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					       創造的言語学習 Produktive Language Learning

          「読む」 「聞く」 「書く」 そして 「話す?」

                                              吉島 茂


 1.はじめに


  日本の外国語教育において、受容型学習から発信型*1への転換が求められてから久しい。
 その流れの中で、文学教材はかつての王座を譲り渡し、時には最前線の外国語教育からは
 姿を消してしまったかの感さえあった。と言うよりはイデオロギー的に排除されたと言っ
 てもよい。その裏には当然、相変わらず文学テクストに固執する多くの外国語教師がいた
 という、「進歩派」のいらだちのようなものもあったと考えられる。しかしその文学派の
 使用する文学テクストも以前の水準を保つものではなく、一昔前の語学教師が見たらその
 程度の低さを嘆くことであろう。もちろん、教師がテクストを選択するときにはそれなり
 の意識、言語教育の立場から見た習得目標があるはずである。その目標自体が、外国語学
 習の目標が、思想や情報の受容・輸入から脱却し、発信型・自己表現型(その現実の内容
 は不問にすることにして)に転換して行くなかでは文学テクストの位置づけも当然見直さ
 れなければならなかったはずである。しかしこれは、極端から極端に動きがちな教育会の
 現場を考えると、かなり困難な作業でもあったと思える。しかしこの 10 年ほどの間に文学
 テクストの外国語教材としての位置も徐々に見直されて来ている。私見では、異文化間の
 コミュニケーションを図る上で、それがある程度以上の教養に基づいたものであるべきだ
 という理想的な要求・目標を掲げるならば、人間の知的営みの重要な一角を占める文学と
 いう分野が無視されていいはずはない。ただ、どう扱うか、他の重要な教材分野との関わ
 りをいかに整合性を持って構築していくか、単なる文学の授業でもなく、文学研究を無視
 することなく、その文学教材の持つ特質を十分ふまえた上での、教授法の樹立が「文学復
 権」の課題なのである。
  筆者はドイツ語教育界の一員として、この研究プロジェクトに参加しているわけだが、
 その言語学者としての出自を離れて、この問題に光を当ててみたい。



*1 この方向が極端に進められると現に中国や韓国の英語教材に見られるように、中国語あるいは朝鮮語の
   教材を単に英語に直しただけに過ぎない、相手の文化を無視したものが出来上がる。

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   2.「外国語としてのドイツ語」内での文学テクストの変遷


   2.1.ドイツ語学習と文学作品
     筆者が Germanist として出発した 60 代は、ドイツでは文学研究と言語(ドイツ語)研究
   がそう厳密に区別されていなかった。当時の言語研究はほぼ書かれた言語を対象としてい
   たし、また、ドイツ標準語はまずは書き言葉の言語だったから、文学作品はドイツ文学の
   研究の対象としてだけでなく、ドイツ語学にとっても主要な研究対象であった。そうした
   環境の中で育ったドイツ語教師はそれが「外国人のためのドイツ語」であろうと、ドイツ
   語を母語とする人々のためのドイツ語教育であろうと文学テクストを使うのが主流であり
   自然なことであった。ドイツの外国語教育、つまり英語教育、フランス語教育を見ても実
   状はそう変わらない(Saarbrücken というフランスと国境を接し、第二次世界大戦後は一時
   フランスの統治下にあった所でのフランス語教育も現代風の oral 面を重視したものではな
   かったという(筆者のドイツ人の友人の言))。ただ、英語教育に付いてはすでに 19 世紀
   末に Vietor*2 が文字言語から音声言語へと外国語の教授対象の重点を移行させるべきだと
   主張した点は、その当時の一般言語学の反映として興味深いが、それがそのまま順調に発
   展したとは言い難い。構造主義言語論の立場を始めとしてその時々の、言語研究の時流に
   乗って外国語教育も左右に揺れ動いて来た。「外国人のためのドイツ語(Deutsch als
   Fremdsprache(以下 DaF)」という概念が生まれ、München 大学に初めて講座が設立された
   のは 1977 年である。(ドイツには第一次世界大戦で敗北し、植民地の全てを失うまでは、
   植民地政策の一環としてのドイツ語教育 DaF があったはずであるが、それがどんなもので
   あったか、具体的な研究は進んでいない。)
     DaF 内での文学テクストの見直しは、二つの基本的教育態度にその源を見ることが出来
   よう。第一は異文化教育的外国語教授であり、もう一方は学習者中心主義の教授法概念で
   ある。前者は、それ以前の学習者がドイツ語圏の言語・文化に習熟し、理想的には完全な
   ドイツ的ドイツ語を話す外国人を造ろうとした kommunikativer Ansatz (communicative
   approach)に対する反省から生まれたもので、コミュニケーション能力の開発を重視しな
   がらも、異文化の理解を同時にねらい、学習者を学習対象言語 taget language への従属的な
   立場から解放しようとするものであった。また教育心理学的な観点からも、言語教育が学
   習者の立場、状況を十分ふまえた上で行われるべきだとの学習者中心主義の立場(leraner
   centerd)から、その学習動機にも大きな関心が寄せられ、その分析が始まった。DaF の学習
   者がどういう動機で外国語を習うかは千差万別であり、そのおかれた状況、その学習した


*2 Wilhelm Viëtor: Der Sprachunterricht muss umkehren.(1882/1886) Von Quosque Tandem

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言語で将来何をするか、何が出来るか、その可能性によって、学習意欲も、身に付けたい
と思う能力 skill の種類も当然大きく変わって来る。たとえば学習目標言語の勢力範囲から
距離的に遠い所では、また経済的・国際的交流が活発でないところでは、日常生活のため
の言語能力の獲得は、いくらそれが言語の機能の根本にあると主張しても動機付けとして
は弱いものにならざるを得ない。そうした中で、それでも外国語を学習するとすればとい
う条件付きであるが、文学テクストはユニヴァーサルな関心を引く対象として見直される
のである。ドイツ製のコース教材の中で、広く使われている Themen のシリーズの2巻か
らは3部構成の各課の最後の第3部では文学的フィクションが織り込まれているし、第1
巻でも各課の第3部には広い意味での文学的テクストが取り上げられている。また Die
Suche という、スイスの有名な作家 Magnus Enzensberger が共同執筆したコース教材は、中
心になるテクスト部分が探偵物のフィクションである。


2.2. 文学テクストの扱い方の理論的背景
     この DaF の文学テクストの扱いの理論的背景には文学研究の新しい動きを認めることが
出来る。その直接的インパクトを与えたのが 1976 の Wolfgang Iser の「行為としての読書」
*3   だという。こうした方向の延長上に新しい文学テクストの扱いを巡る提案がなされてい
る。手に入りやすい物として Swantje Ehlers の Lesen als Verstehen「理解行為としての読書」
が挙げられるが、最近 1998 年に発表された野口薫の「ドイツ語授業の中の文学テクストの
扱い」も参考になろう*4。後者は Ehlers との共同授業の体験もふまえて提案を行っている。
野口はその引用箇所から判断する限り、Iser の文学受容論を包括的に理論的な拠り所とし
ていると受け取れる。


                      作品構造とその受容者との相互作用が読書の基本を
      どのような文学作品を読む場合にも、
     なす。(...)テクストそのものは、読者が作品の対象を生み出すための様々な『図式化
     された見解』を提供しているだけで、こうした読者による対象の産出がテクストの具体化行
     為となる。
      このように考えると、文学作品は二つの極を持つと結論出来るであろう。すなわち、その
     二つは、芸術的な極と美的な極といいうるものであって、前者が作者によって造られるテク
     ストを指すのに対して、後者は読者が成し遂げる具体化をいう。(Iser/轡田 p.33-34)


*3 Wolfgang Iser: Der Akt des Lesens 1976 轡田収訳: 行為としての読書. 岩波現代選書 1982
*4 Swantje Ehlers: Lesen als Verstehen                            .
                                       (理解行為としての読書) Fernstudienangebot Deutsch als Fremdsprache
  (通信教育:外国語としてのドイツ語)                         第2巻 1992 Berlin . これは Deutsche Institut für Fernstudien an der
  Universität Tübingen, die Univerität Kassel, Goethe-Institut の3機関が Deutscher akademischer Austauschdienst
  と Zentralstelle für das Auslandsschulwesen の協力のもとに出している通信教育方式のドイツ語教授法の独
  学のためのシリーズですでに 10 以上が出版されている。課題をやって Kassel に送って、ある量をこな
  すと一種の終了証明書が発行される。

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      従って、この語の意味は、このドラマの意味は、この小説の意味はといった旧来の問いは、
    虚構テクストを読むと、読者にはなにが生じるか、という問いに置き換えなければならない
    (Iser/轡田 p.36)


こうした見解から、新しい文学テクストの取り組みを模索し、強いては DaF にも援用しよ
うとしている野口他に対し、ドイツの「国語」教師の研究会 Göttinger Arbeitsgruppe*5 では
同じ Iser の文学受容の立場から出発しながらも、テクスト内に存在する「空所 Leerstelle」
に注目している。


2.3. DaF とドイツの「国語」教育の関係
  筆者がこの研究会とコンタクトを持ったのはドイツの言語教育に対する関心からであっ
た。DaF で communicative approach と言わずとも、ドイツ語的な言語運用を身につけよう、
教えようとするならば、そのドイツ人の言語行動を規定しているのが何かを知らなければ
ならない。その重要な手懸かりが「国語としてのドイツ語」すなわち国語教育、言語社会
化 language socialization*6 にあると考えたからである。
  もともと DaF という学科は存在していなかったし、植民地時代のそれは消滅してしまっ
ている。現在の DaF は Germanistik と外国語外国文学(Anglistik、Romanistik)の両学問領
域を土台にして出来ている。最近の異文化アプローチも Bayreuth 大学を基地とする
                                                        (外国ドイツ文学)
Germanist の A.Wierlacher を先頭とする研究者たちの Auslandsgermanistik
のイニシアティヴに負うところが大きい。日本の「国語学」と「外国語としての日本語」
は、異質な面を見せながらも、共通の問題も多く抱えているのであるが、その事情はドイ
ツの Germanistik と DaF の間でも変わりはない。



2.4.ドイツの国語教育内での文学テクスト
  このグループの活動と DaF の関係を述べる前に、ドイツの「国語」教育*7 について触れ

*5 正式名は Göttinger Zentrum für Deutschlehrinnen und Deutschlehrer. Göttingen 大学の Germanistik 研究室
  の有志を中心にしたドイツのドイツ語教師つまり「国語」教師の研究会である。州文部省の援助も得て、
  Niedersachsen 州だけでなく広く周辺の州からも「国語」教員が参加している。取り上げるテーマは、文
  法の授業から、Video の活用、評価の問題まで実に様々である。ほぼ月1回の割で、専門家を招いた講
  演会か、Workshop を開催し、年に1度は数日続く集中的な集会(Tagung)がある。
*6 Shigeru Yoshijima: Unterschiedliche Sozialisation -unterschiedliches Sprachverhalten. In: H.Nitta u.a.(Hrsg):
  Kontrastive Studien zur Beschreibung des Japanischen und des Deutschen. München 1999. S.303 - 324
*7 ドイツの学校制度では日本と違って教員は一科目を専門的に担当するのではなく多くが二つ以上の科
  目を担当し、ドイツ語と英語、ドイツ語とフランス語、あるいはドイツ語と体育といった組み合わせが
  あり、もともと一つの科目を純粋培養的に保持することは困難なようなシステムになっている。文学的

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ておく必要がある。この領域でも文学作品は以前に比べると占める割合が少なくなってい
る。社会全体の文学離れと並行した現象とも言える(最近はまた多少増える傾向にある)。
しかし、学校教育の中で「国語」を削除すること は考えられないし、そうなると文学作
品も当然多かれ少なかれ教科の対象になる。高等学校卒業試験(Abitur;オーストリー、
スイスでは Matura;同時に大学入学資格でもある)の対象として具体的に作家の名前・作
品が挙げられ、取り上げるジャンルも指定されている(Pensum)。こうした中で生徒に受
けの悪い分野も当然出てくる。そうした不人気な対象をどう魅力あるものにするか、ドイ
ツの国語教員たちの「涙ぐましい」努力がこの研究グループに形となって表れたのである。
つまりドイツの国語教育の中で文学教材をつかった授業をいかに活気のあるものに出来る
かの試みである。
 従って、この小論ではそうした中から筆者が実際に体験した二つのテクストの扱いを紹
介しようと思う。一つは英語のテクストのドイツ語訳で E.Hemmingway の“Cat in the Rain”、
もう一つは譚詩 Ballade である。後者は、教科内容として指定されているものの、生徒たち
の乗りが非常に悪く、国語教員の悩みの種であったという。両者ともグループの workshop
で再三取り上げられ、現にその成果は研究会の参加者によって現実の教室で実行に写され
ている。*8
 筆者は上述のように始め外国語教育の目標・対象を検討する目的でドイツの国語教育に
関心を持ったのであるが、そこで考えられ、試みられていることは、形を変えた上で外国
語教育にも応用出来るのではないかと考えて、ここに取り上げることにしたのである。


2.5. Göttinger Gruppe の理論的背景
 このグループが標榜する創造的文学教育を支えている中心概念は、前述のように同じ
Iser でも次の引用箇所にあると考えられる。


    ...空所はテクストのセグメント相互の結合を保留すると同時に、結合のための前提となっ
  ている。ところが、空所そのものは何ら特定の内容を持つことはあり得ない。空所の機能は
                               結合の仕方を指示してい
  セグメント相互の結合が必要であることを合図するのみであって、
  るわけではない。空所は〈テクスト内の間(ま)〉としては全くの空白であるが、この〈空
  白〉から、読者を構成活動に向かわせるに足る原動力が生じる。テクストのセグメントが一
  見何の関係もなく連続するところには、必ず空所があり、テクストの秩序に対する期待感が
  破られる。(同上 p.334)

  創造だけでなく他のメディアにも手を広げているのである。
*8 筆者が参観した4年生のドイツ語の授業では、あるテクストの1場面を、教室の真ん中の広くなったと
  ころで数人の生徒にダンスでもするように実演させていた。その教員(ドイツ語以外に数学も教えてい
  る)の話では、生徒たちはそうしたやり方に慣れているので、合図すれば勝手にやり出すようになって
  いる、と言っていた。

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  ...セグメントそのものは何らの確定性も内包していないが、他のセグメントとの結合を待っ
                     この性質は芸術的な媒体一般について認められ
  て初めて確定性をうると言うところにある。
  よう。(同上 p.335)


 この Göttinger Arbeitsgruppe の牽引車の一人である Klaus Müller-Dyes*9 は次のように後に
具体的に紹介する workshop のなかで理論的根拠を次のように述べている。


     「物語自体はいくらよく見ても何も語ってはくれない。それは Umberto Eco が本一冊を
   費やして記述したあの「開かれた芸術作品」の部類に属するものである(Das offene
   Kunstwerk. 1932)。しかし、文学研究家ならともかく、読者としてはこの事実をそのまま
   受け入れるわけには行かない。テクストはわれわれ読者にいわばこの謎めいた事実関係
   (ネイローゼ気味のアメリカ女性と意地悪い部屋係の女中?)について思いを巡らさない
   わけには行かぬようにしている。これがまさしく Wolfgang Iser が言っているように、働き
   かける力 Appelstruktur(“Die Appelsturktur der Texte - Unbestimmtheit als Wirkunsgbedingung
   literarischer Prosa” 1971)なのである。この要素から読者への呼びかけ、働きかけが発揮さ
   れ物語の先行きを想像させ、そうやって読者に満足のいく結末が生み出されるのである
   が、この要素は物語の構造に潜んでいる、異なったパースーペクティヴ、あるいは見方の
   中に存在し、それらの間には意味の空間 Sinnlücke が口を開いているのである。この空間を
   Iser は 空所 Leerstelle と読んでいる(“Der Akt des Lesens”)。この際注意すべきは Iser が
   Roman Ingarden (“Vom Erkennnen des literarischen Kunstwert” 1968)で言っている不確定箇所
   Unbestimmtheitsstelle とは厳格に区別していることである。
       不確定箇所は、文学テクストがそのフィクション的性格によって、つまりその限定さ
   れた指示性によって図式的 schematische な下図を画き、それを読者が充実(具体化)する
   ことになるのに対し、空所はその構造自体に由来するものである。Iser はそれ故テクスト
   の分析 Analyse を空所を突き止め確定することとし、解釈 Interpretation はこの空所を埋め
   ることだとして区別している。読者の創造的参与はこの後者の作業にある。ここにおいて
   読者は真の意味で作者と同様に創造的になるのである。Ingarden の言う具体化は、Iser に
   よれば作者よって作り出されたものの単なる補充・補完に過ぎないということになる。不
   確定箇所と言おうと空所と言おうとこれは読者をしてテクストとの取り組みにおいてそ
   の創造性を発揮することを要求する挑戦なのである。
     もちろんこの創造も作者のあるいはテクストの意図の、用意した導線に沿って行われる
   のはもちろんのことである。その点についはどの解釈学間にも意見の差はないし、受容美
   学もその例外ではない。しかしこの読者の創造性はこうした遊びを許すものゆえに解釈の
   規則に反する物とされ、それ故単なる恣意との烙印を押されていた。(Iser とアメリカ文
   学心理学者 Norman Holland との“Akt des Lesens”中の論争を参照のこと)
     最近の読者本意の研究方法、脱構築主義 Dekonstruktivismus は、フランスの Derrida やア
   メリカの de Man、またアメリカの reader-response criticism(Stanley, Fish)、はたまたドイ

*9 1966 年から 70 年まで東京大学文学部ドイツ文学科の外国人教師を勤めた。            現在ドイツ Göttingen 大学の
  Germanistik の Wissenschaftlicher Rat(講師)。1937 年生まれ。

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    ツの構築主義者(S.J.Schmidt, Scheffer)がそのいい例であるが、この数年来解釈学によっ
    て用意された枠を拡張しようと試みて来た。
      Derrida のように言葉と語りが原則的に「無限の有意性の遊び」と定義され、解釈が「無
    限の自伝的行為」(Scheffer)とされるならば、文字通り全てが許されることになる。
    S.J.Schmidt がその極端な構築主義でこの方向を首尾一貫して追求し、それ故に文学研究の
    古くからの高貴な営みである解釈の行為を学問の枠外に追い出したのに対して、脱構築主
    義は別な方向を志向し、記号とテクストの両者の物質的側面をその研究対象の中心におい
    ている。正否の判断のよりどころは唯一テクストの中にあるのであるとすると、別な諸前
    提のもとではあるが、ある意味でわれわれの研究の出発点に回帰してきたことになる。厳
    密な文献学の原則への回帰である。たとえそうであったとしてもテクストとの創造的取り
    組みは -学校の中であろうと他の所であろうと- テクストへの意味の付与を読
    者の自由な手にゆだねる重要な手段であることには変わりはない。




3.二つの workshop


3.1. 日本での出張 workshop
  第一の workshop は 1998 年 10 月2日に、東京大学総合文化研究科言語情報科学専攻の枠
内で行われた。使用したテクストは E.Hemmingway: Cat in the Rain*10 の原文、ドイツ語訳
Katze im Regen*11、日本語訳「雨の中の猫」*12 であった。筆者はその際補助に回った。
  このテクストを使った Workshop あるいは実験は、筑波大学ドイツ文学科(大学院と学
部混成グループ)でも Müller-Dyes と同大学井上修一教授が指導して、また東京女子大学
英文科でも本科学研究のメンバーの斉藤兆史助教授によって、合計三カ所で行われた。
  以下に述べるところはその三つの workshop をまとめたものである。


3.1.2.ステップ1
  テクスト Cat in the Rain は、参加者の言語能力に応じて、英語の原文、ドイツ語、日本
語の翻訳が(前もって)配られた。第一の課題は、明らかに未完成のこの小品の結末をそ
れぞれが得意とする言語で書くことであった。
  東京大学の場合は、英語、日本語、ドイツ語の三種類のテクストが使われ、従って三つ
の言語での結末が出来た。参加者が英語を専攻する者、ドイツ語専攻の者、中国、韓国か
らの日本語専攻の留学生、日本人の日本語教師、またこれ以外の言語を専攻する者と多様


*10 原文は小論の末尾 Appendix に引用しておいた。                      読者も workshop のやり方で自分の好きな言語で結末
  を書いて見ると、この workshop の意図がより理解出来るであろう。
*11 Annemarie Horschitz-Horst. Sonderausgabe. Europ.Buchclub. Stuttgart
*12 斉藤兆史:テクストと文体.「文学の技法」53~71 頁 東京大学出版会 1996

                                      - 161 -
であった。
 結末は、東京大学の場合はその場で書かせたが、筑波大学の場合は予告の上にその場で
書かせ、また東京女子大学の場合は、1週間前に、あたかも途中で故意に中断したように
細工した*13 コピーのテクストを渡し次の3点を指示した。
 1. 続きのテクストを英文でを家で用意して、授業中に書く。
 2. テクスト中に2回出てくる猫の異同に注意する。
 3. 何故「同じ」または「違う」と判断したのか、その理由を英語で書くこと。


 いずれの場合でも、書く前に次の指示が与えられた。


 続きの書き方は基本的には言語、内容、量*14 とも自由である。終わり方にも制限を設け
ない。具体的な書き方としては:
    1.原文とおなじような調子で終わりまで書く。
    2.夫人の独り言として
    3.夫の立場から
    4.夫人と部屋係の女中の会話
    5.後日談、などなど
  が考えられると。要するに自由にしたのである。


3.1.2. ステップ2
 次にこうして出来た続編の「作品」を互いに読んで聞かせる。その際教師は何ら口を挟
まない。他の参加者(生徒)と同じように聞き手に回る。一通り読み終わった後で互いに
その結末の付け方に付いて比較議論をする。この過程で必要ならばテキストの基本的読み
違いなどは指摘することになる。


 次に、workshop で英語、ドイツ語、日本語で書かれた結末をいくつか紹介する。テクス
ト中に誤りがあっても理解出来るか、あるいは推測可能ならば訂正していない。


   【例1】
     She was not pleased and a little angry.
     ‘Why are you unhappy?’the maid said, you want a cat, don’t you?’
     ‘Yes,’she answerd and recieved the cat!


*13 3章の anticipation の項参照。anticipation を task として課するときにやる手である。
*14 東京女子大学の場合は 10 行程度に制限した。

                                          - 162 -
    Actually, she did not want a cat, but have long hair, or any fun. It was impossible to find a
    cat in the rain, so she said she wanted a cat.(東京女子大学言語文科学科2年)

  【例2】
    ‘Oh’, his wife cried, ‘It is what I want to! Thank you so much.’ She held the cat and then the
    maid close the door. Gorge looked at her holding the cat on the bed for a while.
    ‘You got what you want right now. Is it enough for you?’
    George asked his wife, but she did not answer.(東京女子大学言語文科学科3年)

  【例3】
    ‘Oh, thank you,’ said George, ‘now you are satisfied, are’nt you, Daring?’
    ‘No, I don’t want a cat now!’ his wife shouted. To tell the truth, she don’t want anything at all.
  She was only bored because her husband didn’t pay attention to her.
    ‘勝手にしろ!’ George began to reading agin, and his wife began to cry.
  (東京女子大学言語文科学科3年)



   【例4】
    It was not the cat she wanted, but very pretty cat.
    “Thank you.” She said. “and say ‘thank you’ to him please.” The maid went away.
    “Cat!” she said. “I know,” he said and kept on reading.
    He didn’t show any interest in her and the Cat.
    She felt lonly, but the cat comforted her.
    Maybe it was not the cat itself, but the kindness of the master.
    Suddenly, she felt that she could live without the husband, if she had the cat. He said to him.
    “I’ll go out.”
    “See you later.” He said without looking at her.
    She never turend there.(東京女子大学言語文科学科3年)

  【例5】
    The maid taked the cat down in the room, and go out from the room. George looked around the
  room to look for his wife, but he couldn’t see her. George said, “Here is a cat. Pretty cat. You can get
  your cat. Come out, baby!” His wife didn’t answered. The next morment, he saw pretty cat which
  has long beautiful hair played withe the big tortoiseshell cat.
    It was still raining oudside.(東京女子大学言語文科学科2年)


 この英文の結末はいずれも東京女子大学言語文科学科の英文学専攻の学生の作品から借
用した。このグループは 64 名からなり、その意味で猫に関する解釈がどう分布するか、統
計的な意味はともかくとして興味深かった。1匹としたものが 17 名、2匹としたものが
45 名と圧倒的であった。不明が一人、アメリカ婦人を猫にしてしまい結局3匹になったの
(例 5)が一人いた。また他に子猫を集めてきて5匹にしたのも一人いた。

                                               - 163 -
  ここでは、後でいくつかの小グループに分かれて、それぞれの「作品」に付いて話し合
いをさせ、それを録音したが、それらを聞く限り、グループの話し合いの中で、または全
グループの討論を総合すると、この Hemmingway の小品の持っている問題点は大方取り上
げられていたと言ってよい。(後は教師が整理・確認するだけである!)


【例6】
„Ach, danke, das ist sehr nett von ihm”, sagte die       「あ、有り難う、マスターって気が利くわ」
junge Amerikanerin. „Aber... das ist nicht die           とアメリカ人の婦人は言った。「でも、私が
Katze, die ich eigentlich wollte, sie schaute die        欲しいと思っていた猫ではないの。」確かめ
Katze überprüfend an, die das Zimmermädchen              るように婦人は部屋係の女中が抱いていた猫
hielt, und dachte innerlich:                             に目をやると密かに考えた。「あー、今猫を
„Ach, wenn ich jetzt die Katze vor mir sehe, ist         目の前にすると、それは私が欲しいと思って
das nicht die Katze, die ich eigentlich wollte.          いた猫じゃない。それに...あんなにイタ
Und noch! ich wollte so sehr nach Italien                リアに来たいと思ってたのに、現に来てみる
kommen. Aber wenn         ich hierher komme, ist         と想像していたようなイタリアではない。ジ
Italien nicht so, wie ich mir vorstellte. Ich wollte     ョージとはあんなに結婚したかったのに、彼
George so sehr heiraten. Ich dachte, ein Leben mit       と一緒なら素晴らしいんじゃないかって考え
ihm wäre so schön. Aber in der Tat? Er                   たのに。でも現実はどう?彼ったら本のこと
interessiert sich nur für seine Bücher. Der Padrone      にしか興味がない。でも宿の主人は好きだっ
gefiel mir sehr. Ja, ich dachte, mit ihm könnte ich      た。彼となら人生も変わるんじゃないかって、
vielleicht ein anderes Leben führen. Mindestens          少なくともこんなに退屈じゃないと思ったん
müssste es nicht so langweilig sein. Aber er             だけれど。でも彼も私の欲しいものくれなか
konnte mir auch nicht bieten, was ich wollte. “          ったわ。」
Da fragte das Zimmermädchen: „Signora, was                   すると女中が尋ねてきた。「奥様、どうい
soll ich machen. Soll ich die Katze hier lassen          たしましょう?この猫をここにおいておいて
oder wieder nach draußen schmeißen? “                    よろしゅうございますか。それともまた外に
Die junge Amerikanerin überlegte sich einen              追い出しましょうか?」
Augenblick und sagte: „Das war zwar nicht die                若いアメリカ婦人は一瞬考えてから口を開
Katze, die ich wollte. Aber ich behalte sie bei mir.     いた。「その猫私の欲しかったのじゃないけ
Ich glaube, ich kann mit ihr gut auskommen.              ど、頂いて飼うことにするわ。この猫となら
Richten Sie bitte dem Padrone meinen Dank aus!“          仲良くなれるんじゃないかしら。マスターに
„Si“, sagte das Zimmermädchen und ging aus.              宜しく言って下さいな」
Die junge Amerikanerin sagte zu sich hin: „So ist        「はい、かしこまりました。」女中はそうい
das Leben. “ (筑波大学大学院生)                                  って出て行った。
                                                         「これが人生ね。」若いアメリカ婦人の独り
                                                         言が聞こえた。(筆者訳)


【例7】
„Mein Kätzchen!“ rief die Frau aus und eilte dem         Zimmermädchen   entgegen,   „mein   armes

                                                   - 164 -
Kätzchen - ach, du bist ja so nass geworden.              へ急いだ。「可哀相に、ああこんなに濡れち
„Nicht so schlimm wie der Padrone!“ erwiderte             ゃって...」「でもマスター程じゃありません
das      Zimmermädchen lachend und war im                 よ」と女中は笑いながら答えて、猫を床にお
Begriff, die Katze auf den Boden niederzulassen.          こうとした。婦人は濡れて黒く光
Die Frau aber nahm die vor Nässe dunkel                   っている猫が足を延ばして床に降りる体勢を
glänzende Katze eilig in ihre Armen auf, ehe die          とっているのを急いで腕に抱き取った。
Katze,    die   Tatzen       schon     dem    Boden       「奥様!」女中は叫ぶと、急に向きを変え
entgegenstreckend, ihn erreichte. „Signora!...“           て、「すぐ布を取って参ります。」と言うと
rief das Mädchen, dann aber rasch sich                    階段を急いで下りていった。婦人は「子猫ち
umwendend, „Ich hole sofort ein Tuch“, und eilte          ゃん」と何度も繰り返して猫をきつく胸に抱
die   Treppe     hinunter.     „Mein     Kätzchen“,       きしめ、ほほずりをした。ジョージはその間
wiederholte die Frau mehrmals, hielt die Katze            にベットから起きあがっていたが、あえて何
fest an ihrer Brust und liebkoste sie mit ihrer           も言おうとしなかった。そしてことの成り行
Wange.      George     hatte    sich     inzwischen       きを注意深く見守っていた。彼女の顔は彼の
aufgerichtet,   aber   verzichtete     auf   jegliche     目からは隠れたままだった。(筆者訳)
Bemerkung und betrachtete aufmerksam das
Vorgehen. Das Gesicht seiner Frau blieb von
seiner Sicht verborgen.
(東京大学博士課程)
「子猫ちゃん」そう婦人は叫ぶと部屋係の方


      【例8】
         アメリカ人妻は、その大きな三毛猫を見て顔をしかめた。「私がさがしていたのはこの
      子じゃない。もっと小さかったはずだわ」と彼女は言った。
         すると夫は「きっと君は二階から下を見下ろしていたので、この猫を小さな子猫だと思
      ったんだよ。ほらやっと君のほしがってた物を手に入れたんじゃないか」と言ってベット
      から起きあがった。
         彼女は夫の言葉にうなずきながらも心のどこかで自分の目は確かだと叫びたかった。三
      毛猫は彼女を見ると、不安そうに、ベットの隅にかくれるように座った。
         彼女はとまどっていた。自分が雨の中で探していた子猫は本当にこの三毛猫だったのだ
      ろうか。そうなら喜んで抱きしめてやらねば。彼女は猫の方に手を大きくひろげて呼んで
      みた。すると猫は最初は戸惑いながらも、前足から少しずつ歩み寄ってきた。彼女は猫を
      両手いっぱいに抱き上げ、まだ雨の降っている窓辺へと近づいて言った。夫はさっき飲み
      残したティーポットから紅茶を注いで独り言のようにこうつぶやいた。
         「もう旅行も終わりだな。俺たちは疲れてるんだ。なあ、もうそろそろここを引き上げ
      あげようじゃないか。」
         「そうね、雨ばっかりだし。まぶしい太陽がなつかしいわ。」と彼女は答えた。
      (東京大学修士1年韓国留学生)


      【例9】

                                                    - 165 -
     「おーい!メイドさんが猫を持ってきて下さったよ」
   ジョージが妻に言った。
     「え?本当?うれしい!」彼女は喜んでそう言って、戸口に近づいて、メードに抱かれ
   た猫を眺めた。
     「違うわ。」彼女は言った。
     「違いますか?お望みの猫をお持ちしたのですけれども、奥様...」メイドは言った。
     「この猫じゃないの。私がほしいのは。」妻は言った。
     「このあたりで猫と言いましたら、この猫しかいませんから、間違いないとおもいます
   けれども。」メイドは言った。
     「え?そんなはずないわ。」妻は言った。
     「いえ、この猫しかいないんです、奥様」メイドは言った。
     「そんなはずないわ。違うわ」妻は言った。
     「.........」メイドは何も言わなかった。
     「そんなはずないわ。ちがう。」妻はそう繰り返した。
     (東京大学修士課程日本語教師)


3.1.3 ステップ3 作品の鑑賞・討論
 ここで挙げた例は、作品中の「空所」をよりどころにした作業である。
 この空所の認定は、結末を書く前に確認し、クラスの成因の共通の認識としておくこと
が一つのやり方でもある。東京大学と筑波大学では Cat in the Rain を詳しく分析した論文*15
があったので、それを前もって配布しておいた。しかし東京女子大学の場合のように、互
いの結末を比べて行くなかで、その問題を意識し、確認していくという共同作業的な方法
も考えられる。時間がとれる限りは後者のやり方の方が、学生の主体性を引き出す上でよ
いと筆者は考える。
 この小編の空所はまず猫が一匹か二匹か、同じ猫なのか、違う猫なのか一切の手懸かり
がないことにある。それを反映して、それをどう解釈するかによって結末に差が出てくる。
もっとも結末を書くに当たっては、別ものとした方が書きやすいということはあるかも知
れない。同じだとすると、始めの子猫と後の大きな猫の差を何とかして説明しなければな
らなくなる。その差が東京女子大学の 45 対 17 に表れたのであろう。
 さらに、このアメリカ人夫婦の間の関係、婦人とホテルの主人との関係など(これらの
点は暗示的に表現されている)が絡んで、様々なヴァリエーションが生まれてくる。その
種類はここに紹介した以上に多様であった。「出来映えも」参加した教師(筆者を含めて)
より面白いものも多くあったし、中には最近の gender 論の影響からか、夫を一人でアメリ
カに帰し、婦人を自立させてパリで画廊を開かせてしまうようなものあった。



*15 註 12 参照

                            - 166 -
 次に、例9の作者がその結末につけたコメントを紹介しておく。

 1.上の例は、現実には猫は一匹しかおらず、大きな三毛猫を最初妻は子猫であると見間違
    えたという立場に立脚しています。
 2.最後の部分では、最初の自分の認識が間違っていたことが次第に認識されてきて、失望
    に変わって行く過程を表現したかったのですが。
 3.現実の生活や社会の制度に行詰まりが生じた時に、他の新しい生活や制度を一種の幻想
    としてあこがれると言う習性を人間は持っているが、やがて、その新しい生活や制度に
    も矛盾や欠陥が露呈して来るに従って、それに失望し、幻滅を感じる。この短編小説は、
    そうした人間の営みを、ごく一日の何気ない出来事の描写のなかに凝縮させているとの
    解釈の上に、上記を作成してみました。


 いちいち紹介はしないが、東京女子大学の討論の中でもこれと同方向の議論が交わされ
ていた。
 また、直接関係のないことだが、ドイツ語訳を使ったため、翻訳(同僚のドイツ人教師
は使用したドイツ語訳を評価しなかった)の表現を根拠に、参加していたドイツ人の DaF
の学生は、メイドがつれてきたのを死んだ猫と解釈した。die an ihrem Körper herunterhing
(彼女の体からぶら下がっているの)をそう読んだのである。


3.2. Workshop 譚詩
 3.1.で挙げた例は、作品中の「空所」をよりどころにした作業である。一方「空所」
とまでは行かなくとも「不確定箇所」が作品の中には往々にしてみられる。それが上に紹
介したように「空所」が構造的な性格のものであり、「不確定箇所」が限定されたフィク
ションの指示性に由来するものであるかの議論は、ここでは深入りしない。筆者の手の負
えるところではないのである。しかし、不確定箇所を出発点とした、もう一つの文学との
創造的取り組みを紹介したい。これも Göttinger Arbeitsgurppe の workshop の紹介で、筆者
自身参加し、一緒にやって見たその体験をふまえての報告でもある。
 そのときの workshop のテーマは、„ Ein halbes Brot. Und ein Viertelpfund Speck“ Balladen
von Goethe bis Biermann. Szenarische Bearbeitung(「パン半分と四半分ポンドのベーコン」
Goethe から Biermann までの譚詩、劇化作業)と題を掲げていた。その workshop の招待状・
パンフレットには次のような説明がなされていた。


    譚詩をドイツ語(国語)の授業で扱っても生徒たちの間にほとんど積極的な反応が見られ
  ません。譚詩のテーマや言語的形態があまりにも疎遠なことが多いためでしょう。そうした
  譚詩に授業の中で活気を与えるにはどうしたらよいでしょう。
    この文学のジャンルに親しむ一つの可能性として劇化と言う手段が考えられます。


                                   - 167 -
                          そうして生徒たちが言語的にまた感情の面
      4つの譚詩を取り上げて様々な試みを提案し、
    でも感覚的に創造的な取り組みが出来るよう考えましょう。たとえば、
      1. リズム化(リズム・調子をつけ、読ませる)ことで、
      2. 譚詩に登場する人物の関係を劇の形で表現することで人物の相互関係を決定させ、前
    史を造らせ、登場人物の考え感情を、さらにその願望を感じ取らせることが出来るようにな
    るでしょう。
                   その上でいろいろの手直しも考えるようにしたらと思いま
      この方法を一緒に試して見て、
    す。特別演劇の経験は要求されません。その代わりに俳優と教師の仕事を一緒にしてみよう
    という一人前程の量の好奇心をもって下さい。
      こうした試みに適した譚詩の抜粋もお持ち帰り下さい。
    (この workshop は前年度に希望が非常に多かったために繰り返して催すものです)


  パンフレットでいうリズム化としては Christian Morgenstern の Das große Lálula を使っ
て、その詩(?)の意味のない音の連続を思い思いのままに朗読させるのであるが、その
時二人一組になって朗読することで、後の劇化作業の準備が行われていると思われる。*16
  それ以外に取り上げた譚詩は Erich Kästner の Verzweiflung Nr.1、 W.Biermann の Die
Ballade vom Briefträger William Moore aus Baltimore と L.Uhland の Das Schloss am Meer の三
編である。ここでは最初の Kästner の譚詩の扱いを紹介したい。他のは専らドイツの国語
教育用以上には考えにくいからである。


Ein Junger lief durch die Straßen
und hielt eine Mark in der heißen Hand.                 急ぎ足にスキップで、歌うかのように
Es war schon spät, und die Kaufleute maßen              「パンを半分。それと肉を4分の1ポンド」
mit Seitenblicken die Uhr an der Wand.                  口ずさんでいた。だが次の瞬間歌が消えた。
                                                        手を開いてみるとお金がなかったのだ。
Er hatte es eilig. Er hüpfte und summte:
„Ein halbes Brot. Und einViertelpfund Speck.“           子供は立ち止まり夕闇に立ちつくした。
Das klang wie ein Lied. Bis es plötzlich verstummte.    ショウウインドウの光が消える。
Er tat die Hand auf. Das Geld war weg.                  Es sieht zwar gut aus, wenn die Sterne funkeln.
                                                        Doch zum Suchen von Geld reicht das Funkeln nicht.
Da blieb er stehen und stand im Dunkeln.
In den Ladenfenstern erlosch das Licht.                 Als wolle er immer stehenbleiben,
小さな男の子が街路を急いでいた。                                        stand er. Und war, wie noch nie, allein.
熱い手に1マルクしっかり握って。                                        die Rollläden klapperten über die Scheiben.
もう夕方遅く、商人は壁の時計に                                         Und die Laternen nickten ein.
目をやって時刻を測っていた。

*16 もしこれを外国語の授業で行うとしたら、目標言語の音声的特徴は捉えているものの、意味そのもの
はない音の連続の「詩」を見つけるか、または自分で創作して朗読させることが考えられよう。

                                                   - 168 -
Er öffnete immer wieder die Hände.                こんなに寂しかったことはない。
Und drehte sie langsam hin und her.               シャッターがウインドウを閉ざす。
Dann war die Hoffnung endlich zu Ende.            街灯がうたた寝を始める。
Er öffnete sine Fäuste nicht mehr. . .
                                                  子供は何度も手を開いて見た。
Der Vater wollte zu essen haben.                  ゆっくりと回してもみた。
Die Mutter hatte ein müdes Gesicht.               ついに希望のかけらもなくなった。
Sie saßen und wartete auf den Knaben.             もう手を開いて見ることもしない...
Der stand im Hof. Sie wußten es nicht.
                                                  父親は食事を始めようと言う。
Der Mutter wurde allmählich bange.                母親は気のない顔をする。
Sie ging ihn suchen. Bis sie ihn fand.            二人はテーブルに座って待ち続ける。
Er lehnte still an der Teppichstange              子供は家の前にいた。二人は知らない。
und kehrte das kleine Gesicht zur Wand.
                                                  母親はだんだん不安になった。
Sie fragte erschrocken, wo er denn bliebe.        子供を捜しに外へ出た。見つけたとき
Da brach er in lautes Weinen aus.                 子供は黙って物干竿に寄りかかっていた。
Sein Schmerz war größer als ihre Liebe.           小さな顔は壁を向いていた。
Und beide traten traurig ins Haus.
                                                  なぜこんな所にいるの、驚いて尋ねる母に
輝く星は綺麗に見えるが                                       子供は急に激しく泣き出した。
お金を探すには光が足りない。                                    子供の苦痛は母の愛より大きかったのだ。
                                                  惨めな気持ちで二人は家へと入った。
永遠に立ちつくかとばかり立ちつくす。                                (筆者訳)


  この譚詩との取り組みで要求されるのは、パートナー作業である。対象となる箇所の候
補は、まず父親と母親が家で男の子の帰りを待つ場面で、そこで二人が交わす会話を造ら
せるのである。第二の可能性として母親と子供の会話も作らせることも一つの選択肢であ
る。さらに子供が母親と家に入った後の父親との結末の会話(場合によっては母親をも交
えて)も考えられる課題である。
  Workshop では、「国語」教員の集まりのこと、当然準備なく、一度この譚詩を朗読した
だけで、すぐに劇化の作業に入った。それも勝手に組み合わせて、即興的にやりとりを交
わすわけである。「国語」教員でも「外国語」教員でも劇好きは多い。教師の場合はこの
作業が要求過多と言うことはまずないと思われるが、一般の生徒の場合には一工夫がいる
場合もあるかも知れない。
  まず、この家庭のおかれている状況を確定する必要がある。男の子のお遣いの内容が「半
分のパンと 125 グラム(=4分の1ポンド)のベーコン」という記述がそのヒントになる。


                                             - 169 -
パンの大きさは様々だから確定も難しいが、ここでは1本でなく、半分だということに意
味がある。125 グラムのベーコン Speck は3人家族の夕食には少なすぎる(一人一枚?)。
もちろんハムよりずっと安い。またこの家族が住んでいるところがどういう所か、どこか
の町には違いないが、一戸建ちの家は考えられない。Hof を Hinterhof と考えれば、昔の裏
長屋の狭い路地のような所を想像することになる。あと確定する必要のあるのは父親と母
親の性格である。具体的に職業なども考える必要があろう。
 また、母親と子供のセリフを考えるならば、最後から二番目の行「子供の苦痛は母の愛
より大きかったのだ。」の意味を確定する必要がある。日本語訳で「のだ」と終わってい
るのには訳者の解釈が反映されている。ドイツ語ではこうした明示的な補助手段がないの
で、それだけ確定作業は、不確定箇所の不確定さは、大きくなる。
 この譚詩は、豊かになった今の時代の子供たちに直接伝わる内容でないかも知れない。
「お遣い」などを最近の小さな子供たちがさせられるかも筆者はよく分からない。しかし
ドイツでも日本でも現実に起こりえた話である。発展途上国の子供たちだったら、身につ
まされる話かも知れない。劇化作業が効果を持っていることには筆者は疑いを持っていな
いが、その題材の選び方にはそれなりの配慮が必要なことは言うまでもないであろう。「国
語」の授業ならば、学習者の環境・現状とかなり異なる背景を持った作品を取り上げるこ
とも、その役割の上から言って必要であろう。外国語の授業の場合はそうした意味でのテ
クストとの対決は過度に多くない方がよいと考えている。言語訓練とのバランスを考慮す
る必要がある。異文化的要素との取り組みだけで充分ではないかというのが筆者の考えで
ある。
 多少横道にそれるが、父親と母親を演じたドイツ人の国語教師たちは例外なくテーブル
のコーナーに 90 度の角を取って斜目に座っていた。筆者は意識して母親(ドイツ人)と対
面する formation を取った。そのことに付いて誰からもコメントがなかったが、そうした空
間処理 proxemics もこうした劇化作業の中では演出上の一つの対象課題になってくる。ま
た workshop の参加者が二人組になって、母親が子供を中庭で見つけたときの二人の動き、
体の位置などを演じると、他の参加者が入れ替わり出てきては注文をつけ演技指導をして
いた。Kinetics の領域が関わって来るのである。
 筆者は厳しい父親として、母親が子供を甘やかしているからだと文句を言い、子供が「ま
たどこをふらついているのだ」と言うような趣旨を述べたと思う。この場合二人の対話は
interaction の形を取らず、ただ一人で何かを言っていればいいようなシーンでもあったか
ら、筆者の相棒の母親は、父親の苦情にはまるっきり耳を貸そうとしなかった。
 何組かが出て同じシーンを演じたが、それぞれ熱演であった。解釈としては、裕福な家
庭を想定したものは一人もいなかったが、厳しい父親像を演出したのは筆者だけだったと
記憶している。かつての厳格なドイツの父親像は 70 年代からはほとんど姿を消しているの

                       - 170 -
である。
 この workshop に参加した教師たちが、自分の教室でどういう譚詩を取り上げ、どう具体
的に取り組んだかの追跡調査は機会がなく、まだ行っていない。参加者の一人の授業を見
学したがそのときは他の種類のテクストがテーマであった。


3.4. 母語教育上の意味
 この方法は、すでに述べたように、国語(文学)の授業のために考え出されたものであ
る。こうした前提をふまえて、かつ日本国語教育の現状も考え合わせながらこの方法の持
つ意味を整理すると、次の点が挙げられる。


 1) 現在読書という行為が減少傾向にあるなかで、生徒たちを読書、文学に引き戻すた
  めの動機 motivation の強化の役を担う。少なくとも学校での授業が面白くなるはずだ
  という確信である。その動機強化は積極的な取り組み、つまり生徒自身に創作に関わ
  らせることによって得られる。
 2) その際、重要なのは教師と生徒の壁の撤去である。通常の授業では、「知識・情報」
  が教師から生徒へと流れ、たとえ生徒が創作活動を行ったとしても、その結果を教師
  が評価(採点)し、生徒はあくまでも教師に従属している。ここで紹介した方法でも
  究極的にはその枠外に出ることは出来ないかも知れないが、少なくともこの作業を行
  っている間だけは、生徒は作家としての権利をうるのであって、その意味で教師は他
  のクラスの生徒と同様、その作品の読者の一人に過ぎなくなる。その意味でのみ教師
  は読者、作品の解釈者の一人として、作家(生徒)と話し合うことが許されるのであ
  る。当然この関係は生徒相互の間にも当てはまる。その意味では教室内の同権化の動
  きと見なすことが出来よう。
 3) そこから引き出される帰結としては、読者は解釈し、場合によっては作家に自分の
  解釈について尋ねることが許されるだけで、その内容の変更などを求めることは控え
  なければならないことになる。訂正添削の日常的な教室の行事は大幅に縮小される。
  もちろん文学批評的にその作品を前提に議論することは許されるであろう。


 この方法は文学作品の中に存在する「空所」を手懸かりにするものである。逆に言えば
文学作品のなかには「充足した所」があると言うことになる。この充足箇所は当然、不確
定箇所でもなく、「自由な」解釈が許されない所のはずである。従って、教室で創作的活
動に入る前にこの三種類の確認を行うことが考えられる。この部分が従来の文学購読の作
業に取って代わることになる。もっとも母語を前提とする場合は、まず創作活動を行わせ、
それを記録し、それを上述のように読者として議論する中で、逆に「空所」や「不確定箇

                     - 171 -
所」を見つけだし、さらには「充足箇所」を確認する方法もあり得るであろう。いわばグ
ループ作業による作品の分析である。



4.外国語教育との関連、応用の可能性


2章では、「空所」あるいは「不確定箇所」から出発し、結末を書かせ、あるいはテクス
ト中の一シーンを劇化することで、文学の創造的解釈をねらっている例を紹介した。ここ
で、この方法がどの程度外国語教育に適用出来るか検討してみたい。


4.1. 類似の外国語教授法
 「空所」を前提とした結末というのは、作品が完結していないという認識のもとに成り
立つことは言うまでもない。それ故にこの「創造的」作業で、様々な異なった結末は、ま
さに「空所」の空所たる所以を証明するものでもある。現に上に引用した例の数々がいい
証拠である。
 一方「続編」「後日談」はどんな作品についても当ても可能である。実際 Iser を待たず
とも、「後日談」に属する作品には文学市場で時々お目にかかる。たとえば Märchen の続
きを書くことで、「目出度し目出度し」で終わったはずの Märchen を批判的に見ることが
出来る。たとえば白雪姫が結婚後自分の力で、宮廷内の地位を築いて行くような後日談は、
Märchen 中の受け身一方の白雪姫に対するアンティテーゼを打ち出している。Märchen の
                また gender 論議との関係でもこの方向は注目される。
新しい受容を示唆するものであろう。
 同じような意味で、テクストの購読を途中で中断し、その後の展開を想像させる
anticipation の作業は、外国語教育の中でよく取り上げられられる task である。後日談、
anticipation とも外国語教育のなかでもすでに長い間行われている task なのである。
 「空所」はどんな作品にでもあるというものではないが、「不確定箇所」はフィクショ
ンとしての文学の性質上、引いて言えば、言語記号の宿命として必ず存在する。だから登
場人物が全て死んでしまったような場合は別にしても、その後日談を考えることは可能で
ある。この作業は作品を深く理解すると同時に、自己認識を高める上で有効な手段だと筆
者は考えている。もちろん自分たちが創り出した様々な「後日談」「続き」を比較し、議
論(話し合い)すればその効果はよりたかまるであろう。
 さらに拡大して考えると、こうしたた方法は純粋に外国語教育・文学教育だけでなく、
フィクション・文学作品を他の授業に利用する場合でも意味がある。少なくとも
brainstorming、問題意識の強化を促進するものとして考慮に値しよう。
 筆者自身の体験・実践例だが、「異文化コミュニケーション」と題する授業の中でドイ

                        - 172 -
ツの Yasemin*17 という劇映画を聴講生に見せ、その中の主人公のドイツの青年 Jahn とトル
コ娘 Yasemin の愛の将来を想像させた。その時出てきた後日談の中には、ドイツ人とドイ
ツ在住のトルコ人の関係に関わる様々な問題の認識・理解のあり方、その反映を見て取る
ことが出来た。
 同じ作業をドイツ語の授業の中でも課したこともある。後者の場合は2年次生の選択授
業で、ドイツ人との team teaching だったこともあって、そのシナリオはドイツ語で書かせ
た。その時には奇想天外な結末もあったが、いずれも映画に内在している情報と自身の知
識を十分活用し、さらには夢と希望を結末に託した創作であった。
 また、ある程度長い文学テクストを扱う時に、その途中で anticipation を求めることもあ
る。中だるみを予防し、緊張を維持する効果があろう。また、作品を最後まで扱えなかっ
た時も同様の扱いが出来る。その結末を簡単にまとめて受講生に知らせることがこの場合
後始末として必要ではあろうが。


4.2. 外国語学習の中での位置づけ
 2章で紹介したような方法を実際に外国語の授業に採用した場合に、そこで行われるの
は一体何であろうか。従来の外国語の drill、task とどういう関係があるだろうか。また、
その条件は何か以下で考察したい。
 結末を書く workshop の作業順序を外国語教授法の観点から分析すると、まず第一に行わ
れたのがテクストとの取り組み、いわゆる「読む」あるいは「読解」である。次に結末を
「書く」あるいは「作文」が続く。その後それぞれが自分の作品を「朗読」する recitation
が続くが、これは他の受講生にとっては「聞き取り」「聴解」の task となる。さらに互い
の作品に付いて質問したり、議論したりすればそれは「話す」「対話」の実践的練習と言
うことになる。つまり、外国語教育で言われる古典的4技能の全てが、それも相互に関連
した形で取り上げられるのである。この4技能の観点から逐次見ていきたい。


4.2.1. テクストの理解・分析
 「読解」の作業をどう位置づけるかは、受講生の言語能力次第で大きな差が出てくる。
逆に言えば、どういうテクストを取り上げるかによって次の「書く」作業に移る準備とし
ての「読解」の作業が変ってくる。どういう場合でも受講生の言語能力を大きく越えるテ

*17 1987 年 Hark Bohm 監督。この映画は家族とトルコの因習から逃れようとする Yasemin と Jahn が
  Hamburg の夜の闇のなかにオートバイで逃げて行くというところで終わる。当時がトルコ人とドイツ人
  との間に融合的併存的な関係が生まれかけていた時期だと言うことを知っているものにとっては、この
  結末は希望的に満ちたあるいは明るい将来を暗示しているものであったかも知れないが、 20 世紀の終   今
  わりに同じ映画を見ると、その解釈はかなり異なって来る。ドイツのことを知らずに映画だけを見てい
  れば、その解釈はそれだけに余計多様化してくる。

                             - 173 -
クストは避けるべきである。せいぜい「+1」*18 でとどめるべきで、どちらかと言えばそ
れより易しめのもの方がよい。この作業はいわゆる global comprehension と intensive
comprehension の両方を要求し、時には文体論的なセンスも問われる。Cat in the Rain の作
業の中で、東京女子大の学生たちは単にテクストを渡されただけで、「通常?」の翻訳作
業はしていないし、また筋の確認も、細部の解説も受けていない。それでも後で行われた
グループ討論の録音を聞いてみると、同一人物を american wife、american girl と異なった
呼び方で表していることの問題性まで気が付いているが聞き取れる。padrone に対する感情
も、冷え冷えとした夫婦間にも十分気が付いていて、いちいちテクスト分析をする必要は
認められないのである。教師側からはせいぜいのところで、纏め・確認作業が残されてい
るだけである。
 平均以上の大学の2,3年生ならばこのテクストは決して難しくないと言うことなので
あろう。ドイツ語(日本語)の翻訳テクストでの作業の場合も、たまたま参加者が大学院
生だったこともあって、前もってのテクストの分析は行わなかったが、もしこのテクスト
を週2~3コマで1年間の入門コースを終えた程度の大学2年のクラスで扱うとなると、
かなりの準備が必要ではないかと考えられる。4学期生でも大差はなかろう。その際重点
的に、筋の展開、登場人物間の関係、場所(イタリアのリゾート地)の持つ意味、「猫」
を取り上げればよいと筆者は考える。それもその答えを出す必要はまったくない。設問・
課題の形で注意を喚起し、場合によっては社会誌的な情報を与えるだけでよいであろう。
もともと「空所」「不確定箇所」を巡る問題なので、「正解」が出るような設問を期待す
る方が間違いなのである。次の「書く」作業の準備として、設問は target language で与え
るのが自然である。
 こうした open な扱いでも学習者に frustration を起こさせない程度に、テクストの難度を
押さえることが必要である。すなわち教師側に難解なテクストを解読することに意義を見
いだす「従来」の外国語教育からの脱皮を要求するものなのである。


4.2.2.書く作業
 「書く」訓練として従来、日本語の文・テクストを目標言語に翻訳する task がよく行わ
れていた。その反対の極に「自由作文」がある。もちろん一定の目的を持った注文・予約
の手紙、願書、履歴書などもその中間に位置するものとして「作文」の中で取り上げられ
てきた。体験談・体験報告などは、文学的な要素も強く、「自由作文」的な位置づけをさ
れてきたと思われる。しかしここでいう創造的言語学習は自由な文学的創作活動を一定の


*18 Krashen の言葉で、その具体的内容は確かでない。ここでも、「その実力を一寸越えたぐらいの程度」
  の難度と解釈して欲しい。語彙的に何語中に何語の新語と言うような定量の仕方も考えられるが、その
  当たりの研究に付いては筆者は知らない。

                          - 174 -
制限の基に行うことが求められているのである。この方法の利点は、「自由作文」が個人
的なものと受け取られ、クラス全体で取り組む対象としてのインパクトに欠けるという欠
点があるのに対し、同じ出発点に立つことによってクラス全体、あるいはグループ全体の
関心の対象になりうるという点である。もちろん書くという行為は個人的な行為であり、
その点ではどんな「書く」作業も変わりはないが、後で朗読する、つまり具体的な読者を
想定していること、さらにそれぞれの到着点、つまり解釈の差が明示的に表現され、比較
されるということ、他の創作との比較か予定されているから、一種のゲーム的感覚・
competition 的感覚も作用するであろうと想像出来る。
  「書く」という作業は、言語の4技能の中でも一番能動性を要求するものである。言語
活動の中でも最も意識的な活動である。今までの学校、大学でのカリキュラムの中ではこ
の面の訓練はほとんど行われて来なかった。そうした中でこの作業をさせるのは要求過多
だと言えないこともない。そうした現実を考えると、出発点になるテクストの言語的難度
はそれだけ問題になるのである。
  ただ、普通の「自由作文」と異なるのは、語彙的にも文法的にもかなりの部分がもとも
とのテクストに含まれていることである。その延長上に作業があるのである。(原文に含
まれている言語要素を扱えきれない程、能力差があるのならこの作業はただの苦行にしか
ならない。)それが学習者の負担を軽減するであろうと考えられる。宿題にするなら、教
師側からのことさらの助けはいらないが、東京大学の workshop のようにその場で書かせる
場合には、教師は机間指導の形で、語彙などをを与えてやることも十分考慮しなければな
らない。その際どの程度誤りを訂正するかは、創作意欲をそがない程度と抽象的にしか表
現できない。
  さらに出来上がった作文の添削の問題がある。東京女子大学の例でも分かるように、誤
りがないではない。宿題にした場合は前もって教師が目を通し、甚だしい誤りは、つまり
recitation と聴解の妨げになるような誤りは直しておくことも出来よう。即席の作文の場合
は、この方法はある程度以上の言語能力を前提にしないと不可能であるが、それでも理解
不能の箇所があれば、中断して確認することも必要であろう。分からないままにしては、
後の話し合いによい影響は与えない。


4.2.3. 朗読 Recitation
  こ の 作 業 も 普 通 の 授 業 で は あ ま り 力 を 入 れ て い な い 。 高 等 学 校 英 語 の Oral
Communication C (OCC) ではこの作業も取り上げられているようであるが、OCC 自体が
ほとんどの高等学校で科目になっていないのである。その上 recitation という行為は実際は
かなり高度な言語行為でもある。現に母語話者でもその母語で書かれたものを適切に読む
ことはそう容易ではない。従ってこのステップでは、芸術的な recitation は諦める他はない。

                               - 175 -
しかし、なんと言っても利点は、自分で書いたテクストなのだから、その内容は充分分か
っているはずである。一般の文学作品の朗読の場合のように解釈作業を前提とする必要は
ない。だからそれぞれの言語能力の範囲内で「最高」の recitation が期待できるともいえる
のである。
 作文を宿題にした場合は、recitation の予習もそれに加える必要がある。聞いて分かるほ
どには朗読出来ないと困るからである。(普段の朗読の練習が大事である)


4.2.4. 討論
 今回の workshop で討論が外国語で行われたのは大学院の学生が参加した場合だけであ
る。筑波大学では日本語とドイツ語を交えて話し合いあるいはコメントをつけるようにし
た。通訳はしなかったという。東京女子大学の授業では、60 数人を5つのグループに分け
て、日本語で話をさせている。斉藤氏の言によれば英語での討論は無理だという。workshop
の時には、Müller-Dyes 氏という日本語を理解しない人がいたために、場合によっては通訳
を使いながらもドイツ語、英語で話し合いをするしかなかったのだが、教師が日本人の場
合、英語など目標言語を討論の言語とするのは大学院の学生でもきつい要求である。それ
でもクラスの規模が小さいとき、20 人以下の時なら、理想的には 10 人程度なら、教師が
がんばって目標言語での討論も不可能ではないかも知れない。もともと recitation の段階位
から、大教室は考えられなくなっている。何十人もの創作を聞いて記憶することなど不可
能だからである。
 このステップの外国語教育への応用としては、直輸入型を除いて2種類考えられる。
 第一は東京女子大学のように、目標言語での討論を諦めること。4技能の内の「聞き・
話す」が脱落してしまうのだが、それでもテクスト解釈の方法としては、すでに述べたよ
うに学生たちが重要な点を主体的に把握しているという点で十分な効果があると言える。
一寸努力すれば、討論を纏めて目標言語で書かせ、発表させることは出来るであろう。
 第二には、テクスト解釈の段階で用意したいくつかの設問を、実際に答えさせるのであ
る。(もちろん目標言語で)学習者は創作活動を通して答える内容は分かっているはずだ
から、目標言語での応答にたどり着くには、あと一歩の行程が残されているだけというこ
とになる。東京女子大の場合は猫の数を何匹と考えたか、またその理由を問い、英語で答
えを準備させている。こうした種類の問い(たとえばこの夫婦はその後どうなったか、離
婚したか、padrone との関係は?)をいくつか用意することで、自由討論への一歩が歩み出
されるのではないだろうか。
4.3. 演劇化
 譚詩 Ballade の workshop で紹介したようなことは、外国語の授業の中ではもっと取り入
れることが可能だと筆者は考えている。Müller-Dyes 氏は次の task を挙げている。

                        - 176 -
 1) 劇化し、演出する。ダイアログを書く、演技する。
 2) クラスの一員に登場人物の振り付けをする。
 3) 教師が生徒の後ろに回って、もう一人の本来の ego(自分)として、問いかけ、モ
    ノローグを引き出す。
 4) 登場人物の経歴、生活環境などを書かせる。


 この内 1)は結末、anticipation を書く作業と同程度に日本の外国語の授業でも可能である
と考えられる。さらに pair work も考えやすい点では、結末を書く作業より導入しやすいだ
ろう。さらに「結末書き」では難しいとされた討論に当たる、oral な作業が劇の上演、role
play という形で取り入れられることは非常に大きな利点だと言える。この場合も宿題、教
室内での作業の両方が考えられる。筆者の経験でも、学習者はこうした芝居がかりの授業
にはかなり乗る傾向が一般には見受けられるので、それを手懸かりに文学の解釈行為と結
びつけることによって、単なる語学教育の域を超えた外国語教育が可能になる。
 2)の作業はあまり言語行為を要求しない作業であり、1)の一部と位置づける方が外国語
教育の中では適当でないかと思われる。
 3)の方法は現実には非常に導入困難であろう。即興性を要求するからである。ただこれ
も、もう一人の ego を演じる教師の問いかけに対する答え(モノローグ)を宿題の形で出
すことは考えられる。
 4)も可能であるが、宿題の形を取ることになろう。
この4つの task を比べた場合 1)が最も導入しやすいのではないかと思われる。それを前提
とした教材選びが教師の重要な仕事になってくる。



5.創造的学習の導入のための課題


 こうした方法を導入するとして、非常に重要なことは、学力に応じた、ここで扱った諸
要素を内包したテクストがアーカイヴのような形で蓄積されていくことである。紹介した
Göttingen の Arbeitsgruppe では、その意味でドイツ語の譚詩の候補のリストを作り上げてい
る。こうした日本の学習者を考慮したアーカイヴが、小説、短編の分野ごとにも、いろい
ろな外国語の教授用に作られることが望まれることである。Göttingen の Arbeitsgruppe のリ
ストをこの小論の最後につけておく。




                         - 177 -
6.他のテクストの種類での可能性


 上で少し触れたように、人間の言語活動が確定要素だけで成り立っていることは実際に
は極く稀である。実用的なテクストにも「空所」「不確定箇所」は往々にしてみられる。
いわゆる分からない点、尋ねたい点である。ここに着目して創造的作業を導入する可能性
がある。両会社のパンレット、求友人・求恋人などの新聞広告でもそうした箇所はいくら
でもあるだろう。それに対して問い合わせの手紙を書いてみるなどの練習は、難しい理屈
をこねずとも、片意地を張らずに出来るであろう。その上こうした練習は文学創作的言語
学習に先立つ訓練としても大きな意味を持つであろう。



7.終わりに


 筆者はここに紹介したようなことが、提案したようなことがすぐに出来るとは思ってい
ない。そこへの道のりはまだ遠い。しかし、その可能性を見ない限り、現在の行き詰まり
から脱却する可能性はないだろう。制度が、環境が外国語学習、教授にとって好転したと
き、少なくとも提供出来るものを今から揃えておきたいと考えているのである。




                   - 178 -
Appendix Ⅰ
Ernest Hemmingway: Cat in the Rain
   There were only two Americans stopping at the hotel. They did not know any of the people they passed on
the stairs on their way to and from their room. Their room was on the second floor facing the sea. It also faced
the public garden and the war monument. There were big palms and green benches in the public garden. In the
good weather there was always an artist with his easel. Artists liked the way the palms grew and the bright
colours of the hotels facing the gardens and the sea. Italians came from a long way off to look up at the war
monument. It was made of bronze and glistened in the rain. It was raining. The rain dripped from the palm trees.
Water stood in pools on the gravel paths. The sea broke in a long line in the rain and slipped back down the
beach to come up and break gain in a long line in the rain. The motor-cars were gone from the square by the war
monument. Across the square in the doorway of the cafe a waiter stood looking out at the empty square.
   The American wife stood at the window looking out. Outside right under their window a cat was crouched
under one of the dripping green tables. The cat was trying to make herself so compact that she would not be
dripped on.
   ‘I’m going down and get that kitty,’ the American wife said.
   ‘I’ll do it,’ her husband offered from the bed.
   ‘No, I’ll get it. The poor kitty out trying to keep dry under a table.’
   The husband went on reading, lying propped up with the two pillows at the foot of the bed.
   ‘Don’t get wet,’ he said.
   The wife went downstairs and the hotel owner stood up and bowed to her as she passed the office. His desk
was at the fat end of the office. He was an old man and very tall.
 ‘Il piove,’ the wife said. She liked the hotel-keeper.
 ‘Si, si. Signora, brutto tempo. It is very bad weather.’
   He stood behind his desk in the fat end of the dim room. The wife liked him. She liked the deadly serious
way he received any complaints. She liked his dignity. She liked the way he wanted to serve her. She liked the
way he felt about being a hotel-keeper. She liked his old, heavy face and big hands.
   Liking him she opened the door and looked out. It was raining harder. A man in a rubber cape was crossing
the empty square to the cafe. The cat would be around to the right. Perhaps she could go along under the eaves.
As she stood in the doorway an umbrella opened behind her. It was the maid who looked after their room.
   ‘You must not get wet,’ she smiled, speaking Italian. Of course, the hotel-keeper had sent her.
   With the maid holding the umbrella over her, she walked along the gravel path until she was under their
window. The table was there, washed bright green in the rain, but the cat was gone. She was suddenly
disappointed. The maid looked up at her.
   ‘Ha perduto qualque cosa, Signora?’
   ‘There was a cat,’ said the American girl.
   ‘A cat?’
   ‘Si, il gatto.’
   ‘A cat?’ the maid laughed. ‘A cat in the rain?’
   ‘Yes,’ she said, ‘under the table.’ Then, ‘Oh, I wanted it so much. I wanted a kitty.’
   When she talked English the maid’s face tightened.
   ‘Come, Signora,’ she said. ‘We must get back inside. You will be wet.’
   ‘I suppose so,’ said the American girl.
   They went back along the gravel path and passed the door. The maid stayed outside to close the umbrella. As
the American girl passed the office, the padrone bowed from his desk. Something felt very small and tight
inside the girl. The padrone made her feel very small and at the same time really important. She had a


                                                    - 179 -
momentary feeling of being of supreme importance. She went on up the stairs. She opened the door of the
room. George was on the bed, reading.
   ‘Did you get the cat?’ he asked, putting the book down.
   ‘It was gone.’
   ‘Wonder where it went to?’ he said, resting his eyes from reading.
   She sat down on the bed.
   ‘I wanted it so much,’ she said. ‘I don’t know why I wanted it so much. I wanted that poor kitty. It isn’t any
fun to be a poor kitty out in the rain.’
   George was reading again.
   She went over and sat in front of the mirror of the dressing-table, looking at herself with the hand glass. She
studied her profile, first one side and then the other. Then she studied the back of her head and her neck.
   ‘Don’t you think it would be a good idea if I let my hair grow out?’ she asked, looking at her profile again.
   George looked up and saw the back of her neck, clipped close like a boy’s.
   ‘I like it the way it is.’
   ‘I get so tired of it,’ she said. ‘I get so tired of looking like a boy.’
   George shifted his position on the bed. He hadn’t looked away from her since she started to speak.
   ‘You look pretty darn nice,’ he said.
   She laid the mirror down on the dresser and went over to the window and looked out. It was getting dark.
   ‘I want to pull my hair back tight and smooth and make a big knot at the back that I can feel,’ she said. ‘I
want to have a kitty to sit on my lap and purr when I stroke her.’
   ‘Yeah?’ George said from the bed.
   ‘And I want to eat at a table with my own silver and I want candles. And I want it to be spring and I want to
brush my hair out in front of a mirror and I want a kitty and I want some new clothes.’
   ‘Oh, shut up and get something to read,’ George said. He was reading again.
   His wife was looking out of the window. It was quite dark now and still raining in the palm trees.
   ‘Anyway, I want a cat,’ she said. ‘I want a cat. I want a cat now. If I can’t have long hair or any fun, I can
have a cat.
   George was not listening. He was reading his book. His wife was looked out of the window where the light
had come on in the square.
   Someone knocked at the door.
   ‘Avanti,’ George said. He looked up from his book.
   In the doorway stood the maid. She held a big tortoiseshell cat pressed tight against her and swung down
against her body.
   ‘Excuse me,’ she said, ‘the padrone asked me to bring this for the Signora.’




                                                     - 180 -
AppendixⅡ 初級~中級用の譚詩
 劇化作業に向いていると思われる初級後期学習者用の譚詩例をここにいくつか紹介する。一
つは Struwwelpeter の一つの話であるが、これは最近のドイツ語教科書 Erurolingua Deutsch でも
採用されている。同時にこの教科書には飽食の現代を風刺する Pommeskasper というパロデ
ィーが収録されていて、両者をともに扱うことによって、外国語学習以上の成果も得られ
る。初級後期でも Suppenkasper を学習した後でなら、Pommeskasper は殆ど予習なしでも理
解出来る。二つのグループ(群)に分けて、それぞれの劇化を比べると面白い効果が出る
であろう。
 後の二つはドイツ語教師の教授法研究会で workshop の形で、また筆者の主催するドイツ
語教授法の入門コースでも劇化を試みた。         ドイツ語力には問題のない workshop だったので、
教授法上の問題点ははっきり出てこなかったが、学生の方がずっと面白い劇を作り、解釈
もするのではないかとの印象を得た。Frau Holle の Pech の解釈は語学能力外のものが必要
で、その点教師、学習者が対等に話し合えるものを含んでいる。この様な要素を含んだ作
品を見つけ、それをアーカイヴとして共有することが外国語教育改善の一歩であろう。

Die Geschichte vom Suppenkasper                                                      aus : Eurolingua Deutsch
       Aus:Struwwelpeter von Heinrich Hoffmann         Der Kasper, der war kerngsund,
Der Kasper, der war kerngesund,                        war sportlich fit und gar nicht rund.
ein dicker Bub und kugelrund.                          Sein Müsli aß er hübsch bei Tisch,
Er hatte Backen rot und frisch;                        Äpfel, Nüsse immer frisch.
die Suppe aß er hübsch bei Tisch.                      Doch einmal fing er an zu schrein
                                                       „Ich esse heut kein Müsli, nein:
Doch einmal fing er an zu schrein:                     Ich will kein Müsli auf den Teller.
„Ich esse keine Suppe! Nein!                           Ich fahr heut in den Pommes-Keller.“
Ich esse meine Suppe nicht!
Nein, meine Suppe ess ich nicht!“                      Im nächsten Jahr, da seht nur her.
                                                       da war er schon ganz dick und schwer.
Am nächsten Tag-ja sieh nur her-,                      Und immer noch hört man ihn schrein:
da war er schon viel magerer.                          „Nein, nein, kein Müsli, Müsli nein!
Da fing er wieder an zu schrein:                       Ich schieb mir lieber Pommes rein.“
„Ich esse keine Suppe! Nein!
Ich esse meine Suppe nicht!                            Und bald danach im nächsten Jahr.
Nein, meine Suppe ess ich nicht!“                      der Kasper wie 'ne Kugel war.
                                                       Und öfter noch hort man ihn laut:
Am dritten Tag, o weh und ach,                         „Pommes sind in, Müsli ist out!“
wie ist der Kasper dünn und schwach!
Doch als die Suppe kam herein,                         Er wog 'ne halbe Tonne fast
gleich fing er wieder an zu schrein:                   und keine Hose ihm mehr passt.
„Ich esse keine Suppe! Nein!                           Zu viel Fett und zu viel Butter,
Ich esse meine Suppe nicht!                            ach, wie weint die arme Mutter!
Nein, meine Suppe ess ich nicht!“                      Zu viel Pommes, zu viel Käse,
                                                       zu viel Ketchup, Mayonnaise.
Am vierten Tage endlich gar,
der Kasper wie ein Fädchen war.                        Und sein Herz, früher topfit,
Er wog vielleicht ein halbes Lot -                     macht das Fressen nicht mehr mit.
und war am fünften Tage tot.
Pommeskasper


                                                 - 181 -
Urlaubsfahrt                                   Frau Holle
         Halbey, Hans Adolf, Dr. phil.                      Minimärchen von Rolf Krenzer
                      (geboren 1925)                                     ( geboren 1936)

frühgeweckt gefrühstückt raus                  Alte Frau mit großem Haus
winke winke schlüssel haus                     schaut nach Haushaltshilfe aus.
autobahnen autoschlange                        Armes Mädchen grade richtig:
kinderplappern mama bange                      dumm und tüchtig. Das ist wichtig!
koffer koffer kinder tragen                    Ist nicht gewerkschaftlich gebunden
flasschen taschen puppen wagen                 und schafft drum viele Überstunden.
papa mama koffer kinder                        erste Schwester, lieb und hold.
autokarte notlichtblinker                      Kleine Anerkennung: Gold.
schlange kriechen sonne heiß
stinken staub benzin und schweiß               alte Frau mit großem Haus
stockung hunger mama brote                     schaut wieder nach Haushaltshilfe aus.
papa skatspiel radio tote                      Zweites Mädchen arm, doch gewitzt,
schlafen schimpfen hupen schwitzen             meint: "Hier werde ich ausgenützt!
weiterfahren weitersitzen                      Ich schüttel die Betten, putze und koche,
müde mitternacht hotel pension                 doch nur in der Vierzig-Stunden-Woche."
tausenddreißig schlafen schon                  Zweite Schwester frech.
                                               Pech.
この詩はかなり初級の学習者でも取り組め
るだろう。文法好きの教師には格好の練習                            Moral:
材料を提供してくれる。殆ど単語をならべ                            wer nicht weiß, was Arbeitsschutz bedeutet
ただけなので、それを普通の文として表現                            wird bis heute noch immer ausgebeutet.
し直すことから始められる。さらに車の中
                                               この詩は、ドイツの有名な同名の Märchen の
での家族の会話は大抵の学習者が少なくと
                                               パロディーなので、その知識が前提となる。
も母語では経験したことのあるものであろ
                                               直接その Märchen を扱えない場合は、教師が
う。その意味ではかなり劇化に向いている
                                               ドイツ語で、あるいは日本語でその筋を話し
作品といえる。
                                               てやれば済むだろう。この詩の場合は最後の
  ここでは筆者が試みた workshop では                       Pech で、Wer hat Pech の解釈が分かれる可能
tausend   schlafen    schon   を巡って解釈が          性があり、そこからパロディーのジャンルと
分かれた。                                          しての性格を考えるにも適した教材でない
                                               だろうか。




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Appendix Ⅲ 劇化に向いた譚詩の表
Christian Morgenstern: Das große Lulala;           Heinrich Heine: Belsazar*
Erich Kästner: Verzweiflung;                       Georg Heym: Louis Capet ;
Wolfgang Biermann: Die Ballade vom Briefträger               Robespierre ; Vater und Sohn*
          William Moore aus Baltimore.             Friedrich Hebbel: Das Kind am Brunnen
Ludwig Uhland: Das Schloss am Meere;               Conrad Ferdinand Mayer: Die Füsße im Feruer
Sarah Kirsch: Legende über Lilja                   Heinrich Heine: Donna Clara
Ingeborg Bachmann: Das Spiel ist aus.*             Theodor Fontane: John Maznard!
Karl Krolow: Ballade ; Matrosen-Ballade.           Nikolaus Lenau: Die drei Indianer*
Mrie Luise Kaschnitz: Hiroshima*                   Annete von Droste-Hülshoff: Der Knabe im Moor
Wolfgang Bächler: Die wartende Frau                Achim von Arnim: Getrennte Liebe*; Der Förster
Erich Kästner: Sachliche Romanze* ;                Johann Wolfgang Goethe: Der König in Thule*;
          Ballade von Nachahmungstrieb                       Vor Gericht*; der Totentanz; Der Fischer ;
Walter Mehring: Ritualmärchen von den zwei                   Erlkönig*; Der Zauberlehrling
          Judenkindern                             Gottfried August Bürger: Der Kinder und der Abt
Albert Ehrenstein: Qualalde                        Georg Trakl: Die junge Magd*
Johann Rinhgelnatz: Die Weihnachtsfeier des
          Seemanns Kuttel Daddeddu
Agnes Miegel: Die Nibelungen* ; Die Mär vom        *印は筆者の独断と偏見で日本でも使えると判
Ritter    Manuel                                   断したものである。




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