遣したたことで知られる。

(20)ガリ第6代事務総長Butros Butros Ghali(1922.11.14~,在職’92.1~’96.12)

は、それまで実施されていた23のPKOを更に19新設し国連の財政難を深刻化させてしまった。

又、彼の在任中、本稿で論じたUNPROFORを始め、平和執行的なPKO(UNOSOMⅡ,

SCR814-1993.3.26,term’93.3~’95.3)を展開したが多くの困難に直面した。そのた

め、アメリカはガリの事務総長再選に安保理で拒否権を行使し(Charter of the UN,§97)、彼

の再選は実現しなかった。Cf.外務省作成『国連平和維持活動(PKO)と日本』;奥寺=小寺編『国

際法キーワード』有斐閣刊1999,p.202.

 UNPROFORは「数十にのぼった安保理決議によって、次々と新しい任務を与えられていった。

それらの任務は人道援助活動の保護、サラエボ空港の安全の確保、サラエボ周辺とその他の地域
からの大型武器の撤去の監督、安保理が設定した6箇所の安全地域の保護などを含んでいた。こ

れらの任務のあるものは、憲章第7章のもとで、強制的な力の行使を含んだものとして決定された

が、それ以外にも、任務の性格上、その遂行には武力や強制力の行使がほとんど不可避であるも

のもあった。とくに困難をもたらしたのは、UNPROFORは同時にまだ伝統的PKO型の当事者の

同意と協力を必要とする任務をも負っていたことで、この相容れない二種類の任務の混在は、この

活動とその構成員を、甚だしく困難且つ危険な状況におくこととなった」志村尚子『国連の平和維持

活動』(横田洋三編《国際組織法》有斐閣刊1999,p.137)。

(21)林 司宣『国連事務総長の周旋活動(1)(2)』国際法外交雑誌第90巻第1・2号。林は、事務総

長の周旋活動の特徴は超大国米ロの同意を取り付けた上で、PKOが展開中の地域の紛争当事者

に圧力をかける点に典型的に出ていると分析している。See,ibid.,esp.p.60.

(22)Shaw,ibid.彼は、大事なときに役に立たない常態にある安保理を“インポテンツ

impotence”と皮肉っているが、言い得て妙である。

(23)ここでいう国際社会とは、論者によっては「国際法団体Voelkerrechtsgemeinschaft」(Cf.

田畑茂二郎著『国際法Ⅱ(新版)』有斐閣刊1973,pp.37,38)とも言われている。「国際社会」の

英訳語として“family of nations”や“international society”や“international community”

が多用されているが、法的組織体ないし規範的団体という側面に着目すると“international

community”という表現が最適である。三者の意味やニュアンスの違いについては見よ。拙著『国

際法講義(全訂新版)』信山社刊2000,p.55.;Cf.Antony Anghie,“Finding the

Peripheries : Sovereignty and Colonialism in 19th Century International Law”,

HARVARD INTERNATIONAL LAW JOURNAL,Vol.40,p.4.

								
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