2004SS cities

Document Sample
2004SS cities Powered By Docstoc
					                       2004 年度前期 ヨーロッパ文学Ⅰ (山口裕之)

           「テクストのなかの都市・テクストとしての都市」前期レポート



田中洋:       映画「ロスト・イン・トランスレーション」に現れる都市「トーキョー」
金持みどり: 内面に開かれた街、渋谷(村上龍『ラブ&ポップ トパーズⅡ』)
小島陽子:      香港旅行記
塚越靖一:      異様な都市、立川
安藤沙矢子: フランクフルトについて
石井英恵:      新宿-----三つの混合----
甲田友子:      テクストとしてのプラハ
守屋育代:      写真から浮かぶニューヨーク
牛尾佳子:      (新宿)
木内沙織:      銀座
加藤めぐみ: ベルリナールフト(ベルリンの都市の空気)
浅野潤:       東京 変化の中で
安永麻里絵: 物語のなかの都市空間と「視野」、「移動」―『ノルウェイの森』を素材として―
茅野大樹:      世紀末ウィーンとマーラー
福岡礼子:      都市映画:ベルリン・天使の詩
長谷川恵:      小説「冷静と情熱のあいだ」における都市と人間の関係性
伊藤ゆり子: 幻想の都市空間 (「ブエノスアイレス」)
小貝敦史:      池袋という都市と群集
津山孔明:      都市・長崎について
一宮まどか: 満男の葛飾・柴又と独り立ち~『男はつらいよ 寅次郎の休日』より~
石川美穂:      京都の今
加島真由美: 混沌の街・歌舞伎町-『不夜城』と『リボルバー 青い春』-
川崎陽子:      映画「四月物語」の中の東京
丸岡愛子:      水上都市ヴェネツィア―「ベニスに死す」で描かれた幻想都市
岡本梨恵子: 映画『冷静と情熱のあいだ』で語られる都市
住谷潤子:      SHINJUKU*SPAZIERGANG
広 瀬 美 穂 : Montmartre
宮田悠:       冷静と情熱のあいだ
竹山有紗:      『不夜城』における歌舞伎町という都市
篠田苑子:      都市と人 ~映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』を見て~
松尾徹:       (江戸)
野田容子:      都市小説「ウィーンの血」を解読する




                                   1
2004 年度 ヨーロッパ文学Ⅰ
「テクストのなかの都市・テクストとしての都市」


                               6200527
                               欧米第一課程ドイツ科4年 田中洋


専修専門科目 総合文化コース
山口裕之教官「テクストのなかの都市・テクストとしての都市」前期レポート




映画「ロスト・イン・トランスレーション」に現れる都市「トーキョー」



はじめに


 本レポートでは、ソフィア・コッポラ監督(米)の2003年度作品「ロスト・イン・トランスレー
   (原題 Lost In Translation)を取り上げ、そこで都市「トーキョー」
ション」                                        (実在の都市である東京
と区別し、作品の舞台としての都市として、ここではカタカナ表記を用いる)がどのように描かれてい
るのかを、二人の主人公の描写を通じて論じていく。また、映画というメディアとして発表されたこと
に関連して、その表現手段についても、映像と音楽の面から論じるしだいである。本作品が(日本国内
では)まだ映像作品として手に入らないという点、原作本に相当する出版物がなく(断片的に綴ったシ
          、
ナリオ集は出ているが) 物語についてもう一度順を追って検討することが難しいという点から、都市を
描いた作品として論じるものの、全ての場面について逐一論及しないこと、またそれができないことを
あらかじめ断っておく。
 これまで数々の映画作品で舞台として扱われてきた「トーキョー」であるが、現代のアメリカの監督
にはどのように映ったのであろうか。



                      、監督ソフィア・コッポラについて
1. 映画「ロスト・イン・トランスレーション」


 まずこの作品とその監督について簡単に触れておく。本作品では、CMの撮影のために東京にやって
きた、落ち目の中年ハリウッド俳優ボブ・ハリス(ビル・マーレイ)と、カメラマンの夫に同行して東
京にやってきた若妻シャーロット(スカーレット・ヨハンソン)が出会い、束の間の淡い恋をする。ボ
  うやうやしくご機嫌をとる代理店の人々にも、
ブは、                   商品をもってカメラの前でポーズをとることにも、
そして、何度となく家のインテリアについて昼夜を問わず相談の連絡を入れてくる本国の妻にもうんざ
りしていた。さらにこの不思議な大都市トーキョーでは、いっこうに時差ボケが治らずに参っていた。
一方シャーロットは、仕事が忙しい夫にほったらかされ、眠ることができず暇をもてあましていたのだ
った・・・。監督のソフィア・コッポラは「ゴッドファーザー」シリーズで有名なフランシス・フォード・
コッポラの娘であり、カメラマン・デザイナー・女優としても活躍している。99年発表の「ヴァージ
ン・スーサイズ」に続く監督2作目となる本作品でソフィアは、異国の大都市「トーキョー」を舞台に

                           2
選んだことを、自身の東京滞在の経験に関連して次のように話している。


「たとえば、ヨーロッパに行ったとしても、そこに掲げられている看板には違うスペルなんだけど、一
応アルファベットでプリントされていて、何とか読むことができる。でも、日本だとそれはできないの。
看板は読めないし、そもそも何を言われているのか見当もつかないのね。ほかにも、歩いているひとた
ちは外見も違うし、言葉の弊害もあるし。ああ、ここは自分の故郷から本当に遠いところなんだって思
     」『CUT No.164』株式会社ロッキング・オン, 2004年, 34ページ。
ったのよ。(                                      )


このソフィアの東京に対する印象が、この映画の出発点であり、二人の主人公の心を代弁している。こ
の「トーキョー」で出会った二人の主人公、そして「トーキョー」は、ではどのように描かれているの
だろうか。



 「ロスト・イン・トランスレーション」に現れる都市「トーキョー」
2.


 喧騒とネオンに包まれた都市、トーキョー。ホテルに向かう途中のタクシーの窓から、ボブは夜の街
並みをぼんやりと眺めている。この作品は東京のなかでも主に新宿と渋谷が舞台になっている。冒頭で
            ・
映し出されるネオンサイン 看板は、カラオケ店や飲食店のけばけばしい看板であり、外国人にとって、
           「読めない」看板である。また、街頭で流れる「何を言われているのか見当も
ソフィアが述べたとおり、
つかない」アナウンスが、主人公の疎外感を表わしている。この都市の中心部と対照的に描かれ、また
作品中でも多いのが、ホテル内の描写である。主人公二人が泊まっているホテル「パークハイアット東
京」は、新宿駅西口から少し行ったところに実在するホテルであるが、頻繁に見られる54階・56階
(それぞれボブとシャーロットが滞在しているという設定)から東京全体を俯瞰する描写は、二人の孤
立感・疎外感を暗喩させているといえる。
 この作品においては、テレビの滑稽なバラエティー番組・スピーカーを使い、車に乗って大声で選挙
演説をしている描写など、外国人の目から見て不思議に映ること、つまり日本のステレオタイプが多く
描かれているが、それ以上に力が入れられているのは、雑多な人ごみにおいて孤立している主人公たち
の描写である。冒頭で、ホテルに入ったボブは混雑したエレベーターに乗り込むが、誰一人としてそこ
            翌日撮影に臨んだボブは、
で言葉を交わすことはない。          いい加減な通訳と多くの関係者に囲まれている。
広告のための写真撮影でも、どうポーズをとったらいいのかよく分からないまま、大勢の日本人に囲ま
れて困惑している。また寂しさを紛らわすためにシャーロットは街へ出るが、渋谷駅ハチ公前の混雑し
た交差点や、それぞれが他人に関心を持つことなくゲームに没頭しているゲームセンターの描写を見る
と、多くの人に囲まれていながらも、実際はシャーロットが、そして人々がみな孤立しているというこ
と、孤独であるということが際立って見える。二人はホテルのバーで出会った後、シャーロットの友人
                  そのあとで向かったカラオケボックスでも途中で抜け出すと、
たちに会いに夜にクラブへと出かけるが、
二人で廊下のイスに腰掛け、疲れた顔を見せている。結局、そこでも二人は仲間との完全な一体感・安
心感といったものを得られなかったのである。
 二人の仲が親密になっていくにつれて、ある変化が生じる。ホテルの部屋の描写は、最初、二人の孤
            「人が多くいて、
立感を表わしてしていたが、       雑然としていながらも、そこにいると自分が孤立している
                         「トーキョー」から孤立しているがゆえに、孤
と感じてしまうトーキョー」から避難していられる場所、

                          3
独にはならない場所として、ホテルの部屋の持つ意味はだんだんと変化していったといえる。二人の仲
が親密になっていく過程や、二人が内面を吐露する会話がなされるのも、やはりホテルの部屋の中なの
である。クラブ~カラオケへとはしごしてホテルに帰ってきて、ボブがシャーロットを部屋まで送って
からベッドに寝かせてあげる場面では、二人の間の距離が急速に縮まる。また二人で浴衣を着てベッド
に横たわり、日本酒を飲みながらテレビの映画を見るという場面がある。このあと二人はベッドの端と
端に横になり、結婚生活やこの後の生き方について、互いに背を向けたまま語る。


「2人は、今まで誰にも話したことなかった胸中を互いに語り合う。ボブは妻へのやるせなさをシャー
        『自分はギターを習いたいが、妻はそんな自分を馬鹿にしている。妻というものは、
ロットに告白する。
         』そしてさらに続ける。
常に正しいのだろう。         『子供を持つと、それまでの生活は何もかも変わる。いま
や、妻の興味は子供だけ、自分を必要としていない』と。シャーロットはそのような結婚生活は送りた
くないと願い、自分とジョンは絶対にそうならないと信じていた。彼女は若くして結婚した。まさか、
こんな風になるとは・・・・・・どうして誰も教えてくれなかったのだろう?当時は、考えもしなかった。彼
                           」『ロスト・イン・トランスレーション』角
女にとって結婚は、とにかくロマンティックなものだった。(
          )
川書店, 2004年。


 ここで二人は、互いに孤独で疎外感を抱いていること、それは「トーキョー」にいるのがすべての原
因というわけではなく、どこにいてもつきまとっている悩みであり、異国の地の慣れない生活をきっか
                                「トーキョー」の雑踏と、そこ
けに、ついにそれに気づいてしまった、或いは認めてしまったのである。
から離れてぽっかりと浮遊しているかのようなホテルの部屋。このふたつの場所が対照を成していて、
この作品の双軸となっていると見ることができる。



3.映像作品としての「ロスト・イン・トランスレーション」


 都市「トーキョー」と主人公たちの描写については、前章で述べたとおりである。ここでは「映画」
という点から本作品における「トーキョー」の描写を見ていきたい。ここで「映画」という点から作品
        「映画」
を見なおすのには、   という手段を通じてこそ表現しうることがある、また効果的な表現ができる
ものもあるだろう、と考えるためである。
 まず、映像という点から。冒頭の街並みの場面に象徴されるように、この作品では意図的にややピン
ボケ気味の、ぼんやりとした映像になるよう撮られているシーンが多くある。冒頭で、ボブがタクシー
の窓から外を見やるシーンでは、ネオンサインがぼんやりと映し出されている。これは、ボブが時差ボ
ケでぼんやりしていることを思わせるが、それと同時に東京の雑然としたイメージ、目に飛び込んでき
た異国の強烈な風景――強烈なゆえにぼんやりと見えてしまう、という主人公の主観をも表わしている
と考えられる。この他にも、ホテルから東京全体の風景を俯瞰したり、東京の夜景を映したりするカメ
ラは、やはりぼんやりと柔らかく映している。
   「トーキョー」
 また、      の描写という点からは少しはなれるが、周りでしゃべっていることがよく分から
  という二人の状況は、
ない、        日本人の喋る日本語に一切字幕をつけないことによって効果をなしている。
その意味で、この作品は日本人にとっては逆に理解しにくくなっている(字幕がなくても、もちろん日
本語の台詞は意味がとれるため)といえるが、この演出の意図を理解することで、ソフィアが試みた「不

                        4
思議な都市トーキョー」の演出が十二分に伝わってくるだろう。
 そして、音楽という点から見ると、全体的に浮遊感が漂い、かつ柔らかなノイズが特徴的な曲や、コ
ンピューターで作られた機械的なリズムを多用した楽曲が使われている。サウンドトラックには主な名
前として、Air, Kevin Shields, Jesus and Mary Chain などが挙がっている。Air はフランスはパリ発の
        甘いメロディーとエレクトロニカが混ざり合ったクラブ向けの曲を多く作っている。
ポップユニットで、
この作品では、シャーロットが京都を一人で散策するシーンで彼らの曲が使われている。ソフィアの前
作「ヴァージン・スーサイズ」でも彼らは楽曲を提供しており、こちらではそこはかとなく漂う憂鬱感
と、思春期の子どもの不安定さというものが楽曲に表れている。Kevin Shields は 80 年代のイギリス・
マンチェスターから現れたバンド My Bloody Valentine のフロントマンであり、ノイズギターとポップ
なメロディーを融合させ、一大ムーブメントを巻き起こした。本作品では、冒頭でのシャーロットがベ
ッドで寝返りを打っているシーン、夜の街が俯瞰され映し出されるシーン(こちらは My Bloody
Valentine 時代の曲)などで5曲が使用されている。エンディングで流れる Just Like Honey は Jesus
and Mary Chain によるもので、甘いメロディーにノイジーなギター、そして全体的にかけられた強烈
なリヴァーブが、この映画のせつなくもさわやかな終り方、そしてぼんやりと幻想的に映し出される不
思議の都市トーキョーの描写にマッチしている。全体として、輪郭があまりはっきりとしない楽曲を用
いることで、なかなかはっきりと見えてこない「トーキョー」像、人の感情や心の動きというものはそ
んなに明確に表わせるものではない、ということを象徴させていると考えられる。



おわりに


 以上、二人の主人公の描写、映画作品という観点から本作品における「トーキョー」について論じて
きた。物語に関していえば、この作品が日本に対する単なるステレオタイプの寄せ集めではなく、右も
左も分からない異国において、自身の気持ちを見つめなおすきっかけとなる体験をする物語であるとい
うことが分かった。この作品は、異国の大都市「トーキョー」で感じた、理解されないという孤独感・
孤立感は結局、どこにいっても、故郷にいてもずっと感じていたものであるということ、ある出会いを
通じてそれに気づき、次の一歩へ踏み出そうとしていく二人を描いている。そしてここで描かれている
「トーキョー」という都市は、混沌としていてやはり未だに謎だらけで、多くの人に囲まれていてもひ
とは孤独なのである、ということを象徴しているように思われる。また、そのような象徴としての存在
といえるだろう。       「ここは自分の故郷から本当に遠いところなんだ」
        ソフィアをして、                      といわしめたこの
「トーキョー」は、二人が出会うために、そして進んでいくためにこれ以上ないという舞台だったので
ある。



参考文献
◇ 『Cut 2004年5月号 No.164』株式会社ロッキング・オン、2004年。
◇ 『ロスト・イン・トランスレーション』角川書店、2004年。




                                  5
水曜2限                                   6201202 ヨーロッパ文学
Ⅰレポート                          金持みどり



内面に開かれた街、渋谷

                      (1996 年、幻冬舎)
扱った作品:村上龍『ラブ&ポップ トパーズⅡ』
           (1988 年、角川文庫)
参考:村上龍『トパーズ』


 『ラブ&ポップ』の主題
1.


『ラブ&ポップ トパーズⅡ』は、高校二年生の吉井裕美が、十二万八千円のインペリアル・トパーズ
の指輪を手に入れるために「積極的な」援助交際に踏み込む、という 1996 年8月6日の物語である。


   プラダのバッグが欲しいから援助交際で得た金で買って今という時間を楽しむ、という彼女達の
   意識と行動は日本社会の雛型で、それが本当にそれだけで完結したものだったら、それは閉鎖的
   な日本的洗練の生きたモデルということになり、娯楽と教養としての、つまり単なるヒマつぶし
                   (
   の小説以外の文学は、不要となる。『ラブ&ポップ トパーズⅡ』あとがき)


援助交際をする女子高生たちを取材し、一度は「文学の有効性」を疑いかけた著者がこの小説を書き上
げたのは、彼女たちの意識と行動が「本当にそれだけで完結した」ものではなかったためである。つま
りは、この物語のなかで女子高生・吉井裕美が求める「指輪」は単なるモノとしての指輪ではなく、ゆ
えに『ラブ&ポップ』は、援助交際というひとつの事件(きっかけ)を通して変化する(もしくは、あ
きらかになる)主人公の心の動きを扱った小説であると言える。女子高生が本当に求めているものにつ
いては、著者自身があとがきのなかでこう述べている。


   ブランド品と援助交際を口実にして、女子高生達は出会いの「可能性」に飢えている、と仮定し
   て、アンディ・ウォーホールの作品のように書かれるべきだと思いながら、私はこの小説を書き
   始めた。


『ラブ&ポップ』は 1988 年に発表された『トパーズ』という都市小説の続編でもある。以下は『トパ
                 『ラブ&ポップ』にも共通する主題がみてとれる。
ーズ』のあとがきからの引用であるが、


   風俗産業に生きる女の子達は、ある何かを象徴している。/それは、女性全体の問題でもあるし、
   また都市全体のことでもある。/(…)彼女達は、必死になって何かを捜しているが、時折それ
   は、男や洋服や宝石やフレンチレストランという具体的な形になって現れ、またいつの間にか消
      (
   える。『トパーズ』あとがき)


8年という年月にともなう変化として、書かれる対象が「周縁」的存在として街を補完する風俗嬢から、
「まとも」な女子高生に変化しているが、都市を生きる彼女たちの言葉にならない感覚と行動が時代の
先端をいっている、という著者の認識は変わらない。そして、著者はその「言葉」を「翻訳」すること

                           6
を試みる。


   文学はモラリティを扱うものではない。/自分ではその動機さえわからずアクションを起こし、
                                           (
   時にはモラルを突破する人間の前駆的な言葉を翻訳するのが、文学だと私は考えている。『ラブ
   &ポップ』あとがき)


 『ラブ&ポップ』での三人称と語り手
2.


 女子高生たちの前駆的な言葉の翻訳、                『ラブ&ポップ』
                  という著者の意思とその立ち位置は、       あとがき
の最後にも示されている。


   私は、あなた達のサイドに立って、この小説を書きました。


                     『ラブ&ポップ』の物語は三人称で語られる。そのため
「あなた達のサイドに立っ」たにもかかわらず、
文章は説明的であるし、風俗嬢の「あたし」という一人称により、主人公の内面から出た感傷的言葉の
連続によって物語が進行する『トパーズ』にくらべ、語り方も淡々としている。三人称で語る、つまり
                                    『ラブ&ポップ』に、
登場人物と状況を説明するための「語り手」に物語を支配させる、という手法は、
『トパーズ』                       (童話や説話はたいてい三人称で物語
      にはないある種教育的ともとれる意図を感じさせる。
   )
られる。 それは、のちに『13 歳のハローワーク』という本を幻冬舎から出版する村上龍という作家の、
                   「彼女たち」
作家としての立ち位置の変化とも言えるし、     に対する心理的立ち位置の微妙な変化であると
も言えるかもしれない。しかし、その三人称での語り方を見れば、それ以上に大きな理由があることが
わかる。
 三人称で物語ることの利点のひとつは、主人公以外の登場人物の心理を自然なかたちで描写できるこ
とにある。しかしこの小説では、主人公以外の登場人物の心理が直接描写されることはなく、主人公・
                           『ラブ&ポップ』での語り手が、主人公・
吉井裕美の視点を通して推測されるに過ぎない。このことは、
裕美の意識に限りなく近い位置を保っていることを示している。
 登場人物の名前の表記に着目してみると、それはより明白となる。主人公・裕美が本名を知っている
人物=親しい人物の場合は「漢字・フルネーム」で、裕美が音声でしか名前を認識していない人物につ
いては「カタカナ」で、ニックネームしか知らない場合は「ニックネーム」で表記されている。つまり
語り手は、小説世界を見下ろす「神」のレベルではなく、主人公・裕美の意識レベルに意図的に置かれ
ている。
  前田愛が『都市空間のなかの文学』                       『ラブ&ポ
                  で触れているインガルデンの図式をここで用いると、
ップ』という「テクストの内空間」の定位の中心、すなわち「零点」は「語り手」である。一人称が主
語でないにもかかわらず、その「零点」から広がる空間は、限りなく主人公・吉井裕美の意識に近い。
つまり、通常、テクストの内空間の「零点」は裕美に置かれているように感じられる。読者が「ズレ」
を感じるのは、主人公・吉井裕美についての説明を読むときで、それはその時だけ「吉井裕美」が「語
り手」によって「語られる」からである。逆に、裕美の感情が高まり、裕美の独白がそのままテクスト
となる際には、まぎれもなく裕美の視点が「零点」となる。
 では、なぜ一人称が避けられたのか。それは主人公・吉井裕美の描写にかかわっている。
語り手が三人称で吉井裕美についての情報を読者に与えるとき、それはしばしば仲良しグループの他の

                        7
3人の情報と同時に、そして彼女達と比較して語られる。


   母親はグリーンのスーツを着て仕事に出かけた。母親は新しく世田谷区にできた写真とデザイン
   の美術館の事務職をしている。/父親は普通の商社員だが、裕美が生まれる二年前に遺産を受け
   て、井の頭線の沿線に小さな建売る住宅を買った。一階にリビングとキッチンと主寝室、二階に
   子供部屋と客間が一つ、野田知佐や高森千恵子の家に比べると狭いが、横井奈緒のマンションよ
   りは少しだけ広い。


これは物語の冒頭部分、主人公・吉井裕美の両親と住宅についての描写であるが、主人公・吉井裕美に
ついての情報は、主人公の友人3人の情報と同時に、並立して与えられることに注目したい。それはす
なわち、主人公がつねに他の友人3人との関連性のなかで自分自身を認識していることを意味する。そ
こで認識される「自己」は、友人との比較によって客観化され、カタログ化された=「自分自身によっ
て見られている」自分である。主人公がつねに自分についてこのような方法で認識しているとすれば、
それが、                         『ラブ&ポップ』
    この物語が三人称で語られる理由なのではないだろうか。       というテクスト空間
                      「語り手」が主人公について説明するとき、主人公の
のなかで、主人公・吉井裕美は「見る人」である。
立場は「語り手」または「読者」によって「見られる人」に転ずる。しかしそのように見えてじつは、
「見ている人」である語り手の視点は、自分自身を見つめる吉井裕美自身のまなざしでもあるのではな
いだろうか。


3.都市の描写


『ラブ&ポップ』において、渋谷という「都市」が単なる物語の舞台としてではなく、主人公の意識・
心の動きを視覚化・構造させた街として意図的に使用されているのだとしたら、建物や地名が与えられ
た機能についてはもちろんのこと、その描かれ方についても考察する必要がある。個々の「場」の描写
は、主人公個人の意識のあり方が視覚化されるプロセスであり、それらが合わさって浮かび上がる全体
図は、作者が主人公の「まなざし」を通して読者に認識させる「渋谷像」でもあるからである。
                     場所についての直接的な描写が最小限にとどめられ、
この小説が他の小説と大きく異なっているのは、
固有名詞や文字・音声によって主人公の身体・視線の移動が表現されているところにある。商品名、会
話、文字の羅列は、著者の意図する「ウォーホール的」描写の試みであると同時に、主人公に認識され
る都市としての渋谷でもある。主人公にとっての渋谷、それはひとつの視点を中心に広がる統一性のあ
る空間ではない。関連性のない音や文字の情報により構成されたモザイク的な都市である。
興味深いのは、こうした描写を読者が「読む」ときの体験である。場所についての描写=手掛りが極
端に少ないがゆえに、読者は前田愛の言う「テクストの内空間」の「地」の部分についての想像力を最
大限にはたらかせることになる。渋谷に一度でも行ったことのある人ならば、渋谷駅ハチ公前につての
自分の記憶を引っ張り出し、テクスト空間に重ね合わせ、書かれていないその様子をありありと思い浮
かべることができるだろう。ハチ公前の様子が、人々の会話、駅周辺の看板、宝くじ売り場の売り声な
どによって描写されるとき、読者は紙に印刷された文字の羅列の長さぶん、主人公の知覚を同時に体験
することになる。この時間・空間的体験は、ウォーホール的というよりもむしろ3D的であるとさえ言
     (主人公の最後の援助交際相手が、
えるだろう。               当時一世を風靡した3D映画の主人公のニックネームを
                           )
もつこととこの「体験」が関係しているのかは定かではない。

                      8
 さらに、ベッカーズやTSUTAYAなどのチェーン店の描写にもこの手法が用いられており、この
                                 (渋谷のTSUTAYAも、
場合、渋谷を訪れたことのない人でもその「店体験」をすることができる。
福島のTSUTAYAも、店内の構造が変わらないのがチェーン店であり、渋谷も福島も「都市」であ
               )
るという点においては同質である。


4.人間関係と「場」の機能
                      「内―外」という図式で『ラブ&ポップ』を理解する
 ロトマンの空間モデル、すなわち「我々―彼ら」
と、この小説は主人公・吉井裕美が自らの意志で「内」空間から「外」空間へと向かっていく物語であ
る。
 主人公の一日の動きを追ってみると、以下のようになる。


□ 家(母)
□ 自分の部屋
□ 電車
□ 渋谷駅、ハチ公前
□ ベッカーズ
□ 古着屋
□ 丸井
□ 109
□ センター街 マイアミの上にあるカラオケ屋
□ 109
□ タクシー
□ 池尻大橋、TSUTAYA
□ タクシー
□ ハチ公前
□ 東急Bunkamura裏手のデニーズ
□ ラ・セーヌ(ラブホテル)
□ シャワーズ
□ 家(父)


このなかで、援助交際がおこなわれる3つの場所(カラオケ屋、TSUTAYA、ラ・セーヌ)は、主
               「内」から「外」への移動手段はそれぞれタクシーであったり徒歩で
人公にとって「外」の空間である。
あったりするが、それは携帯電話という道具を媒介としている。そして、この3つの場所は、主人公が
引きずりこまれていく相手にとっての「内」空間という意味で、象徴的な役割を担っている。以下、そ
の「場」の機能について考察したい。


4.1 マイアミの上のカラオケ屋
                    「カケガワ」にとっての「内」空間)は、野田知佐の提案
 「カケガワ」の希望であったシャブシャブ(
によってカラオケに変更される。カラオケの機能は、交流と共有であると言えるだろう。友達同士の場
 「おなじ歌を知っている」ことで心の場を共有する。一方、大きく年齢の異なる人同士の場合は、お
合、

                         9
互いの世代の歌を知り合うことで心の場を共有する。この日最初の援助交際相手である「カケガワ」は、
はじめにスピッツやシャ乱Qを歌う。つまり、相手=裕美たちの「内」に入ろうとするのである。次第
に場の流れは昔の歌へとかたむいていくが、これは裕美たちが相手の「内」に引き込まれていく過程で
もある。最後の歌も「カケガワ」がうたい、裕美たちは「カケガワ」の「リクエスト」に従ってお金を
得る。ここで彼女達が精神的・肉体的にほとんど傷ついていないことと、場所が裕美たちが日常でも使
                    無関係ではないだろう。
用するであろうカラオケ屋であったこととは、         カラオケ屋は裕美たちにとって、
完全なる「外」の空間ではないからである。


4.2 池尻大橋のTSUTAYA
                   「ウエハラ」の生活圏内である。
 渋谷の繁華街から少し離れたこの場所は、             「ウエハラ」が指定するコ
ンビニとレンタルショップは、                      「ウエハラ」
              都市で生活する若者の行動様式の象徴とも言える。     の裕美へ
                       その変化は道路からレンタルショップ「ウエハラ」
の呼びかけ方は緊張の薄まりとともに親密さを増し、                (
                              「ウエハラ」は、彼の妄想による店
にとっての「内」空間)へという場所の移動の過程で起こっている。
                   「ウエハラ」との精神的・身体的接触、および裕美が友人と
員への個人的復讐のために裕美を利用する。
別れひとりで行動しているという点からみて、池尻大橋のTSUTAYAは、マイアミの上のカラオケ
屋よりも、裕美にとって「外」である度合いが高くなっている。


4.3 ラ・セーヌ
 裕美は「キャプテンEO」の本名も、強姦し金を盗むという本来の目的も知らない。ラブホテル内の
                           「キャプテンEO」の本来の目的が達成さ
部屋は密室であり、裕美にとって完全に「外」の空間である。
                          「キャプテンEO」にとっての「内」空間)
れなかったことと、フロントの女性の侵入により密室空間(
が破られたことは、因果関係として繋がっていると同時に、心理―空間の対応関係においても呼応して
                           「キャプテンEO」の「内」空間に深く入
いる。強姦されることも、お金を盗られることもなかったが、
り込んだため、その代償として裕美の心も深く傷つく。


4.4 デニーズ
 ラブホテルに行く前に、裕美は「キャプテンEO」と、デニーズで待ち合わせをする。家族との幸せ
な思い出の象徴、ファズボールを抱えた「キャプテンEO」と、ファミリーレストランで待ち合わせを
する、という状況もまた象徴的である。デニーズに向かう途中の電話で、裕美は「キャプテンEO」が
危険な人物であることを本能的に察知している。               「外」
                      デニーズはこの先待ち受ける危険、  空間への一線
を踏み越えるためイニシエーションの場であったといえる。


4.5 シャワーズ
 ここで出会う「コバヤシ」は、裕美と直接関係のない人物である。そもそも事件はコバヤシの携帯が
                                   「コバヤシ」の性別は男
きっかけで起こるが、その携帯も横井奈緒が「コバヤシ」に借りたものである。
であるが、ゲイなのでその欲望が裕美に向かうこともない。裕美は彼との会話を通じ、傷ついた心の「回
復」と感じたことから、シャワーズは裕美にとっての「内」と「外」の「境界」と位置付けることがで
きるだろう。裕美はシャワーズで、脅されながら聞いた「キャプテンEO」の言葉や、自分が援助交際
           「コバヤシ」の口からあらためて聞き、その意味をゆっくりと理解していく。
をする理由などについて、
言葉にならなかった自らの感覚と行動が、言葉によって意味付けされていくのである。そしてそれを実

                       10
感するのは、完全な裕美の「内」空間である、自宅の自分の部屋である。


5.主人公の物語
                           「キャプテンEO」に出会ったことで裕美
 「境界」の機能は、しかし厳密に言えば「回復」ではない。
                      「他者との出会いの可能性」を求めた主人公は、それ
は傷ついたが、それだけではなかったからである。
によって何を得たのだろうか。
             「家」や「109」は、自分が傷つかない場所であったといえる。裕美と
 主人公・吉井裕美にとって、
母親・父親、そして3人の友人との会話は、なるべく相手を傷つけないように、という気遣いのもとで
      「家」と「109」
すすめられる。       、両親と友人3人は、広い意味で、裕美にとって「内」にあたる人物
である。
 しかしよく見ると、家の中にも「自分の部屋」と「それ以外」の「内―外」関係が見てとれる。裕美
が「バイト」と呼ぶ、雑誌のカタログづくりという趣味は、自分の部屋でおこなわれる。また、裕美は
トパーズを手に入れるために、自分だけで稼いだお金を使いたいと強く思う。主人公・吉井由美には、
                                        「外」に触れ
両親や親しい友人、そして恋人という一見充足した「内」なる人間関係の場から抜け出し、
たい=「他者」と出会いたい、という無意識の欲求があったと言える。
 他者と出会う=「内」から「外」へ向かうという行動は、一方で「他人の欲望が自分に向かう」=「自
分に価値があると思」えるという魅力にあふれている。なまえだけの「ブランド」に対する裕美の反発
を、中身のある自分自身を獲得したいという欲求のあらわれと理解することもできるだろう。しかし一
方でその行動は、自分の精神や肉体を傷ける可能性をも含んでいる。1996 年8月6日の吉井由美の行動
                    「外」の空間に触れることで、傷つくと同時に大切なもの
は、彼女が自分の意思で「内」の空間を離れ、
を得るという物語である。それは、吉井裕美が他者と出会うことで自分自身と向き合い、その意味付け
をおこなう作業でもあった。


6. 全体としての渋谷像
             「渋谷」はどのような「街」として描かれているのだろうか。商品名、固
 さて、それでは全体として、
有名詞、そして文字、音声の羅列という手法から浮かび上がるのは、消費とコミュニケーションの情報
                       「109」はショッピングの場であると同時に、ナ
が入り混じる、雑多な交流の場としての都市である。
ンパや伝言ダイヤルなどによる人間の出会いの場としての役割を与えられている。欲望を瞬時に充足さ
   「待ち合わせ」や「交換」の場としての「渋谷」に開かれた場所としてのイメージが浮遊する一
せる場、
方、その裏にはカラオケやビデオショップ、ラブホテルなどの「密室」のイメージが複雑に絡みあって
  「欲望」は人の内面のもっとも繊細な部分にかかわっており、人が欲求するのは、本当は「モノ」
いる。
          「モノ」があふれる渋谷という街はそれだけで自己完結せず、つねに開かれた場
ではない。それゆえに、
所として存在するのである。




                       11
香港旅行記

                               ドイツ科 3 年 小島陽子


 7 月 31 日、名古屋空港から 10 時発の飛行機に乗る。行き先は香港。私の友達は中国人で、その子に
会いに行くのだ。彼女とは、私がドイツに留学している時、語学学校で知り合い、3 週間の間ひとつの
住まいを共有していた。いつも一緒にご飯を食べ、登校したり、買い物へ行ったり。3 週間だったが、
仲良くなるのには十分な時間だった。ドイツで彼女と別れる時に、お互いの国へ遊びに行こうと約束を
した。まずは私の番だ。3 泊 4 日で、長旅とはいえないが、一つの都市を見てまわるのにはちょうどよ
く思われた。旅行直前まで友達と連絡を取り、空港まで迎えに来てくれたり、宿泊も彼女のお姉さんの
           彼女がすべて自分の面倒を見てくれる。
部屋を貸してくれたりと、                英語が通用するといわれる香港だが、
やはりこちらとしても、そういう手配など安心だ。
 香港までは 4 時間かかり、1 時間の時差がある。到着予定は 13 時。出発時の天気は快晴で、空から眺
める日本はなんともおもしろい。密集する住宅、連なる山、煙が立ち昇る工場。飛行機から見下ろす光
景は、外国人が持つ日本のイメージに応えているかのようだ。台湾を飛び越え、中国大陸が見えてくる。
単に山が多いのではなく、日本の山と違って自然の厳しさというのを実感する。私のイメージする中国
大陸にぴったりだった。
 まもなく香港に到着。上から見下ろす香港は、いくつもの小島に囲まれ、異国情緒たっぷりだ。それ
ぞれの小島から、霧に包まれながら海賊たちが現れてきそうだ。そこには、再び堂々とした山が見える
が、その中に高層ビルらしきものがあちこちに埋まっている。         「深夜特急」
                            まるで墓地のようだ。     の作家、
沢木耕太郎もシリーズ 1 作目の香港・マカオ篇で次のように語っている。
                                  「すぐ眼の前に今にも崩れ落
ちそうな高層アパートがそびえるように立っている…すべての建物がコンクリートの林の中で視界を失
         」
うほど密集している。
 空港で友達を待つ。私の周りでは様々な言葉が飛び交っている。中国語、日本語、英語、韓国語。香
港に、世界中から人が押し寄せている。しばらくして、友達の姿が見えた。久しぶりの再会は、やはり
感動だった。一人で香港へ来るという心細さが、一気に吹き飛んだ。私たちはまず、私が泊まる部屋へ
行くことになった。九龍空港から、海の向こうにある香港島へとバスで向かう。先ほど上から見た、高
層アパートが目の前を通り過ぎる。香港にはおよそ 7 百万人の人が住んでいるが、日本と同様、居住地
に苦しんでいるのが分かる。場所をとらないように、高層マンションを建てて、多くの人が住めるよう
にしている。一時間ほどで家に到着。今度は外から見ていたそのマンションに、自分が入っていくのだ。
玄関のドアの前に、鉄格子がある。なんとも厳戒されている。その鉄格子をくぐり、ドアを開け、部屋
に入る。中の様子をじっくり見たかったが、友達が立てた計画に従って、そそくさと部屋をあとにし、
香港島の中心街へ行くことになった。初めに行った場所は、名前を覚えていない。とにかく、街の中に
あるいくつものエスカレーターを上り、上へ上へと目指す。友達が言うには、そこの上からの景色がき
れいだという。たしかにきれいだった。昼間の景色も素敵だ。帰り道は別の道で行くつもりで、またそ
の道の両脇に多くのお店が立ち並び、おもしろいらしい。しかし、どうやら彼女は方向音痴らしく、道
に迷ってしまい、周りには高層マンションしかない道を行ったりきたりしながら、さ迷い歩くこと 1 時
間以上。ようやく元の場所に戻ってきた時には、すっかり夜になっていた。そこからまた私たちは地下
鉄を利用して別の場所へ移り、買い物街へ行く。そこは銅鑼湾(コーズウェイベイ)というところだ。
その頃はおよそ 19 時だったが、街の中に人があふれていて、それぞれが自分の目的地へ向かったり、

                         12
屋台などに群がったりしている。私たちも、人気のありそうなお店を選び、つくねのようなものや、シ
ュウマイなどを嗜んだ。少し味に癖のあるもの(例えば豚の大腸)もあるが、出来立てのものはやはりお
いしかった。そして、タイムズ・スクエアでウィンドウショッピングをしたあと、タクシーで海岸沿い
           タクシーの運転手さんは優しそうだったが、
のレストランに向かった。                  運転そのものは非常に荒かった。
たくさん立ち並ぶレストランの中から、安くて雰囲気のよさそうなお店を選りすぐり、ようやく腰を落
ち着けられた。それまで、ずっと歩きっぱなしだった私たちは、疲れが限界に来ていたように思う。そ
のお店では広東料理が食べられるのだが、私にはメニューに何が書いてあるのかさっぱりだし、何が典
型的な料理か予想もつかないので、すべて友達に任せることにした。料理が来るまで、席から眺める九
龍の夜景を見ていた。香港では 100 万ドルの夜景が見られると有名だが、それは九龍から眺める香港島
の夜景であり、              100
       その時香港島にいた私たちは、 万ドルの夜景は見られなかった。ひとまずお預けだ。
そのレストランでは、牡蠣が入ったオムレツと酢豚のようなものを食べた。そのオムレツは牡蠣のだし
が入っていて、とてもおいしかった。しかし、店員さんの態度がひどく悪い。私たちが注文したはずの
ものが一向に来ず、再度注文し、料理をもってきた時も、謝りもしなければ、一言も話さない。これが
中国のサービス業なのかと思ったが、私の友達もひどく憤慨していた。
 8 月 1 日。前日の疲れがあったのだろう、私たちは遅く起き、ブランチをしにレストラン(朝から?!)
へ向かった。その日は友達のお母さんも一緒に 3 人で食事をした。家のすぐ近くのレストランだが、マ
ンションの周りにはあらゆるお店があって、金物や、乾物屋、粥屋など、その中でも、そこは多くの種
類の飲茶が食べられ、常にたくさんの人が入るらしい。その日は日曜日とあって、いつも以上に人が多
く、レストランの外でも列が並んでいる。友達もお母さんも、やはりたくさん食べるのだが、それ以上
にお茶をたくさん飲む。それはジャスミンティーだったが、食事の時は常にお茶を手元において、ひた
すら飲み、お茶がなくなったら、店員さんに手を上げて知らせ、新しいお茶を持ってきてもらう。店員
さんはひっきりなしに、あちこちのテーブルへと動きまわっていて、いかにも大変そうだった。
 食事を終えると、お母さんと別れ、私たちはバスで赤柱(スタンレー)と呼ばれる場所へ向かった。
赤柱は香港島の南に位置し、リゾート地として栄えている。その日も快晴とあって、大勢の観光客がそ
こを訪れ、日光浴をしていた。またそこにはスタンレー・マーケットという市場があり、そこには約 150
軒の商店が並び、中国雑貨や洋服が手ごろな価格で買うことができる。私もそこで、友達へのお土産を
いくつか見つけることができた。再びバスで、中心街の中環(セントラル)に戻り、今度はスター・フ
ェリーという船で、九龍で最も栄えている場所、尖沙咀(チムサアチョイ)へと向かう。沢木耕太郎も、
               「
このフェリーについて書いていた。九龍の各所から集まった路線バスから吐き出された客は切れ目なく
                                          」私が、
フェリーに吸い込まれ、またフェリーから吐き出された客がそれらのバスに吸い込まれていく。
そのバスから吐き出された客のうちの一人になったのだと思った。
 気づくとすでに夕方になっていたので、おなかをすかせた私たちは尖沙咀で夕食を済ませ、夜景が見
える場所を探し、待ち構えていた。夜の 7 時といっても、まだ空は明るい。私たちの周りには家族連れ
         それぞれ前で見ようと押しあい圧し合いしている。
やカップルであふれ、                     だんだん時間が経つにつれて、
海を挟んで浮かんでいる香港島が、タワーや高層ビルのネオンで満たされていく。休日や祝日では、い
くつかのタワーからレーザーが放射されていて、ひとつのショーのようになっている。この部分はもち
ろん人工的に作られた夜景だが、他の大部分は、香港の住民が無意識に明かりをつけ、それが集まった
り散らばったりしながら、ひとつの景色が出来上がっている。時々、向こう岸の夜景を望んでいる人々
の前を、遊覧船や小型ボートが横切り、これらもまたその景色に加わっていく。十分そこでの夜景を楽
しんだあと、私の友達は、また別の角度からの遠望を提案し、私たちはヴィクトリア・ピークという山

                        13
を目指した。その山は香港島にあるので、まずはフェリーで香港島に戻る。山といっても、それほど遠
くないし、それ専用のトラムを使えば中心から 20 分ほどで到着する。夜 10 時近くというのに、トラム
には人がぎゅうぎゅうに押し詰められ、そのままの状態で急な坂を上っていく。山頂に着くと、またそ
こには先ほどよりも多くの光に満たされた香港があった。自分たちが、少し前までいた場所も、ネオン
が輝いていて、その光景の中に自分がいたのが不思議だった。そこで、また「深夜特急」の一部分を思
    「香港には、光があり、影があった。光の世界が眩しく輝けば輝くほど、その傍らにできる影
い出した。
                                        」
も色濃く落ちる。その光と影のコントラストが、…目をそらすことができなくなったのだ。
 8 月 2 日。この日は私の友達が働きに行くので、夕方まで一人で行動することになる。日本で買った
ガイドブックを片手に、どこへ行くか計画を立て、10 時ごろ動き出した。香港には、いろいろなストリ
ートがあり、生活用品の道、女性用もしくは男性用の雑貨の道、他には金魚が売られている道があった
りして、非常に特徴的なものが多い。私はそれらが集まっている、尖沙咀から北に向かった旺角(モン
コック)までを歩いてみることにした。一人行動とあって、少しの不安もあったが、歩いてみると自分
がいる国がどこか分からないくらい多種の国籍にあふれかえっているし、目的の旺角までは彌敦道(ネ
イザン・ロード)という道をひたすらまっすぐ突き進むだけなので、知らない間にその場の雰囲気を楽
しんでいた。また歩いていて気づいたが、私はそこまで日本人ぽくないようで、店員さんからは常に広
東語で話しかけられていたので、警戒しなくてもよいか、と肩の力が抜けていたのかもしれない。絶え
間なく続くその道は、歩道は人で、車道は車とバイクで埋め尽くされていた。歩道では、人それぞれ歩
く早さが違うので、人を追い越したり抜かれたりしながら蛇行して歩いていた。上にも横にも看板がか
けられ、夜になるとこの通りもまた、ネオンできらびやかに変身するのだろうと思った。2 時間くらい
歩き、旺角までたどり着くと右へ曲がり、今まで歩いた道と平行に戻っていく。その道が女人街とよば
れるストリートだ。この通りには両脇に店が立ち並ぶだけではなく、二重三重となって横にも店が続い
ている。携帯の装飾品、かばん、ティシャツ、靴、下着などなど女の子が好むグッズが目白押し。しか
し、これだけのお店があるのだから、少し歩くとさっきもここを通ったのではないかと思うくらい、同
じ商品を扱うお店がたくさんある。そうなると、その品物自体にあまり価値が見出せなくなってしまう
私は、ただただ通り過ぎるだけ。再び、彌敦道に戻り、通ってきた道とは反対側を通って戻る。時間が
経っても人の数は一向に減らない。
 尖沙咀へ再び戻り、私はプラネタリウムへ行った。私が見たプログラムは「探索巨行星」というもの
で、木星や土星などがどういう仕組みになっているかを教えてくれるものだった。特別にすごいという
ところはなかったが、地下鉄の駅 4 つくらいの距離を往復したものだから、静かなところに座って、落
ち着くことができた。プログラムが終わって、そこから出ようとする時に、ひとつの家族を見かけた。
なにやら聞き覚えのある言語でしゃべっている。
母:Wie findest du das?
父:Ich finde es langweilig. Lanweilig.
母:So? Ich fand es ziemilich gut. Besonderes fuer die Kinder.
この家族は、お父さんが中国人、お母さんがドイツ人らしく、子供二人がいたが、常にドイツ語で話し
ているようだった。この家族以外にも、ドイツ人をたくさん見かけた。
 そうこうしているうちに、友達との待ち合わせの時間になった。友達と、彼女のお母さん、お姉さん、
そして私でレストランへ行くことになった。その日までに、私は典型的な広東料理というものをほぼ味
わったのを知ってか、その日はイタリアンレストランへ出向いた。私としてはできれば中華料理をまた
しても食べたいところだったが・・・。食事のあと、友達と私、そして彼女の友達も呼んで、油麻地(ヤ

                                           14
ウマティ)という所に行った。時はすでに 22 時。こんな時間に何があるというのか、私はさっぱり予
想もつかなかった。人気のない道を歩き、一本横の道にそれた。と、そこには再び屋台の行列。もうす
ぐ深夜というのにもかかわらず、明かりに照らされたお店が並んでいる。どんどん歩いていくと、今度
はまた雰囲気の変わった屋台が並ぶ。その通りには、手相占い・人相占い師が座っていた。その人たち
の後ろには、こんな有名人の手相を当てました!といわんばかりの写真が多く見られ、また観光客目的
に、英語、日本語での占いもできるとの表示も。私の友達がなにやら恋愛で悩んでいるらしく、占い師
をじっくり吟味し、50 歳過ぎのおじさんに手相と人相を見てもらうことにした。もちろん、すべて広東
語で話していて、私は彼女がさっぱり何を言われているのか分からなかったが、どうも胡散臭い。しか
も、話が延々と続く。途中、私ともう一人の友達は席をはずし、飲み物を買いに行った。すでに 24 時
を回っていた。戻ってきたが、まだ話は続いている。他の占い師はみな店を閉めてしまった。ようやく、
解放されたのが 1 時。私は何より、自分が家に帰れるか心配だったが、香港では深夜タクシーだけでな
く、深夜バスが運行している。とても便利だ。しかし、このバスの運転も非常に荒い。信号待ちでも前
の車にぶつかるのではないかというくらい接近するし、自分たちより先に出たバスを追い越したり追い
越されたり。まるで深夜のカーレースだ。その時は、さすがに眠気も吹き飛んだ。いよいよ明日は帰国
の日だ。
 8 月 3 日。16 時 45 分に、名古屋行きの飛行機が出る。ということは、私は最低でも 13 時に家を出な
ければいけない。空港までは 1 時間くらいだ。友達は午前中だけ仕事があるので、彼女が家に来るまで、
荷物の整理をしようと思った。私が朝ごはんを食べようと思い台所に入り、ふと窓を見た。なんだ、こ
れは。私が見えたのは、景色でもなんでもなく、隣の人の部屋。こんなに高層マンションが密集してい
るのだから、当たり前といえば当たり前だが、ここまで他人の家の中の様子が見えては、非常に生活し
にくそうだ。でも、これが香港の住民の生活である。彼らにとっては、これが当たり前なのである。プ
ライバシーという言葉を頻繁に口にする日本では、避けられる立地条件だろう。
 荷物を整理している間、テレビをつけ、中国ではどんな音楽が親しまれているか聞いてみることにし
た。知らない中国語の曲、もしくは洋楽を耳にするのだろうと思っていたが、それに付け加え、日本の
歌謡曲も頻繁に流れていた。まさか、こんなところで日本語を耳にするとは意外だった。しかも、他の
チャンネルを回してみると、日本料理を日本語で紹介したプログラムに広東語の字幕をつけたもの、日
本の歴史番組など、結構日本のプログラムが多い。昔は、中国大陸から文化が伝えられ、最近では韓国
番組が流行ったりと、日本は受身的だと思っていたが、それどころか中国に大きく日本文化が影響して
いる部分も見られた。
 気付くと、すでに 13 時。友達からその時電話があり、13 時 30 分に着くと言う。どこかで飛行機の 1
時間前まではぎりぎり大丈夫だと聞いたことがあり、それまでにまだ時間があると言い聞かせ、とにか
く彼女が来るのを待つことにした。この家から飛行場までどのように行けばいいか、実際分からなかっ
たのもあるが。彼女が家に着くと、私にたくさんの香港土産を差し出し、くれた。突然でビックリした
が、同時にやはり嬉しかった。すぐに、お土産をかばんにしまい、私たちは空港に向かった。彼女は、
あまりにも落ち着いていた。まだ時間はある、お昼ご飯を買おう、彼女はそう提案してきた。彼女が世
界中を旅行しているのを私は知っていたので、すっかり安心して、彼女にペースを委ねた。中環から飛
行場までのバスに乗り、後はもう帰るだけとなった。そろそろ空港に着くとき、時計を見た。なんと、
15 時 45 分。私の飛行機が出発する 30 分前。驚いた私たちは、一目散にチェックインカウンターへ向
かった。友達がカウンターでアテンダントの人と話している。アテンダントが何を話しているかは分か
らないが、ずっと首を横に振っている。いやな予感がした。私たちは別のカウンターへ向かったが、そ

                           15
このアテンダントの人も首を横に振るばかり。乗り過ごしてしまった・・・
 私はどうしていいのか分からず、ただ呆然と座り込んでいた。とにかく、日本に帰るチケットだけは
手に入れたが、次の飛行機が飛び立つまで 17 時間。友達も何を話していいのか分からず、私の横で家
族と電話をしていた。ようやく私が口を開き、今までの旅行の話をした。友達は私と一緒に、空港で待
つといってくれたが、それは非常に申し訳ないし、彼女も仕事があったので帰ってもらうことにした。
最後の別れは、少し微妙なものになってしまったが、彼女のおかげでいろいろなものを見ることができ
たし、また長らく会えないので寂しさもこみ上げてくる。私たちはまた会う約束をし、別れた。さて、
それから私は、8 月 4 日の 9 時までひとり空港で待つこととなった。非常に心寂しい。そして、少し怖
い。けれど、香港は警備員やパトロールがかなり厳しく取り締まっているので、そこまで心配すること
もないようだった。とはいえ、結局 2 時間だけうとうとし、その間音楽を聴いたり、本を読んだり、暇
をつぶすのに苦労した。
 今回の旅は、まさにいろいろな経験ができた。今後の旅行に繋がっていくだろう。度胸もついた。日
本に着いた時は、さすがにほっとしたが、とにかく寝るのが先だった。振り返るのはもう少しあとにし
よう・・・




                        16
水曜2限授業レポート

                 異様な都市、立川

                           6201604 塚越靖一


府中に住む私はちょっと街に出かけようというときは、どうしても東側の、新宿などの山の手方面へ
と目が向き、西の都市には足を運ぼうという気にはならない。わざわざ地方へ行く必要もないという考
えが働くからであると思う。しかし、一つだけ例外な都市がある。立川である。
立川には私を吸い付ける魔力がある。後の文の中で、立川という都市について述べていくが、別に私
は、立川競輪に熱中しているわけでもなく、百貨店めぐりをしているわけでもない。ただその街に行き
たいと思わせる街が私にはいくつかあるが、その中でも立川は特に異様と感じる。その異様さが癖とな
ってしまっているわけであるが、一体どのように異様なのか?歴史的背景を調べるとともに、実際街を
歩き、現在の立川という都市の様相を肌で感じ、その街並みに表された立川の「顔」から立川という中
身を自分なりに読み取っていこうと思う。そして、私が感じたその異様さとは何であったか?また一体
何からその異様さを感じ、それが立川という都市をどのように特徴づけているか明らかにしていきたい
と思う。



そもそも立川という名前は、平安時代に立川二郎宗恒が当時20戸程度の寒村であったこの地に地頭
として来たことから始まるといわれている。豊臣秀吉に滅ぼされるまで、およそ800年の間この地に
住んでいたことから立川の名が残ったようである。江戸時代に入り、現在でも立川市内を通る主要な道
路である甲州、青梅、五日市街道が整備され、また江戸幕府市街への重要な水路となった玉川上水も開
通された。
明治に入ると、現在の立川中心街は当初神奈川県であったが、現在のJR中央線の前身甲武鉄道が開
通され、より東京とのつながりが深くなり、東京都に編入されることとなる。1922年、立川飛行場
が開設され、戦前は国際飛行場としても利用されていた。しかし、戦争の開始とともに、日本軍の主要
施設となり、敗戦により米軍に進駐されることとなる。戦後は米軍の「基地の町」として歩み、現在の
立川駅北口方面にはすぐに基地が広がり、その東側に現在にも残る高松町の商店街があった。だが、立
川発展の中心は現在の駅南側にあたる地域で、市役所庁舎も南側の錦町に建てられる。1954(昭和
29)年、米軍が立川飛行場の拡張を要請し鳩山内閣が了承し測量を開始したことから、反対闘争が開
始された。裁判の方が有名となったが、砂川闘争の始まりである。その後、1977年に立川基地が日
本に返還され、その跡地の大半は国営昭和記念公園、立川広域防災基地、陸上自衛隊立川駐屯地東部方
面航空隊など国や都の各機関、医療機関、報道機関も多く集まっていますに転用されたが、一部はいま
              (図1)
だなお未転用のまま残っている。   この基地の跡地が現在の立川を考える上で、とても重要になっ
てくる。その後、立川駅北口と南口とを結ぶ自由通路コンコース、多摩都市モノレール、ファーレ立川
の建設と急速に発展してきた。


図1


                      17
 立川市は、人口約17万人、市域の南部には東西に流れる多摩川が、北部には武蔵野台地開墾の
源となった玉川上水の清流が流れ、平坦な地形にある。市域の中央部分は商業や業務を中心の市街
地と立川基地の跡地を利用した新しい街で、北部砂川町は都市農業や武蔵野の雑木林など緑豊かな
地域である。
現在、立川は多摩地区、西東京地区の中心地として存在している。なかには中心地は八王子のほうが
ふさわしいと考える人もいるかもしれない。確かに、西東京地方での人口、面積ともに八王子市は最大
規模で立川を圧倒している。また城下町、宿場町として発展してきた歴史も深い。歴史などの面から考
えると、府中や国分寺も中心地の候補として挙げられるかもしれない。しかし、私は現在においては西
東京の中心地は間違いなく立川であると思う。
まず交通網における中心地である。立川駅は、東京と山梨、長野方面へと続くJR中央線の主要な駅
であり、西東京の奥地である青梅、奥多摩への出発点となるJR青梅線、五日市線への入り口となる駅
であり、さらに、多摩川沿いを川崎から走ってくる南武線の終着駅でもある。また2000年に全線開
通し、玉川上水から多摩ニュータウンを走る現代的な多摩都市モノレールも南北に走っている。地図を
見るとわかることだが、立川駅を中心に、6方向に路線が伸びており、あたかもクモの巣の中心である
かのようである。ここで、そのなかでもJR中央線の路線に注目したい。東京駅を起点とし、新宿を通
り、西東京、甲州へと中央線は進んでいく。東京の中心である山手線の円からの出発(離脱)となる新
宿駅から、中央線は、西へと文字通り“直線的に”走る。その直線のもう一つの端にあたるのが立川駅
なのだ。それ以降は曲線を描いていき、山を避けるようにして谷間を進み、山梨、長野を目指す。中央
線と中央本線は同じ路線を走るものであるが、中央線の指すものは吉祥寺や三鷹にも停まるオレンジ色
の電車で、                        「あずさ」
     中央本線は山梨などの山の中を走っていく青い電車や、    に代表されるような特急電
車を表すようである。中央本線の青い電車は立川駅より東京寄りを走らないことからも、中央線の終点
且つ中央本線の始発となる駅となるのが立川駅で、西東京の中心としてふさわしい駅であると考えられ

                        18
る。
また、立川市は、国から首都圏の「業務核都市」に位置付けられ、商業や業務などの集積が図られる
と共に文化、研究、防災などの広域的な都市機能が整備され、拠点形成が進められている。現在、立川
駅北口側の開発が急速に進んでいるが、その一帯に消防庁をはじめとして、いくつかの官庁施設が移転
してきており、さいたま新都心や、みなとみらい地区と同様、新都心の一つとして展開している。北口
には、大型のマンションが次々と建設され、大企業の支店も多く集まる。大型百貨店も多数並び、立川
シネマシティは国内最高の音響設備を持つ大型シネコンであり、多摩地区の他の都市を、内容・規模と
もに圧倒する。都市の機能とも言われる生活する         、 (ビル、
                      (大型のマンション) 働く  支店、    、
                                        官庁施設)
憩う(ショッピング、映画館)のすべてを大きく兼ね備えた街である。
また将来的にも、立川基地跡地には、官庁施設をはじめとして、国や都の主要施設の移転が計画され
ている。また、立川と隣接する北西部には、広大な横田基地が存在し、基地が返還されれば、多摩国際
空港として利用しようという案もあるようである。そうなれば、最寄りの都市である立川の発展は大い
に期待されることとなるであろう。



そのような歴史と位置づけがされる立川に、私が感じた異様さを考えていくうえで、立川の都市部で
あるJR立川駅を中心に、北口南口それぞれに広がる都市としての立川の様子を見ていきたいと思う。
                        「立川」という名はこちら側に広がる街を指すこ
まず、立川基地返還以降、急速に発展しており、現在、
とがほとんどである、立川駅北口から見ていこうと思う。
JR立川駅北口と南口を結ぶ自由通路であるコンコースを通り、北口から出てみた瞬間そこに広がる
のは「のっぺらぼうな」立川である。見渡す限り見えるのは、銀色に光る平面的な近代的なビルばかり
で、建物のほとんどが大型の百貨店や銀行、ホテル等のビルである。そのすべてが基地返還以降に建て
られたものであるため、同質な直方体のビルばかりが西新宿や丸の内の高層ビルと同じように均等に並
ぶ。都市や景観を論じる際に、よく批判の的とされてしまう、まさに近代的日本そのものの街である。
ただし新宿や丸の内ほどの超高層ビルはない。立川の北西に位置する横田基地の関係で、航空法により
高層ビルの高さが制限されている。そのことにより、北口に広がる多くのビルの高さが切りそろえられ
たかのようにすべて45メートルくらい位の高さになっていて、さらにこの街を異様な雰囲気に包む。
『街並みの美学』の著者である芦原義信は、美しい街並みの形成には建物の輪郭線が重要な役割を果
たすと考えているが、その輪郭線には二通りあって、建物の外壁そのものが輪郭線となる場合(第一次
輪郭線)と、建物の外壁にとりつけられた突出物、付加物(つまり看板など)が輪郭線になる場合(第
二次輪郭線)があるという。これに従って各国の都市を見てゆくと、西欧の都市の街並みは第一次輪郭
          日本などアジア諸国の街並みは第二次輪郭線によって決まってくることが多い。
線により決定されるが、
立川駅北口の街並みはまさしくアジアの典型であろう。物すごく便利にはできているけれども、全く陰
影がない。
それらのビル群の中でも立川を特色づける、高島屋や伊勢丹などの大型百貨店の多さは、その品揃え
の内容、規模はともに銀座・新宿等に引けをとらないほど充実していてかなり便利ではあるが、人工的
な機能都市として感じられる。買う楽しみや驚きを求める人には向かない街である。


その近代的な都市としての様相の中で、私がもっとも奇妙だと感じ、またもっとも惹かれる部分であ
るファーレ立川という地域について見ていきたいと思う。立川という都市を語るうえでは、絶対にはず

                      19
せない要素であるほど独特な空間であるファーレ立川とは、JR中央線立川駅北口5分にある5.9ヘ
                      昭和記念公園と並ぶ新たな立川の顔である。
クタールの米軍基地跡地に展開された新しい街で、                  ホテル、
デパート、映画館、図書館、オフィスビル等、全部で 11 棟の建物からなるこの街は、そこで働き、訪れ
る人々の“創造の場”として未来に向け発展することを願い建設された。イタリア語の「FARE(創
る・創造する・生み出すの意)」に立川の頭文字「T」をつけ「FARET」と名づけられたこの街で
は、109ヶ所に設置された36カ国・92人のアーティストによる様々な作品が楽しめる。いわゆる
パブリックアートである。だが、建築計画がほとんど終わった後に、手がけられたため、ファーレ立川
のアートの多くは、換気口、排気塔、機械搬入口、ベンチ、サイン、街灯、車止め、散水栓等(図2)
であり、ビルの外壁などの「のっぺらぼう」な街並みを崩すまでには及ばなかった。すなわち抵抗に失
敗したパブリックアートであるのだ。都市と人間をつないでいこうというコンセプトのもとに製作され
たが、まずアートが都市と手をつなぐまでにいかなかった街、それがファーレ立川であると思う。しか
し、アート一つ一つが、立川を訪れる人たちの手をしっかりと引いているのは確かで、百貨店等々に変
わる新たな目的として注目されてきた。


 図2




「17 才」 袴田京太郎 (換気口)   「そのままの暮らし」 ホセイン・ヴァラマネシュ 車止め



 また、電車で立川へ行ったときに、立川に漂うもの、それは浮遊感であると思う。駅改札口を出て、
二つの駅ビル内を通るコンコースから外に出ようとすると、そこはビルの二階部分に当たる。北も南も
駅前ロータリーを下にして、歩行者専用のペデストリアンデッキ(空中歩道)が整備されている。南口
は多摩都市モノレール駅に繋がるところで終わるが、北口は空中歩道ですべてのビル、もちろんファー
               空中歩道を歩く以外は建物内において縦移動するだけですむ。
レ立川にも行くことが可能である。                          また、
モノレールは浮遊そのものでもある。地に足がついていないからか、どこか落ち着かず、また「のっぺ
らぼうな」街とも分離されているため、ますます浮遊感が強い。
 さらに、ファーレ立川が広がるビル群を抜けると、信じられないような光景が広がっている。光を反
射するだけの平らなビル群、その間の空中を進むモノレールと空中歩道、駅から続いた近代的な町の様
相を見て、その先にも近代的な街が続いていることを私たちは想像することであろう。その想像された
無限のイメージはすべて裏切られる。文字通りそこには何もないのだ。モノレールの線路と道沿いには

                              20
建物は一つもなく、公園ですらない。ただの広大な空き地であるのだ。始めて見たときの衝撃は今でも
覚えている。不意に宇宙船から宇宙空間に放り出されたら、このような気持ちでいっぱいなのだろうと
思った。
 例えば、その先がビルなどに隠れ、全く見えないような街であったら、街が「ない」としても、見え
ない近代的な街を想像することができた。本を読む際のテキスト以外の非現実的世界の想像と同様なこ
とができたはずである。また、ディズニーランドの例を挙げると、あのテーマパークは外を見せない。
             現実の舞浜という街を見せようとはしない。
内側の不思議な夢の世界から、                  周りは高い壁や建物で隠し、
あたかもその後ろにもパークが続いているかの様子であるところもある。そのため、普通は、壁の向こ
うに、瓦張りの屋根の日本家屋や、コンビニがあるとは思わない。無限の夢の世界を疑わずにすむのだ。
 しかし、立川は「ない」というものが見えてしまっている。想像しようにも、遥か先まで何もないこ
とがわかっていて、裏や外という考えもふさわしくないのだ。流れっぱなしで、境界とも呼ぶのはおか
しいような、とにかくそこに広がるのは空虚なのだ。海が広がっていたり、公園が続くのともまた異な
る。このことからも街から分離されてしまっている感じが強く、まさしく浮いている感じなのである
 だが、何もないがゆえの大きな利点は、未来への想像である。確かに、そこに街が広がっていても、
その街の未来は想像することができる。しかし、まっさらな何もないところに街を想像するのは、その
隣などを考慮に入れる必要がなく、あたかも自分が待ちそのものをデザインできるのではないかという
ような気持ちになる。この土地を使って何してやろうと、より夢的な部分が強く現れる。王様になった
ような気持ちになれるのだ。



 つぎに、立川駅北口の街とは全く異なる姿を見せる南口側の街を見ていきたいと思う。南側は大きく
4つのイメージが街を形成していると思う。もともとの中心地として、風俗の街として、ギャンブルの
街として、そして、宗教の街としての立川である。
 まず、そもそもの立川は南側がメインであった。というのも、北側には立川基地が広がっていたから
である。かつての中核であったため、市役所などの公共施設が多くまだ残っている。しかし、それらの
老朽化とともに、基地跡地開発が進み、近々北側への大引越しが検討されているということである。ま
た、北口側の大型マンションのようなものよりも、一軒家や低層なアパートがひしめき、いわゆる日本
の市街地的な風景が広がる。
 夕方くらいから、南口側駅前を歩いていると、派手な服装の女性や、タキシード姿の男性などに絶え
ず声をかけられる。夜になると、さまざまな色のネオンで彩られる。風俗店の数は八王子に匹敵するほ
どで、西東京最大規模であるようだ。路地も多くあり、エロティックな空間が広がっている。
 その風俗店街と同居するのが、ギャンブルの街としての立川の姿である。風俗店のネオンよりもさら
にいっそう明るいのは大型パチンコ店で、南口側で聴覚を最も刺激する街並みである。その街並みの中
に、WINSと呼ばれる、全国の馬券を買える場外馬券所があり、スポーツ新聞とカップのお酒を持っ
た人でいっぱいになる。また立川競輪場が線路の北側にあるが、ギャンブル好きは南で降りてWINS
やパチンコ店をはしごして、北へ行き、南から帰るのが普通であったようだ。
 さらに南側で一番異様に写る光景は真如苑の大集団である。真如苑は立川を中心として活動している
宗教団体で、東洋と西洋の宗教のどちらからも影響を受けている戦後できた宗教を信仰している。毎日
のように、立川駅から駅南西部にある施設まで、大行進が続く。休日などの人ごみは、花火大会に向か
う人々のように道路が埋め尽くされる。

                      21
そのように北口と南口に広がる街の様子は全く異質なものである。そしてその二つの異質な街がJR
線の線路を隔てて同居する立川という都市を考える際に、立川駅はとても重要な存在となる。立川駅と
言うよりも、駅の北口と南口とを結ぶ自由通路コンコースである。立川駅のコンコースは北出口から南
出口まで、直線であるため、例えば、南口から入ると、人ごみの奥に北出口が見える。南口から進み、
コンコースを抜けると驚く。世界が全く変わってしまうのだ。先ほど示したとおり、まず見た目が全く
異なり、漂う雰囲気、そこを訪れる人たちもまったく異なるタイプである。その二つの世界の境界とな
るのが天井を屋根で覆われた立川駅のコンコースである。日本のディズニーランド、ディズニーシーの
どちらも当てはまることであるのだが、あの実世界を離れたテーマパークへは、必ずチケットで入った
後にアーケードをくぐるのだ。アーケードから出るとそこには夢のような世界が広がっているのだ。数
年前大ヒットした「千と千尋の神隠し」でも異世界に入るためにトンネルを越えることは重要な境界と
なっていた。それらと同じように、立川駅コンコースは異なる世界に入るためのトンネル、境界の役割
をしていると思われる。


このように立川という都市について考察していくと、そこには不思議な関係が存在しているのだ。内
と外の関係である。また、その間の境界である。
JR立川駅北口に広がる街は、機能的に造られた凹凸のあまり感じられない「のっぺらぼうな」姿を
して、人々を宙に浮かせ都市の内部に触らせない。人と都市が一体となるのを拒否し、人を外部に押し
やる。その象徴的な例が、立川北口の街にはオープンカフェは存在せず、また似つかない。オープンカ
フェのある街は、建物と道が一体となることで、内と外を区別せず開かれた街並みを形成していると思
う。全く分離した街が北口の街だ。
立川駅の南側に広がる街は、立川の中身である市政を決定してきて、人間内部の欲望へと訴えかける
エロティックな風俗とギャンブルの世界であり、人の精神を決める宗教の世界である、内側へと引き込
む都市である。
また、北口の街は、立川という街の外面的な姿でもある。基地跡地を利用した昭和記念公園、官庁施
設、ファーレ立川、大型百貨店は、外部への強いアピールとなっている。その一方、南口は風俗、ギャ
ンブル、宗教色が濃く、外部へアピールしにくい。
森鴎外の描いたベルリンのように、内と外の対立項で現される空間であると私は考える。その間に存
在するトンネルの形をした立川駅のコンコースが、二つの全く異なる世界の境界となっている。この対
立する構図と、境界によって作られる都市としての立川の世界、それが私の感じた異様さの魔法を発し
        さらに発展していくであろう立川は、
ているのだと思う。               新たに一体どんな魔法を放つ都市になるのか、
考えるだけでわくわくする。そう、私は、この異様さを放つ立川という都市が好きである。




                         22
                                               2004 年 8 月 15 日(日)
                                            D3. 安藤沙矢子(6202012)




                        フランクフルトについて


                            【現在のフランクフルト】
                            フランクフルトはヨーロッパのほぼ中央に位置する国際都市で、
                            世界の金融・証券取引の中心であり、見本市(メッセ)もしば
                            しば催され、国際交流の合流点である。特に 2002 年 1 月から
                            導入されたヨーロッパ単一貨幣ユーロの流通センターとしてフ
                            ランクフルトは今世界の脚光を浴びている。また、ハイデルベ
                            ルクやライン川、ドイツメルヘン街道、ロマンチック街道と、
                            観光スポットへの起点として多くの観光客が訪れる都市でもあ
る。またドイツの空の玄関と呼ばれるフランクフルト国際空港は、旅客輸送では第二位、貨物の輸送で
はヨーロッパ最大である。そしてドイツの誇るアウトバーン網の中心でもあり、国内外への鉄道網もよ
く整備されている。フランクフルトはドイツの誇る文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ生誕
       文化政策にも力をいれている。
の都市でもあり、            ドイツの大都市の中で文化予算が第一位を占めており、
多くの博物館や美術館を有している。人口は約 65 万人で、エッセンに次ぐ国内第 6 位の都市である。
しかし日本の多くの大都市に比べて、美しい森に覆われた山々の間に位置するフランクフルトは落ち着
いた様相を持ち、ドイツでも豊富な緑と自然に恵まれた都市である。


【フランクフルトの名称】
フランクフルトはドイツ西部、ライン川の支流マイン川下流にある都市で、正式名称は Frankfurt am
Main という。マイン川の近くのフランクフルト、という意味で、ベルリン近郊のオーデル河畔の
Frankfurt an der Oder と区別している。
フランクフルトの地名は 794 年の記録にフランコンフルドとして記されている。これはフランコ(フラ
                        「フランク族の渡渉点」を意味する。フランク王
ンク族)とフルド(渡渉点、浅瀬)を合成したもので、
国メロヴィング朝の創設者クローヴィッヒ一世は、498 年カトリックに改宗した後、500 年頃アレマン
                                     「フランク族の(マ
族に戦いを挑み、大軍を率いてマイン川の浅瀬を渡り、強敵をこの地から駆逐した。
イン川)渡渉点」を意味する地名フランクフルトは、その戦闘に由来するという。マイン川の中の島に
は応急が造られ、ライン・マイン流域に拡がる王領の管理と王国の統治の重要な拠点となった。この渡
渉点はライン川上流部とドイツ平原を結ぶ交通の要でドイツにおける代表的な自由通行路でもあった。
そのためフランコフルドは「自由通行路」を意味する代名詞と考えられるようになり、ほかの地名にも
転用された。このように生まれた同名の都市、旧東ドイツのオーデル河畔にあるフランクフルト・アン・
デア・オーデルと区別するために、マイン河畔、アム・マインが地名の語尾につけられ、その最古の記
録は 1310 年に遡る。


【都市の特徴】
                                 23
              今日フランクフルトの中心地には星形の緑地(グリーンベルト)とジグザグ
              道路があり、過去の巨大な稜堡の跡を偲ばせる。この市壁が造られたのは三
              十年戦争の折で、中世の市壁では新式の兵器による敵の攻囲にもはや十分な
              防衛機能を果たさないことがわかり、ネーデルラント式築城法によって改築
              された。改築は若い技師ディリッヒとシュタウトが委託されたが、資金の欠
              如と労働力不足で工事が遅れ、やっと完成した 1667 年にはすでにスウェー
              デン軍は去っており、脅威はなくなっていた。
              (現在のフランクフルト)    改築された市壁は見張搭と市門をもつ古い城壁の
                 前方に突き出た堅固な稜堡を配し、
              周りに、              そこに備え付ける大砲によって、
     あらゆる側                        面からの攻撃を防御しうるものであった。
     :  「全
〔写真…上 講談社                                        日空シティガ
イド   フランクフル                                      ト」,    下 2
枚:中公新書「都市フ                                       ランクフルト
の歴史」小倉欣一、大                                       澤武男 著〕
(改築後の市壁)
(中世の市壁)




【戦後の復興―レーマー―】
                戦後のフランクフルトはまさに瓦礫の山と化していた。市民生活を正常
              な状態に戻すために、市長以下すべての市民は協力して 10 年にわたり瓦礫
              の山を片付ける作業をしなければならなかった。市庁舎とそれに付属する市
              役所諸機関の建物も、終戦直後ほとんどが廃墟と化していたため、はじめ議
              会は戦災を逃れたフランクフルト大学の講堂で開かれ、市庁舎も大学の建物
              を出発点として自治行政を開始した。しかし、まもなく中世以来の市庁舎レ
              ーマーと、それに付属する市役所建物の再建が決議され、1951 年にはその大
              方が使用できるようになっていた。復元は写真と図面を元にして正確に成さ
れた。現在のレーマーはこのときに再建されたものである。




【フランクフルトの抱える問題点】
  ● 犯罪…フランクフルトの「体感治安」は、日本の 2 倍以上の犯罪発生といえる。少しずつ減少
     しているが、依然として国内のほかの都市に比べて、薬物犯罪、外国人法違反事件等が多い状
     況となっている。フランクフルトでは、市民 7 人に一人が、何らかの犯罪被害にあっていると
     いえる。この高い犯罪発生率の背景には欧州有数の国際空港を抱え、年間 3000 万人を超す人
     が利用しており、またヨーロッパの中央に位置するアウトバーンの大交錯点であり、ドイツ最
     大の鉄道駅は、あらゆる民族・人種が入り乱れる場となっていることが挙げられる。その上国
     際金融・国際見本市の年としてのフランクフルトは、常時諸外国からの多くの来客をかかえて
     いる。しかもロシアを含めた東欧共産主義圏の崩壊と旧ユーゴスラヴィアにおける内乱により、

                             24
    多くの東欧人が生活の場をもとめて移住、流入、逃亡してきており、フランクフルトの治安を
    より複雑なものとしている。犯罪の筆頭にあげられているのは麻薬取引であり、世界最大の麻
    薬取引所の一つである。フランクフルト内での薬物押収量は、年間 900 ㎏前後である。またフ
    ランクフルト空港には、世界各地から違法な薬物が集まってきており、フランクフルト市内か
    ら欧州各地に運ばれているほか、市内にも大量に出回っている状況である。具体的には中央駅
    構内、中央駅地下通路などで麻薬常習者などが多い。また中央駅から伸びる Kaiserstraße を中
    心に中央駅前地区一帯は歓楽街を形成しており、ヨーロッパでも有数の赤線地帯である。同地
    帯はまた市内最大の麻薬取引所で、窃盗、スリ、恐喝などの犯罪の温床となっており、犯罪地
    区と化している。この地区への対処をめぐって市の各政党間には常に見解の相違があるが、市
    が一貫した赤線・犯罪地区政策をとらないため、数々の制限や規制があるとはいえ、大きな効
    果はない状況である。




【フランクフルトのイメージ】
                 何かにつけて「ドイツでもっとも議論の対象とされる都市」であるフ
                 ランクフルトの評判は、国内では概してあまりよくない。一般のドイ
                 ツ人にとって、この都市はあまりに目まぐるしく極端で、異常な都市
                 なのだそうである。ドイツ人の趣味に合わない高層ビルが乱立し、ベ
                 ルリンやミュンヘン、また近くのヴィースバーデンのような都市に比
                 べると、落ち着きのない商人の町という観がある。しかし一方で、ド
イツでフランクフルトほど世界に向けて広く門戸を開いているインターナショナルな都市はない。また
オペラやコンサート、美術、博物館など、フランクフルトほど多額の文化予算を有し、多彩で高度な文
化を享受する機会を市民に提供する都市としても、ドイツでは稀な存在である。市も否定的な印象を善
処しようと意識的に文化政策に力を入れていたようである。マイン川の南側には国際空港がすっぽりと
入っているドイツ最大の市有森林が広がり、市の北西にはタウヌスの森林丘陵地が別荘、保養地を形成
し、市全体が緑のなかに埋まっている状況で、自然環境も決して悪いとはいえない。外部からの批判に
                                「ごみごみとした町」というだ
対して市民が主張するのは、フランクフルトは「活気のある町」であり、
けの評価をされては困る、ということである。カール大帝が 1200 年前にフランクフルトの地名に文書
ではじめて触れたとき、この町をすでに「往来の盛んな、活気のあるところ」と記している。実際フラ
ンクフルト史にも、浮き沈みはあるものの、                  「活気に満ちた経
                    一貫して市の歴史を特徴づけているのは、
      「自由と開放性に裏打ちされた市民的伝統」
済力と旺盛さ」                   などであるこの自由と開放性こそ、フランク
フルトが誇りとする市の歴史的伝統である。




                         25
山口ゼミレポート
欧米第一課程ドイツ語学科3年 石井英恵
学籍番号 6202071
提出日     2004.8.15


新宿-----三つの混合----


1)初めに
 私はもう10年以上、東京に住んでいる。何の気なしにここに住んできてはいるものの、一番興味の
ある都市について論ぜよ、と言われたら、東京という二文字がぱっと頭の中に浮かんだ。だからと言っ
て私は別に東京という都市が好きではない。便利だとは思うが、住むにはあまり適さない場所だと思っ
ている。ただどうして東京が空襲の焼け野原を経てこのような大都市に発展したのか、そこに興味があ
るのだ。
 こうして私のレポートのテーマは決まったのだが、いざ取り掛かってみると東京全体について論じる
ことは無理だと思うようになった。つまり、あまりにも範囲が広いのだ。浅草に銀座、渋谷に新宿。どの
街も長く、そして面白い歴史を持っているので、すべての街について論ずるのは時間的に無理だ。さて
どの街に焦点を絞ろうかと思案した結果、やはり小さい頃から私の遊び場となっている所、新宿がいい
                                         ここから青
だろうという結論に至った。私の家は東京メトロ丸の内線の新中野という駅の近くにあって、
梅街道沿いに自転車で20分くらい走れば、すぐに東京都庁のあたりに行けてしまうのである。だから
新宿には小さい頃から度々足を運んでいて、それだからこそもっとも親しみのあり、興味のある街なの
である。
 とはいえ、私の新宿のイメージはかなりネガティブなものである。ごちゃごちゃしていて調和がまっ
                  、ホームレスがたくさんいる、人が常に多すぎる、等など。他
たくとれていない、怖い(特に歌舞伎町)
方、デパートなどショッピング街が充実しているのも事実だが、この街に長くいようとは思ったことが
ない。用を済ませたらさっさと帰りたいような街だ。
人がたくさんいると息苦しいし、ちょっと肩がぶつかっただけで怒る人もいる。
 だが本当に新宿は一様に否定的な街なのだろうか。このレポートを書くためにもう一度新宿を歩きな
おし、新宿という街を再発見してみたい。


2)新宿散歩----歴史と照らし合わせて----
①新宿中央公園
 私の家の最寄駅新中野駅を出発し、中野坂上方面に向かって幅広い青梅街道を20分くらい自転車で
進むと、ビルの数が増え人の数も増えてくる。新宿に近づいてきたからだ。しかし十二社通りを右に曲
がり暫く進むと、都心とは思えないような新緑地帯を目にする。これが新宿中央公園だ。木が青々とし
げっている。少し小さな森みたいだ。この公園は以外に大きく、周囲を歩こうと思えばゆうに30分く
らいはかかる。昭和43年にオープンし、面積は約95000平方メートルである。角にある警察所の
                                      、紀州熊野から出
側を通り上を見上げると、熊野神社が見えてくる。応永年間(1394から1427)
てこのあたり一帯を開墾し、中野長者と呼ばれた鈴木九郎が勧請したという伝説になっている。紀州熊
野の本宮・新宮・那智の三箇所には三所権限があり、そのほか四所の明神、五所の王子があり、合計1
2の神のあるところから十二所権現といった。これがこのあたりの町名だった「十二社」の由来である。

                           26
 ちなみに更にずっと東に行くと新宿御苑というもっと大きい公園がある。総面積約33万平米の広大
な土地で、宮内省の「植物御苑」だったのが昭和24年に厚生省の所管となって、国民公園として一般
に開放された。
②新都心


             区民センターを左に曲がると、新緑地帯の裏側に立つ超高層ビルが近づいてく
          る。まず見えるのは東京都庁で、ゴシック調のこの建物は非常に威厳がある。第
          二本庁舎を左にまがると、都庁通りという白とあずき色のタイルが敷き詰められ
          た大きな通りがある。人通りも少なく、自転車でも悠々と走ることができる。そ
          の先には都庁の議会棟への連絡通路が見えるが、その大きさと欧州的なデザイン
に圧倒される。ごちゃごちゃして人が多い新宿駅周辺からは想像もできないくらい広々としていて、非
常に気持ちがいい。都庁の議会棟はまさにヨーロッパのゴシック調の建物をそのまま新宿にもってきて
しまったかのようだ。1990年に完成したこの建物は48階、地下3階で、高さは243.4メート
ルもある。京王プラザホテル170メートル、センタービル216メートルだから、このあたりにたつ
高層ビルのなかで最も高い。
 その一本横にある議事堂通りには京王プラザホテルや NS ビルがあり、ここも都庁周辺同様に広々と
している。ここにはたくさんの高層ビルが立ち並んでいるが、あまり圧迫感や違和感がなく、互いに調
和しているのは何故であろうか。思うに、第一の理由は窓である。ここに立ち並ぶ高層ビルのほとんど
に窓、つまりガラス(もしくは鏡)がたくさんあり、その結果空の様子が反射されるようになっている。
だから高層ビルは周りに溶け込み、巨大な割にはあまり違和感がない。第二に色彩があげられる。どの
ビルも茶か白系か灰色なので互いによく調和しているのだ。
 このあたり一帯は昔浄水場であったのだが、昭和40年からその様相をかえる。その歴史を少し調べ
てみた。
 「淀橋浄水場の移転運動は、都が首都圏整備事業の進展をはかるため、昭和35年都独自の事業とし
て『新宿副都心建設の基本方針』が定まった。この副都心計画の最終的な構想は浄水場の跡地のみでな
く、駅西口をかなめとし、北は青梅街道、南は甲州街道、西は十二社通りで囲まれる扇状の地域96万平
方メートルに高度な都市計画を実施しようとするものであった。昭和31年9月の都議会で浄水場移転
が可決され、40年3月、明治31年以来市内に水を供給していた浄水場は、東村山に業務を移した。
これより前の昭和36年6月、副都心建設公社が設立されて、前記の事業を行うことになった。昭和39
年11月に着工した新宿駅西口広場は、世界ではじめての「駅前立体広場」といて41年11月25日
に完成した。浄水場跡地は11区画に分けられ、都水道局によって売却され、昭和42年から44年の
間に落札された。公社は288億円にのぼる事業を終えて昭和43年3月解散した。この地域の面積は
丸の内のほぼ2倍に近く、膨大な副都心地区となったのである。副都心地区のビル建築第一号は京王プ
ラザホテルで、昭和46年6月5日オープンした。新宿の従来の弱点は、本格的な国際ホテルをもたな
かった点であった。京王プラザホテルは世界81都市にチェーンをもつインターコンティネンタルに加
盟している。国際ペン大会やアジア放送連合総会もここを会場として開かれ、外人客が多く、ようやく新
宿も国際社会の中の新宿になった。室数1012、一日の来訪者25000、駐車場収容台数も500
                                         (新宿区の
台を突破する。南館は昭和55年に完成し、地上35階、地下3階と本館より小ぶりである。
         」
歴史、p82~84)
③新宿駅周辺

                        27
 KDDI ビルを過ぎたころからいままでの広さは消え、急に街がごちゃごちゃしてくる。人も増えてく
る。大きさも高さもまちまちのビルがたくさんあり、店に呼び込むための看板が目に付くようになる。
その看板は色も形も文字もばらばらである。日本ではカタカナ・漢字・ひらがな・ローマ字等様々な種
類の文字が使われ、その上横書きも縦書きもあるので、非常にばらばらで不釣合いな感じがする。以下
に新宿駅周辺の歴史を書きたいと思う。
 明治18年3月 1 日、日本鉄道は赤羽品川間、品川線を営業する。そして明治22年甲武鉄道が新宿
立川間(甲武線)を開通、新宿駅は日本鉄道と甲武鉄道両会社の共同使用駅となる。明治30年新宿駅
拡張が行われ、明治36年には豊島線(田端、池袋間)と品川線を併合して山手線と改称する。明治3
9年には新宿駅校内の改良工事を行い、新しく甲州口ホームと青梅口ホームを設ける。同年甲武鉄道が
国鉄に買収され、国鉄新宿駅となる。しかし昭和20年5月新宿駅は附属諸建物を焼失してしまう。昭
和22年から新宿駅の復旧工事が始まり、昭和39年には新宿民衆駅及び駅前広場地下駐車場も開業す
る。
       JR
 またこの年、 新宿駅東口「マイシティ」のビルが「国鉄民衆駅」             「民
                               として華々しくオープンした。
衆駅」と名乗るハシリであるが、民衆駅とは民間資本を入れて建設されるからだ。新宿はデパートの街
である。東口の三越、伊勢丹が昭和初年から並び立ち、丸いが4つの店を開いてこれを追っている。西
口には小田急と京王の両ターミナル・デパートがある。小田急は早くからデパートへの意欲を燃やして
いた。昭和31年から構想を進めていたが、西口の建設予定地に戦後のヤミ・マーケットのなごりが残
っており、立ち退き交渉が難航して遅々として進まなかった。そのとき東京建物 KK が建設していた現
在の小田急ハルクのビル借用の話し合いがついたので、ターミナル・デパートを後まわしにして昭和3
7年に開店にこぎつけた。条件は年6億円(一日200万円)という巨額の家賃を支払うというもので
ある。小田急は、昭和42年に西口の本館ができると59年にカリヨン橋を作り、駅前広場を北から西
にかけて包囲している。カリヨン橋は小田急本線と別館ハルクを二階で結んでいる。橋の上は小公園風
で、とくにここを名所化したのはハルク壁面のカリヨン時計、高さ7・6メートル、幅4・1メートル
の大時計で、日中一時間ごとに時を告げ、吊鐘の演奏とともに、熊、兔、ニワトリ、豚、カンガルーの
人形が動きを見せる。
 駅南口を通りこすと、高島屋が見える。これは1996年にできた新しいデパートだ。全面ガラス張
りで、夜になるとキレイにライトアップされる。JRのすぐ前にあるので高島屋前の道はいつも混んで
             いる。そこから左手に向かって少し進むと伊勢丹がある。周辺のビルとは違
             い、このビルは非常に古めかしく、堂々と立っている。伊勢丹は明治19年
             神田籠町に伊勢丹治呉服店を創業、昭和5年に株式会社伊勢丹を設立した。
             伊勢丹百貨店新宿本店は昭和5年に布袋屋の隣接地である都有地を買収、同
             8年に百貨店を竣工した。戦前ではもっとも新しい百貨店として登場し、更
に同10年には布袋屋を買収して話題を集めた。布袋屋とは明治12年神楽坂に開業した呉服店のこと
 明治15年に新宿三丁目追分角に地上6階地下一階の布袋屋百貨店を開業した。
で、                                  しかし昭和10年、
経営の失敗から隣接の伊勢丹百貨店に買収された。伊勢丹は戦後は進駐軍に建物の3階以上を接収され
た。米軍の第64工兵基地測量大隊でその後この米軍より経営のノウハウを教えられ、店員の教育にも
役立ち新しい経営基盤を作った。その後伊勢丹は増築を重ねて5370平米から61920平米の大百
貨店となった。実に11倍半の大躍進である。昭和28年の全館接収解除から、昭和31年北側事務館
増築、翌32年西側増築完成、35年西側パーキングビル完成など、10年内に大きな増築を完成して
いる。

                       28
④歌舞伎町
 伊勢丹を通り越し、靖国通りを左に曲がり、区役所のところで右に曲がると歌舞伎町が見えてくる。
ここは町がごちゃごちゃしていてけばけばしい上、道行く人の感じもあまりよくない。明治時代、この
土地は元九州大村藩主大村家の別邸で、うっそうとした森林であった。大正の初め、土地が買収されて森
林が伐採され平地となった。大正9年、現在の都立富士高校の全身である府立第五高等女学校がコマ劇
場あたりに設置された。一般住宅が建ち始めたのは関東大震災以後である。戦前は一般庶民の住宅と店
舗が入り混じっていた。昭和20年4月の空襲で灰に帰した。そして終戦の二ヵ月後には地主、借地人、
                                          「芸能広
その他罹災町民によって「復興協力会」が組織された。そして戦後の産業は観光にあるとして、
場のあるアミューズメントセンターをつくり、さらに近代的商店街をおりまぜた香り高い都民の慰安の
町とすること」をめざした。その構想は、大劇場2、映画館4、お子様劇場1、演芸上、大衆娯楽館1、
大ソシアルダンスホール1、これに大宴会場、ホテル、公衆浴場を含めたものであった。一方待ちの区
画整理も行われ、まちづくりにも懸命であった。敗戦後、米軍によって日本精神を鼓吹するような古典
劇が弾圧され、その存続が危惧されたが、演劇関係者などナ数が発起人となって、町の中央に、歌舞伎座
と明治座の中間の観客収容能力を持つ歌舞伎座劇場を建設することになり、その名称も「菊座」ときま
った。その頃、新しくこの町にふさわしい町名を名付けようと、協議の結果、歌舞伎劇場の建設を目的と
しているので「歌舞伎町」案が示され、当時の安井都知事が名付け親となり、昭和23年4月1日に新
町名が生まれた。だが当初の建設構想は、金融緊急措置例や建築制限などの禁止令によって必ずしも初
             「菊座」も同様なうきめをみて、実現できなかった。
期の目的は貫徹できなかった。
 現在の歌舞伎町は在日中国人や韓国人の資本が地盤をかため、戦前からの地元住民は町人口の一割も
ないといわれる。そして性風俗産業で、日本人男女に混じって、この「不眠症の街」に東南アジアからの
出稼ぎ女性の進出が話題になっている。                 「ほんの昨日」
                  そこでは国際社会の貧富格差を背景に、      までまず
しさのなかにあった日本と現代アジアの諸国とのあいだに“性の南北問題”が繰り広げられている。


3)結論
 じっくりと新宿を歩きその歴史を調べてみた結果、新宿の特徴は以下の三つの混合ではないかという
結論に至った。
                (雑踏/狭さの例:新宿駅周辺、自然/広大さの例:新宿中央公園、浄
①雑踏/狭さと自然/広大さの混合。
水場跡地に立つ超高層ビル、新宿御苑など)
②同じ新宿でも地区によって歴史、発展の仕方が大いに違う。           (浄水場跡地と
                            様々な歴史や発展の混合。
新宿駅周辺の店、また伊勢丹周辺や歌舞伎町の歴史はまったく異なり、あまり相互関係はない。それぞ
                                          )
れ独自の成長を遂げ、今新宿という大都市の傘下にありそれぞれが栄えているような気がする。
③上流社会と下流社会の混合。ここで上流社会とは超高層ビル街のホテル等を指し、下流社会とは歌舞
伎町や道にいるホームレスなどを指す。
 どこの都市にも貧富の差が激しいと思うが、新宿もその例にもれない。超高層ビル街をみて富を感じ
る反面、道にたくさんいるホームレスや歌舞伎町で働く人々は貧しさを思い起こさせる。しかしそのギ
    新宿が銀座や浅草を抜き、
ャップが、          様々な人をひきつける都市の中の都市となった原因かもしれない。


参考文献
石塚祐道「東京都の百年 県民100年史」1986、山川出版
新宿の歴史を語る会「新宿区の歴史」1977、名著出版

                       29
斑目文雄「江戸東京 街の履歴書③」1991、原書房
武英雄「内藤新宿昭和史」1998、紀伊国屋書店
http://www.asahi-net.or.jp/~cj4n-nkmc/d-data-n5.htm(東京都庁の建物に関するホームページ)




                                    30
専修専門科目 テクストの中の都市・テクストとしての都市      04/8/15
        前期レポート
欧米第一課程ドイツ語学科 3 年 6202207 甲田友子
[テクストとしてのプラハ]


 プラハという街について、外国人である私達が考えようとするとき、そこにはある決まったイメージ
                「百塔の街」
が付随してしまうようだ。すなわち、               、そして「魔術的な都市」と
                     「ボヘミアの美しい都市」
いう印象である。伝説の怪物ゴーレムから、錬金術、人形劇の伝統、カフカの『変身』の害虫など、中
世の頃の美しさを残した街並みには、神秘的なイメージをかきたてる材料が事欠かない。
 日本のコミックにしては珍しく、プラハをそのドラマの重要な舞台に選んでいる浦沢直樹の
『MONSTER』の中でも、都市はイメージをまとったものとして描かれている。初めてプラハの風景が、
夜景としてコマに描かれたとき、そこには登場人物のこんな台詞が重なる。
「こりゃあ、美しいや!初めて来たけど、夜のプラハの街って…まるで、おとぎの国みたいだ!」
 物語はプラハで謎の核心に迫っていくのだが、作者は風景としてのプラハの街を、この「まるでおと
ぎの国」というイメージを使って、ドラマの小道具にしている。繰り返し印象的に「3 匹の蛙の看板」
 「赤いバラの屋敷」という名前の建物が現れ、絵本作家や人形遣いが、その絵本・人形とともに登場
や、
する。まるで童話のような道具立てが、実際そこで起こる事件の凄惨さと相まって、物語の不気味さを
盛り上げている。
    『MONSTER』の中での「おとぎの国」プラハは、ストレンジャーが見たプラハであり、そ
 しかし、
れは観光客の視点を抜け出せていない、イメージの中の都市の風景である。
 プラハのゴーレムという印象を徹底づけた長編小説『ゴーレム』を書いたグスタフ・マイリンクも、
出身はウィーンであり生粋の「プラハっ子」ではない。
 私達が「プラハ」と聞いて思い浮かべるイメージは、どこからか実際の都市そのものとは遊離してい
るのではないか。
 フランツ・カフカ(1883~1924)は、生涯のほとんど全てを故郷プラハで過ごした作家である。彼の
作品の中で実際にプラハの地名が記述されることは少なかったが、例えば『審判』のような作品では、
モデルであろうプラハの風景が確認できる。
 カフカはかなりの散歩好きであり、仕事の後や休日にプラハ市内を歩きまわっていた。彼は、プラハ
の風景を見て、何を感じていただろうか。
         カフカという作家を中心に、
 このレポートでは、           外側からのイメージをまとったプラハの姿ではなく、
内側からの現実のプラハの風景を考えてみたいと思う。


1.標識
 カフカは 19 歳のときにすでに、
                 「プラハは放してくれない。この小母さんには鉤爪がついている」と
               「プラハを出てゆくこと。かつて僕が経験したものの中でもっとも苛酷
書いている。31 歳の日記には、
な人間的損失に対して、僕の持つもっとも強力な対抗手段で立ち向かうこと」と記すが、その 4 年後に
 「プラハ、人間たちと同様に諸宗教も失われていく」と記している。i
は、
 しばしば「カフカの都市プラハ」とまで言われるほどに、作家と都市は切っても切り離せない印象に
ある。一人の作家が、ここまで都市と密接に結びついているのも珍しいだろう。
 カフカの生きた時代のプラハは、オーストリア‐ハンガリー帝国ボヘミア州プラハ市という位置づけ

                           31
にあった。1900 年当時、プラハ市内には、約 415000 人のチェコ人、約 25000 人のユダヤ人、約 10000
人のドイツ人が住んでいた。社会の上層部は、少数派であるドイツ人、ドイツ系ユダヤ人が多くを占め
ており、そこではドイツ語が必須のものとされた。1882 年まで、大学はドイツ語の大学しか無かった。
それまでは、チェコ語ではギムナジウム以上の高等教育は望めなかったのである。
 18 世紀末あたりから上層階級の人々によって起こっていたチェコ人の民族運動は、19 世紀後半には
労働者や農民層にまで広がっていたが、それはこの国内の状況の中でチェコ語を中心に行われた。チェ
コ語が幅広く使用される社会を築くことで、チェコの国民社会を形成しようとした。また、チェコ語は
チェコ人にとってのアイデンティティの拠り所にもされた。
 1897 年、首相バデーニにより発布された、いわゆるバデーニ言語条例により、官庁でチェコ語もドイ
ツ語と同様に使用することが認められた。しかし、これはドイツ人側からの激しい抗議にあい、バデー
                                  「十二月騒擾」と呼ばれるプラ
ニは罷免される。この事に反発したチェコ人たちにより、1897 年末に、
ハ市内での暴動が起こった。
 平野嘉彦著『プラハの世紀末』は、カフカ、マイリンク、リルケらの作品ともにプラハを都市論的に
論じた、非常に興味深い 1 冊である。この本の中で、1900 年前後のプラハのこうした状況とともに、
プラハの標識の言語表記という事項が触れられている。
 1850 年頃、プラハの道路標識はほとんど例外なくドイツ語であった。1861 年に初のチェコ人市長が
誕生し、カフカの生まれた年である 1883 年には、ボヘミア州議会にもチェコ人議員が多数を占めた。
次第にプラハ市政にチェコ人勢力が優位を占め、1887 年ないし 1888 年にはドイツ人がプラハ市役所の
上層部から完全に排除される。そしてそれに伴うように、プラハの街路の名称表記が、ドイツ語からチ
ェコ語に改められ始めた。始めはドイツ語の単独表記であったものを、ドイツ語‐チェコ語の併記、次
にはチェコ語‐ドイツ語の併記となり、1894 年に、プラハの標識はチェコ語の単独表記に統一された。
 このめまぐるしい変化に、                       『プラハの世紀末』
             当時のプラハでの言語闘争を垣間見ることは容易い。        で
は、こうした標識の表記変化は、カフカの『あるたたかいの記』という初期の短編の中に“まぎれもな
い痕跡をのこしている”と、述べられている。生前、未発表だった『あるたたかいの記』を、後の『審
                               (           「カー
判』と比べて対照的なのは、プラハの街の地名が頻出することである。「フェルディナンド通り」
                              “プラハのドイツ人”たちの“その
ル橋」…)チェコ語ではなくドイツ語の地名を頻出するその仕方に、
生まれ故郷の街における見当識を阻害する”ことに対する「たたかい」を見出すことができるという。
 カフカが実際にそれを意識していたかどうかは分からないが、標識の言語変化が見逃せない事件であ
ることは確かである。都市そのものをテキストとして読む、都市論的な思考で考えるならば、標識は都
市というテキストの中での記号、時にはキーワードになる。標識を読み解くことで私達は、都市の中を
          そして目印であるはずの標識の言語が変えられてしまうことは、
進んでいけるのだから。                           作家にとって、
都市全体の信頼感をそこなうものではなかったろうか。


2. 衛生化措置
 1885 年に、プラハ市衛生審議会によって、プラハ旧市街の北部とヨーゼフ街(ユダヤ人街)全域の取
り壊しが計画され、それは 1893 年「衛生化措置条例」によって実行に移された。
                                       (ただし、作業開始は
1895 年になってからだった)そして、部分的には第一次世界大戦中まで続けられ、結果、約 600 の老
朽家屋が取り壊された。跡地には新しい賃貸住宅が建設された。ii
                   『プラハの世紀末』では、レーオ・ペルッツ『夜の石橋の下
 取り壊し前のユダヤ人街の印象について、
 (1953)の一節が引用されている。
で』

                             32
「相接して密集し、張り出しや建て増しが狭隘な路地を塞いでいる。荒廃の極にある老朽家屋。うっか
りすると、またしてもその錯綜のなかに迷いこんだあげくに進退きわまる、あのまがりくねった路地。
               」
光のささぬ通り抜けや薄暗い中庭。
 マイリンクの『ゴーレム』の中で、老人が主人公にゴーレムに出会った場所だと語るのも、ゲットー
の「通り抜け」である。
「いわゆる通り抜けのできる建物をわしが通り抜けてたとき、そいつが向こうからやってきて、あやう
           」
く衝突するところだった。
そしてこの老人は、次のように語る。
「むし暑い日に電圧が耐えられないとまであがっていって、しまいにぱっと稲妻になって放電するみた
いにだな、このゲットーの空気中にいつまでも変質せん想念が徐々に鬱積していって突然ぱっと放電す
るんだとは考えられんかね?-つまりそれはわしらの夢の意識をぱっと明るみに連れ出すような魂の放
                                     」
電で、それが自然界じゃ稲妻を生むみたいに-ここじゃ幽霊を生むんじゃないかな。
 衛生化措置により取り壊された後のユダヤ人街には、もはやゴーレムを生み出すような鬱積した空気
                                            『ゴ
は存在しなかっただろう。けれど一掃されたかと思えた闇は、人々の内側に残り続けた。カフカは、
ーレム』を読んだ感想として以下のように語ったという。
「私たちの内部には、暗い裏街、秘密めいた通路、盲窓、汚い中庭、喧騒にみちた酒場や得体の知れな
い安宿などが、いまなお生きつづけています。私たちは、新しくつくられた市街のはばひろい大通りを
あるいていきます。しかし、私たちの歩みや眼差は、どこかおきつきません。心のなかでは、私たちは、
まだあの昔ながらの陋巷にいるかのように、おののいています。私たちの心情は、衛生化措置が断行さ
れたことなど、まだ関知しません。私たちの内部に生きている、昔の不潔なユダヤ人街は、私たちをと
りかこむ衛生的な新市街よりも、はるかに現実の重みをもっています。醒めつつ、私たちは、夢のなか
                               」iii
を歩いているのです。みずから、過ぎ去った時代の一個の亡霊として。


3.カフカの散歩道
 ヴァーゲンバッハ著『カフカのプラハ』には、カフカが好んだプラハの散歩道が 3 コース紹介されて
いる。そのうちの一つが、クロインヘルツ公園からカール橋を渡って、ラウレンツィ山まで行くコース
である。   「あるたたかいの記」
    これは、         の中で   と
                    「私」 「連れの男」が夜の散歩をするコースと一致する。
 1891 年、バウムガルデン公園で「ボヘミア万博」が開催されたが、この際にラウレンツィ山にはそれ
を記念して、パリのエッフェル塔を模した展望タワーとロープウェイが設置された。この万博は、盛り
上がりを見せていたチェコ人による民族解放運動のシンボルとなった。
 ラウレンツィ山山頂駅行きロープウェイの発着駅の目の前には、ゼミナール庭園が広がり、またその
左には<飢えの壁>が見えるが、これはカフカの小説『万里の長城』の、インスピレーションの元とな
ったという。
 カフカには彼が大学生か、もしくはギムナジウムの学生であった頃の、ラウレンツィ山での体験につ
         「<彼>―1920 年の手記」という散文がある。
いて想起して書いた、
             僕はたぶんとっても悲しい気分でラウレンツィ山のベンチに座っていた。
「もう何年も前のことになる。
自分が人生に対して抱いていた願望を吟味していたのだ。もっとも重要で魅力的な願望は、人生の展望
を得ること(そしてそれと不可分であるが、その展望を文字にして他人に納得させること)だった。こ
の展望においては人生が自然のままの重い降下と上昇をもち、しかも同時に少なからぬ明瞭さをもって
ひとつの無、ひとつの夢、ひとつの浮遊として認識されるのだ。…しかし彼にはそのように願うことは

                       33
全く不可能だった。というのも彼の願望は願望などではなく、単なる防御、無の世俗化であり、無に対
して彼が与えようとした陽気さの名残に過ぎなかったからだ。当時彼はまだ無の中へ自覚的な一歩を踏
み出してはいなかったが、無が自分の要素であることはすでに気づいていた。それは当時の彼が青春と
いう仮象世界に告げた一種の別れだった」
 この体験は、その後の彼の美学に決定的な影響を残すものであったという。iv
               「飢えの壁」
 ラウレンツィ山からの帰り道を、     づたいにずっと歩くとストラホフ採石場が見えるが、こ
  『審判』のラストでヨーゼフ・K が処刑される石切場のことである、という説が強い。
こは、
 『審判』では、唯一つ「ユーリウス通り」という架空の地名が出てくる他は、特定の地名や建物の名
前は書かれず、暗喩されているにすぎない。ヨーゼフ・K がイタリア人の案内に向かって教戒師と対峙
することになる大聖堂は、プラハ城の聖ヴィート大聖堂であるという本もあれば、フラチーン城内のフ
ァイト大聖堂とする学者もいる。


4.通りに面した窓
 カフカの一家は 1896 年、市庁舎小路のカフカの生家、ミヌタ館につづいて、ツェルストナー小路 3
番地の三王館に引っ越した。カフカはこの時ギムナジウムの 4 年生だったが、一家はその後 1907 年ま
での 10 年余りをここで過ごす。その間にカフカは、大学を卒業し、司法修習生として働いている。
 この頃に書かれた多くの作品はほとんどが破棄されたが、例外的に最初のカフカの本に収録されたも
のもあり、そのひとつが「通りに面した窓」という散文である。v
「通りに面した窓
 孤独に暮らしながらも、ときにはどこかと繋がりをもちたいと思う人、一日の移ろいや天候、仕事の
状況などの変化に思いを馳せ、誰の腕であれ縋ることのできる腕を見たいと望む人、そういう人は通り
に面した窓がなくては、長い間持ちこたえることはできまい。そして彼が何を探すでもなく、ただ疲れ
た男として下の群集と空の間に視線を泳がせながら、窓の手摺りに近寄って、自分ではそんなつもりも
ないのに頭を少し後ろに反らしていると、下で馬たちが馬車と騒音を率いて疾駆するそのまっただ中に
                                 」
彼を巻き込んで、ついには人々の団居の中へと彼を連れ去ってくれるのだ。
 この散文を読んで受ける印象は、前期に授業で扱ったクラカウアーの「Aus dem Fenster gesehen」
に似ている。どちらも、恐らくは自分の部屋の窓から、外の風景を目にした時の、窓枠の中の世界が与
える印象を書いている。
 クラカウアーが眺めていたのはベルリンであり、カフカの窓の外はもちろんプラハである。この2つ
の違いを考えてみる時、                        「カフカのプラハ」
           忘れてはならないのはプラハの抱えていた分裂である。        の中
に、以下のような記述がある。
「カフカが身をもって体験したプラハは深く分裂した都市であった。貴族、軍人、実業家からなる(ド
イツ系の)上流階級が、反動的とは言えないまでも保守的であったのに対し、一方(チェコ系の)下層
階級の方は、民主主義的とは言えないまでも国家民主主義的ではあった。…こうした階級間の相違、そ
れは階級の悲同時性と言ってもいいのだが、それは手で掴みうるほど明らかなものであった。制服姿の
御者に操られて軽快に疾駆する貴族用四輪馬車の傍らを、数はまだ少なかったにしろ、すでにライヒェ
ンベルク製の自動車が走っていた。参加者二十万人の最初の大規模なデモが社会主義者たちのよって組
織され、その行進を先の 1866 年の普墺戦争の際に授与された勲章を胸につけたオーストリア・ハンガ
                   」
リー二重帝国の年金受給者が見物していた。
 カフカの窓の下には馬車だけではなく、ひょっとしたら自動車も走っていたのかもしれない。矛盾し

                           34
た風景は、プラハそのものが抱える問題も明らかに表象していた。


5.まとめ
 その美しさと精巧さで有名な、プラハの旧市庁舎の天文時計にはさまざまな伝説が伝わっている。ひ
とつには、天文学者ハヌシュは 15 世紀にこの時計を完成させると、プラハの市会議員は同じ時計をほ
かの街で作らせないようにするために彼を襲った。ハヌシュは盲目となったが、彼の死後に時計はぴた
りと止まって動かなくなってしまったという。
 1551 年から 72 年にかけて、時計を管理したヤン・ターボルスキーがそのからくりを改良したおかげ
で、再び時計は動き出したが、ターボルスキーの死後にまた時計は止まる。
 1948 年に、ナチスが破壊した市庁舎を再建する時に、時計には電源装置が取り付けられ、そして 400
年もの間動かなかった時計は、再び動き始めた。vi
       この時計さながらに、
 プラハの街は、        どこかで中世以来止まり続けてきたかのようなイメージがある。
しかし実際には、時計は動かなくても、その前を様々な人が通り過ぎてきた。カフカももちろん通った。
プラハは、その歴史を刻み続けてきた。
 カフカの残したまなざしをたどることで、イメージではない内側からのプラハを見たいと思った。世
紀末、世紀転換期のプラハは、言語などの面でさまざまな人種間の闘争を抱え込んだ、矛盾をもった都
    (しかし、こうした考えこそが、決まり文句になっているのも事実である。この問題について
市だった。
はこれからつきつめたい)そしてその矛盾というのは、何も遠い昔の、遠い国の話ではなくて、今現在
の世界でも見つけられる。日本でいうなら、在日朝鮮人の問題がこれにあたるだろう。
 プラハという都市、そしてそこに生きたカフカの存在、彼の抱えていた感情を考えることは、現在の
世界に示唆を与えてくれるのではないかと思う。


i カフカのプラハ,11
ii プラハの世紀末,37
iii 同 ,38
iv カフカのプラハ,99
v 同,40
vi PRAHA,93

参考文献
『プラハの世紀末』平野嘉彦、岩波書店、1993
『カフカのプラハ』クラウス・ヴォーゲンバッハ・須藤正美訳、水声社、2003
『PRAHA カフカの生きた街』PARCO 出版、1993
『ゴーレム』グスタフ・マイリンク・今村孝訳、河出書房新社、1978




                         35
                                          欧米第一課程ドイツ語専攻3年
                                               6202265 守屋育代




水曜2限 専修専門科目
ヨーロッパ文学Ⅰ レポート
「テクストの中の都市・テクストとしての都市」




               写真から浮かぶニューヨーク


                         【参考図書】


    田中長徳 「NEW YORK CITY,1997 with G2 & G1」アルファベータ、1998 年
         坂崎幸之助 「NEW YORK SNAP」アルファベータ、2002 年
            大島聖子 「ニューヨーク歳時記」里文出版、1998 年
              小林紀晴 「days new york」平凡社、2003 年
                  「日本大百科全書」小学館、1987 年




 街は喧騒に包まれていた。いくつもの、雑多で色とりどりの広告が目に飛び込んでくる。通り過ぎる
トラックには透明な緑のビール瓶。窓さえも白く塗りつぶしたバスは、航空会社の広告が全面を覆って
いる。向こうに停車してある古い大型トラックは、一面シマウマ模様にリメイクされている。そんな様々
な自動車が往来する道路を区切る中央分離帯には、赤いパイプを一筆書きして作った人の顔がずっと連

                             36
なっている。ふと通りに面した建物が目に入った。赤茶けた壁には、かすれたコカコーラの文字。別の
ビルには、ハングルで書かれた看板も見える。その向こう、縦にでこぼこした形のビルには、でこぼこ
に合わせて、箱から飛び出したタバコがペイントされている。
                            今こうしてこの街全体を捉えたとき、
一つひとつ目に付くものは突飛で奇抜な要素を持っているのに、
なぜかそれらはお互いにぶつかり合ったりしない。無秩序、不調和という印象も与えない。単に居場所
を一にしているだけなのだ。世界でも指折りの大都市のひとつ、ニューヨークはいったいどんな表情を
持った都市であるのだろう。


                      *


青空に向かって突き刺すように聳え立つ雄大な姿。この姿はニューヨークを訪れる多くの人々の心を
ひきつける。ニューヨークの象徴ともいうべき、エンパイヤステートビルディング。1931年に建て
られた、102階建ての超高層ビルである。その向こうには空が一面に広がって、エンパイヤステート
ビルの姿をひと際目立たせている。近くの空中にはクレーンに乗った男たちが、手前にあるメイシーズ
               太い灰色のクレーンに吊られた赤い鉄骨の足場の上に男たちは立ち、
百貨店の外側の窓を掃除している。
小さな掃除道具を手に一枚一枚きれいに仕上げていく。遠くにははるか高く聳えるエンパイヤステート
ビル。すぐそこには日差しを背に受けて作業する男たち。どちらもニューヨークの街が存在するために
はなてはならない存在であるのだろう。


さて、冬はアイススケートリンク、夏はオープンカフェというのが、ロックフェラーセンタープラザ
の年間計画だという。エンパイヤステートビルには及ばないけれど、70階建ての娯楽施設、商店を含
めた集合体が、ロックフェラーセンターである。毎年豪華に飾られる世界最大のクリスマスツリーの灯
は、ニューヨークの街に本格的なホリデーシーズンをもたらす。今は白で統一された椅子とテーブルが
並び、その脇にはベージュと白のストライプのパラソルが置いてある。プラザの奥には噴水が水を立ち
上げて、その後方には黄金色のプロメテウス像が建っている。ニューヨークを舞台にした映画が今まで
何本も生み出されてきたが、ここもまたニューヨークの都会的でおしゃれな一面を代表する典型的な場
所のひとつといえよう。映画の舞台といっても納得できてしまうような、そんな雰囲気が漂っている。
そんなニューヨークではあるが、これだけ人がいればそれだけ大量のゴミが出て当たり前である。一
日に出たゴミが放置されてしまっている時間帯もある。夜、タイムズスクエア付近のある道端には、何
メートルにもわたって歩道にゴミが山積みになっていた。ダンボールの束、発泡スチロールの細かい粒
子、紙くずも透明ビニールに入れられて何袋も転がっている。昼間は人々が歩いていた歩道も、夜を迎
えるころにはゴミの道と化す。日中あんなに人々でにぎわっていた街の、どこか退廃的で荒涼的な部分
           朝のウォールストリートにも、
を感じずにはいられない。            街灯と郵便ポストの間にスチール製のゴミ箱。
そして白い大きなゴミ袋がひとつ、人々が足早に行き来する動き出した街の片隅で、その周りだけが時
間をとめたように、ポツンととどまっている。昼、ローワーマンハッタンの古ぼけたビルの前にはゴミ
収集車が停車している。10個以上もありそうなポリバケツは、細かく砕かれたゴミであふれている。
キャスターつきのポリバケツを作業員の男はひとり、収集車のうしろ側から車の中に投げ入れる。この
ようにして、夜のうちに放置されたゴミが次々と回収されていく。
都会的で洗練された一面もゴミが放置されたものさびしい一面も、どちらもニューヨークという都市
の素顔である。作業員の彼なしには、ニューヨークの洗練されたイメージはありえない、それは確かな

                      37
事実だといえる。


多くの消費者を抱えるニューヨーク。目がよく肥えた消費者も多いのであろうが、そうはいっても、
道端にはごく普通に露店が並んでいたりする。黒い布を張った商品を載せる机の横には、二人のマネキ
ンがサングラスに帽子を身につけて立ち、看板とでもいいたげに虹色の大判の旗が背後に垂れ下がって
いる。商品を見てみるとだいたいは書籍で、奥には分厚いハードカバーのものから、手前にかけてペー
パーバックの安っぽいものまでたくさん並んでいる。大荷物を抱えた、初老の女性の旅行者がのぞいて
いるにも関わらず、店主はいない、そんな店である。
汚れた通りに面したある食料雑貨店。営業しているのか分からないほどの暗い店の前には、コインを
入れておもちゃを取り出す、懐かしい子供向けのゲームがおいてある。日本の駄菓子屋を思い出させる
一面である。店のガラスにはコーヒーにサンドイッチの絵が、時間労働者の方が好きだというビールの
看板も見える。別の食堂の前には、男が何人もたむろしている。比較的簡単に昼食を取るニューヨーク
の労働者を主な客層とするファーストフードの店らしい。その上の階にはネイルサロンの看板が。赤い
電飾の文字でNAILSと、その下には電話番号がまた電飾で記されている。手書きらしい張り紙の横
に目を凝らせば、同様のことを書いたカタカナの張り紙もある。日本人が多く暮らす場所なのかもしれ
ない。
             週末ののみの市が開かれていた。
ビル群に囲まれた駐車場では、             1ドルの入場料を支払い中に入ると、
洋服はもちろん、家具、置物、ガラクタとも呼べそうなものまで、様々な価値のあるものを目にするこ
とができる。
ニューヨーク証券取引所の前の通りには路上に果物売りが出ている。路上にしてはパラソルが立ち、
品数も豊富なところがすごい。別の食料雑貨店の夜。果物が外に並べてある。
整頓して陳列されたたくさんの果物は、ライトアップされてあまりにも整然と並んでいる。色とりどり
の果物は商品である以前にカメラの被写体として、そこにいるかのようだった。
日が沈み、ブロードウェーの劇場はきらびやかなライトで輝き、上演の演劇作品の看板が浮かび上が
っていた。幅10メートルほどは優に超える看板。この作品のために多くの人々が世界中から足を運ぶ
が、彼らも昼間ののみの市を眺めて、食料雑貨店で果物を買ったりするのだろうか。


となりの建物とは隙間も無いほど、びっしりと建てられているニューヨークの街並み。エンパイヤス
テートビル、クライスラービルに代表されるような高層ビルが散在している。道路をはさんだ向こう側
にもそういうビルのひとつが建っている。壁は全面がガラス張りで、上部に反射した空の青がとてもま
ぶしく感じられる。下のほうには、向かい合っているビルが映って、現代的な性格を色濃く表している
ようだ。その左側のビルはというと、形が直方体ではなく、本当にでこぼこなのである。ニューヨーク
にはでこぼこの建築が多くあるように思う。階上に近づけば近づくほど尖っていく、まさに山が聳え立
っているようだ。その山のふもとには、古びたアパートのような建物がたたずんでいる。4階建てのア
パートは4棟横一列に並び、形はきれいにそろった直方体である。1階はどの棟も何らかの店を経営し
ているようだ。きっと2階以上が個々の部屋として貸し出されているのだろう。また別のアパートに目
をやると、2階までは美容室などが入っている。3階からはやはり普通のアパートで、バルコニーには
人はいないものの、プラスチックの椅子が出されていて木なんかもおいてあったりして、人のにおいが
する。ひびの入った外壁も、風雨によって痛んだ壁の傷も、住人の生活感を感じさせる。
流れている時間さえも、高層ビルと地上4階のアパートではまったく異なっている。高層ビルにはオ

                      38
フィスや会社の事務所が入っているのだろう。時間がスピーディに、均一的に流れ、時計通りに進んで
いく。アパートのほうでは、そこに暮らす人々に合わせて時間が進んでいく。時間は時に流れを緩やか
にとどめて、それが生活のリズムとして古びたアパートを漂うのである。
人々が過ごす建築物としては同じ意義を持ちながら、大都市ニューヨークの建築は性格の異なるグル
ープを持っている。


ニューヨークの地下鉄といえば、落書きでいっぱい、ホームは薄暗く、旅行者にとっては少々近寄り
にくいイメージがある。車両の中は左右の壁だけでなく、天井を走る蛍光灯の両わきにも、マジックか
スプレーか何かで書かれたような落書きが、書きなぐってある。しかしニューヨークの地下鉄は路線が
多く、急行と普通の区別もある。そのうえ24時間営業でもあるため、慣れてさえしまえば速くて便利
な交通機関なのである。マンハッタンなどの中心部では駐車スペースがほとんど無いため、通勤者にと
ってもこの地下鉄は欠かせない存在である。走行距離393.2キロメートル、駅の数は469駅にも
のぼり、                    1, 3やA、 Cなどの名前で区別される。
    25のラインで成り立つこの街の地下鉄は、 2,    B、
34丁目のホームから、日本製のステンレスで落書きできないバージョンの地下鉄がさっと発車してい
った。地上に出ると、道路を走る車の中でもひと際ニューヨークらしさを感じさせるのがイエローキャ
           ニューヨークの街に一万台ほども走るというこの濃い黄色の車体をした車は、
ブと呼ばれるタクシーだ。
こちらも24時間営業で、人々を乗せてニューヨークの中を走り続ける。眠らない街の立役者の一人な
のだろう。
ニューヨークで地下鉄やタクシーなどの大量交通機関と並んで重要なのが、自転車である。渋滞とも
無縁ということもあり、自転車急便の会社が注目されている。マンハッタンの渋滞の横を自転車急便の
バイクがすいすい通り抜けていくうしろ姿は、颯爽としていて見ていてとても気持ちよい。パーカーに
ジーンズをはいて、鞄は斜めがけにして背中にまわし、自転車を通りの柱にロックしようとしている青
年が、たくましい。
大都市ニューヨークを動かすのに、24時間365日動いてくれる地下鉄も街のシンボルとも言える
黄色いタクシーも、欠かせない。その一方で、さっと身軽に自転車にまたがって、渋滞に巻き込まれる
こともなく目的地を目指す自転車もまた、ニューヨークを動かしている。


エンパイヤステートビルからはニューヨークの街が一望できる。右手にはハドソン河がゆっくりと横
たわり、曲線がきれいなクライスラービルなど灰色の高層ビルが見える。こうして街全体を見渡してみ
ると、この広いニューヨークにはただ都会ならではの巨大な空間が広がり、コンクリートの建物からは
温かみなどはほとんど感じられず、社会の流れと共に時間が刻々と過ぎていってしまうようだ。建物が
立ち並びすぎていて、人々の気配さえかき消してしまっている。
街に降りてみれば、ようやく人の気配で街が満たされていることが分かり、安心させられる。セント
ラルパークへ向かう横断歩道。赤信号で止まっていると、前の初老の男性が目に入った。白髪まじりの
長めに切りそろえた髪、目じりのしわ。ジャケットの襟を軽く立てて、じっと信号の色が変わるのを待
っている。秒単位の時間が流れる。セントラルパークでは大柄な中年男性が、一人ぽつんとベンチに腰
を下ろしていた。パーカーのフードをかぶって、新聞を読んでいる。何の記事を読んでいるのであろう
か、今日の野球の試合結果でも見ているのだろうか。彼のまわりには、ほかよりもゆったりと時間が流
れている。彼が新聞を読むのを止めて立ち上がったとき、再び時間は動き出す。地上何百メートルのと
ころにいては、雲と時間だけが何にもさえぎられることなく流れていたというのに。

                      39
 同じ空間の中にあるのに、エンパイヤステートビルからの景色と路上に立ったときの視野は、当たり
前ではあるが同じニューヨークとは思えない。これは大都会だからこそ体験しうるものなのである。も
し地方の田舎にいれば、自分の暮らす家や近所の街並みを100階以上もの高さの建物から見下ろすこ
となど、ほとんどないのだから。この点でも、都市としてのニューヨークの性格を垣間見ることが出来
る。


 夜、日が沈むと、ニューヨークの街は昼間と表情を変える。映画のワンシーンに使われそうな、豪華
できらびやかな夜景が街全体を包む。道路は金色に輝く線を引き、ビルの一つひとつの窓から漏れる明
かりによって、昼間人気のなかったビル群が、今は煌々と光り、ビル自体が呼吸し始めるようだ。地面
に立って見上げる夜景もまた格別である。暗闇の中、ビルの輪郭はもう視界からは消えて、建物の光だ
けがいくつもの光の列を織り成す。その列だけが、目の前にぼうっと浮かび上がっている。
 やがてニューヨークにも朝が来る。目の前には、両わきの高層ビルに区切られた視界が広がる。通り
には古びたアパートが立ち並び、静かに街が動き出すのを待っている。ここがあの夜景に満たされてい
た空間だとは信じがたい。それはある意味二つの別の街なのかもしれない。夜から目覚めて朝を迎えた
ニューヨークは、今日も再び都会の喧騒と共に、昼間の活気を取り戻していく。


                        *


 街並みや建築、商品と流通、交通機関、空間性、時間の流れを通して、ニューヨークの街を見たとき、
そこに現れるのは多彩な表情を持つニューヨークの街であった。大都会として、その地域の中心として
日々動いていく。一方で、人々はそれぞれの暮らしを営んでいる。都市としてのニューヨークの熱気は、
             美しいネオンが作り出す夜景のみによるのではなく、
巨大な高層ビルや派手な広告、                      そこに暮らす人々、
そこを訪れる人々の生み出す活気があってこそ成り立ち、その両方が重なって、この街を世界でも指折
りの都市へと導いているのではないだろうか。




                        40
水曜2限 ヨーロッパ文学1「テクストの中の都市・テクストとしての都市」 前期
期末レポート


欧米第一課程 ドイツ語専攻 3 年 学籍番号 6202450 牛尾佳子


 インターネットで調べた結果、日本人がもっとも東京らしいと思う場所は、新宿だそうだ。自分で考
えてみても、その通りかもしれないと思う。東京という地名が付いている「東京駅」もあるが、やはり
                  そこで、
東京といえば新宿であるような気がする。  まず新宿といえば何を思い浮かべるかを考えてみた。
まず浮かんでくるのは新宿の中心にある新宿駅である。新宿駅は、JR 線9本、小田急線、京王線、営
団地下鉄、都営地下鉄新宿線、都営地下鉄大江戸線、など多数の電車が通っている。利用者数は、なん
と一日平均346万1302人。あれだけ広い新宿駅も、常に人で埋め尽くされている。新宿駅を通る
                        」と思っていた。新宿は、東京の真ん中にあるよ
たびに「絶対にここが日本でもっとも人がいる場所だ。
うに錯覚するほど、新宿駅には東京中から様々な人が集まる。新宿では、駅を出るにも一苦労である。
新宿駅にはいくつもの出口があり、出口を間違えると目的地までかなりの距離を歩くはめになるか、場
合によっては目的地にたどり着くどころか駅で迷う。そうでなくても、新宿駅は電車を下りてからが長
い。例えば、京王線を降りて、JR 新宿駅東口前の広場に向かうとすると、10分以上かかる。またそ
の 10 分間の間に、多くのものを見ることが出来る。京王線新宿駅の改札を出て、JR 新宿駅南口に向か
う。JR 新宿駅南口を出ると、目の前にはいくつかの高層ビルがそびえ立っている。しかしもっと近く
を見てみる。南口から JR 新宿駅東南口に向かうとちゅうの道で、座り込んでいたり、寝ているホーム
レスを見ないことはない。新宿に何度も来たことがある人は、この光景を当たり前と思っているのか、
そういう人にとって彼らは完全に景色の一部である。わたしもその中の 1 人だった。東京に出てきたば
かりの頃は、いちいちびっくりしたり、怖いと思ったりしていたが、このレポートのためにいたるとこ
                   高層ビルの傍らに寝転ぶホームレスたちの存在の違和感に、
ろに注意して改めて新宿を歩いてはじめて、
まったく気づいていなかった。彼らのそばを通り過ぎると、JR 新宿駅東南口にたどり着く。ここも一
日中人でごった返している場所である。この東南口の前を過ぎると、周りを歩く人々の年齢層が下がっ
てくる。新宿は高層ビルの並ぶビジネス街から、歌舞伎町など、若者の街に変わるのである。階段を下
りると、数え切れないほどの広告を配る人たち。一人をなんとかやり過ごすと次の一人が待っている。
それからまたひたすら歩き続けると、ようやく JR 東口に行き着くのである。地方から出てきた人は、
新宿駅や、渋谷のスクランブル交差点を見ると、何か祭りでもあるのかと勘違いすると聞いていたが、
私にとって JR 新宿駅東口はそれ以上のものだった。今でも、新宿は一人で歩ける自信の持てない場所
である。
 次に、新宿の特徴でもある、東の歌舞伎町近辺と、西のビジネス街を比べてみたい。学生であるわた
しにとって、なじみがあるのは当然歌舞伎町の方である。とはいえ、高校生まで地方に住んでいた私に
とっては、歌舞伎町を歩くことは、大人になった証でもあり、同時に都会を歩くということでもあるの
である。歌舞伎町もある意味大人の町であるように感じる。以前、友達と歌舞伎町を歩いていた時、道
に迷って、入ってはいけない場所に立ち入ってしまったことがあった。その場所を見たのはその時が最
初で最後で、その時は一刻も早く出なければ、と必死で歩き続けたが、後から考えると、本当の新宿を
見た気がした。スーツを着たこわそうなおじさんや、きれいな女の人や、いろんな国の外国人の人が路
肩をうろうろしていて、明らかに場違いなわたしたちに声をかけてくる人もいれば、それぞれでこそこ
そ話をする人もいて、そこにただよう空気は、同じ歌舞伎町内でも数メートル前とは明らかに違ってい

                        41
た。その時すでに日が暮れていたので、目が痛くなるほどのネオンが周りを取り囲んでいて、何か特別
な場所に迷い込んだという感覚を覚えずにはいられなかった。なるほど、みんながどうして新宿歌舞伎
町を特別視しているのかがようやく分かったという感じだった。その場所でなくても、夜の歌舞伎町は
華やかな場所である。決して活気があるというわけではないが、ビルの上の方までネオンで覆われてい
て、ディズニーランドのような日常世界とは隔離された場所のようである。新宿になれた人はそう思わ
ないのかもしれないが、少なくとも地方から出てきたわたしには夜の歌舞伎町は今まで体験したことの
ない別世界であった。これが、新宿の一つの顔である。
一方、西側の多くの高層ビル。新宿といえば思い浮かべるまた別の特徴である。都庁第一本庁舎、48
階建て、243mを筆頭に、地上100mを越える超高層ビルが26棟もある。JR新宿駅南口を出て
都庁へ向かうと、歩いている人の数がだんだん減り、何もかもが大きくなってくる。建物自体の大きさ
が大きいのは目に見えている。その他にも、駅の反対側の建物の入り口は、人一人がぎりぎり入れる程
度のものもあり、それが特徴でもあるが、ここは違う。十人が手を広げても届かないほどの広い入
り口が待っている。道路も広くなり、駅から離れるにつれ、歩行者が減り、颯爽と走る自動車の流れが
目立ってくる。わたしはここに二度しか来たことがない。一度は昼間、一度は夜に来た。昼間来たとき
は、母がどうしても都庁に上ってみたいというので、それに付き合って来たのだった。昼間は、駅周辺
と比べると人が少ないとはいえ、それでもかなりの人が歩いていた。その時は、わたしと同じように観
光目的で来た人も多くいたと思う。しかしそれでも、周りはスーツを着たビジネスマンだらけだった。
確かにここはビジネス街である。夜に来たときは、歩いている人はほとんどいなかった。建物も、いく
つかの窓に明かりが灯っているだけで、入り口はほとんど閉まっていた。そんな中、ホテルや高級そう
なレストランからもれる光が、反対側の歌舞伎町とはまた違う、都会的な空気を作っていた。これが新
宿の西側のもう一つの顔である。
新宿駅をへだてて西と東には、まったく異なる文化が育っている。しかしそれぞれが新宿らしさを作
り出しているのである。歌舞伎町を出入りするスーツを着た怖そうなおじさんや、きれいな女の人や、
いろいろな国の外国人も、西のビジネス街に朝夕通勤するサラリーマンやOLも、同じ、新宿に生きて
いる。また、駅に寝そべるホームレスの人たちも同様である。渋谷・原宿が若者の街で、銀座・六本木
が大人の街だとすると、新宿にはすべての人たちが生きているように思える。それこそ年齢も、社
会的地位も、文化をも越えて、あらゆる人たちが新宿に集まるのである。それもまた、新宿の新宿らし
さの一つである。新宿を歩く人々は、それを知っているのであろうか。無意識からなのか、彼らは東の
歌舞伎町へも、西のビジネス街へも、それぞれ特有の新宿らしさを求めて行くのであるから。
 新宿には、さらにもう一つの街がある。それは西でも東でも、北でも南でもない。それがあるのは、
“地下”である。新宿は地下に栄えた街としても有名である。まず、新宿駅のホームは地下にあるもの
も多い。都営地下鉄大江戸線にはじめて乗った人は、その深さに驚くだろう。多くの電車が、地下を走
っているのである。それによって、新宿駅近辺を歩いている人は、電車の走っている音を聞くことはほ
とんどない。一歩改札を出てしまえば、そこは駅であるのに、駅であることを忘れさせる、特殊な異空
間となっている。また、新宿駅西口付近には、地下へ続く階段が多くある。わたしが東京に来たばかり
の頃は、この階段が何か特別な、異質なものに思えて仕方なかった。そこを降りると、どこか自分とは
無縁の世界につながっているように思えたのである。実際はそこを下ると、新宿地下街が現れる。地下
があるからだろうか、事実新宿駅西口には人が少ない。地下街は、地下にあるのだから太陽が当たらな
いはずだが、そこでは昼には昼の賑わいがあり、夜には夜の静けさがある。むろん、静かといっても新
宿駅校内やJR新宿駅東口のにぎやかさと比べるとだが。つまりそこは確かに一つの街なのである。新

                      42
宿の地下に広くはりめぐらされた道々が、そこを単に地上から隔離された場所ではなく、一つの街にし
ているのである。そう考えると新宿は縦に発達しているのかもしれない。そしてそこもまた「新宿」な
のである。新宿になれた人は、それを知っている。だからこそ彼らがこの地下街を、地下として認識す
ることは少ない。同時に、その時自分の頭上に地上があり、そこを多くの人々が通り過ぎていることな
         彼らにとってそれは、
ど考えるはずもない。        地下というわずかだが日常から離れた特殊な場所ではなく、
単に新宿の一部なのである。それは新宿には地下があるのが当たり前であり、地下街も新宿の一部とし
て定着しているからかもしれない。
 日本では、駅名が街を表しているという話を聞いた。外国の人から見ると、それはとても違和感のあ
る、日本独特のものらしい。確かに言われてみると、日本人はその地名を駅の名前で呼ぶことが多い。
例えば、原宿がいい例である。皆単純にその地域を「原宿」と呼ぶが、その住所に原宿という語は入っ
        「原宿」と言えばJR原宿駅周辺の街並みを誰もが思い浮かべるだろう。
ていない。しかし、                               「原宿」と
いう駅名に、その地域の若者らしさや、混沌としている感じがつまっている。神宮橋の上にいる、黒い
う服を着た、独特の文化を持った人たちは、周りとはまったく異なった存在として見なされているが、
彼らも「原宿」らしさを持っている。逆に、原宿という単に一つの駅名が、そこまで背負っているのは
                                 「味の素スタジアムはどこに
驚きである。他に、もっと身近な例を挙げると、京王線の飛田給駅がある。
                         」と答えるだろう。味の素スタジアムのある場
ありますか?」と聞かれれば、多くの人が「飛田給です。
       「調布です。
所は調布市だが、    」と答える人はほとんどいない。そう答えると、質問した人は調布駅と勘
違いするだろうと思うか、単純に最寄の飛田給駅を連想しているからであろう。そこで、本題の「新宿」
についても考えてみたい。新宿の新宿らしさは、これまでにさんざん書いてきたが、それはどこまでの
範囲のことを言うのだろうか。新宿から私鉄小田急小田原線の二つ目の駅「参宮橋駅」には、東京オリ
ンピックで選手村として使われていた「国立オリンピック記念青少年センター」がある。多くの人が知
っている施設だが、ここが新宿区にあるということは、どれほどの人が知っているのだろう。おそらく
                                   「どこにあるか」
少ないと思うし、皆知りたいとは思わないだろう。日本人にとって重要なのは、      、つま
                      「どうやってそこに行くのか」ということなのかもし
り「そこの住所はどこなのか」ということよりは、
れない。ともかく、二駅離れると、住所としては新宿だとしてもそこは「新宿」ではない。やはり「新
宿」は、新宿駅周辺の新宿らしい部分である。人が新宿と聞いて思い浮かべるのも、駅周辺の地域だろ
う。駅前の、一日中数え切れないほどの人で覆われているイメージや、駅の周りを一周すると、唐突に
                          「新宿」なのである。また、歌舞伎町や、西
風景がそれまでとまったく違う雰囲気に変化する突然さが、
                                         「新宿」は
新宿のビジネス街、地下街のそれぞれの強烈な印象や特徴が「新宿」を作っているのである。
もはや言葉やイメージではとらえられないものになっている。そこは、新宿しか持ち得ない特殊な空気
に満ちた、日本の一つの都市空間なのである。わたしにとって新宿は、なじみがあるようでまったくな
い、それでもよく知っているし、行きやすい街でもある。歌舞伎町や西のビジネス街に漂うそれぞれの
都会的な大人の雰囲気は、地方から出てきた田舎物のわたしにはとても近づきがたい。それでも新宿は
そんなわたしをも受け入れてくれる。ホームレスの人、夜の歌舞伎町に生きる人、それからビジネスマ
ンまで、すべての人を受け入れられる街である。
 ところで、新宿を自分の街だと感じている人はいるのだろうか。きっといるだろう。新宿区に住居が
ある人もいるし、長く新宿に勤めた人もきっとそう思うと思う。しかし「新宿」を自分の街だと感じる
         駅の近くに住居はほとんどないし、
人がいるのだろうか。              あったとしてもそこに住む彼らはそこを故郷、
自分の街だと思うだろうか。長い間、駅周辺のビル等に勤めた人もいるかもしれないが、彼らには彼ら
の別の故郷があるだろう。きっとそっちの方が、彼らにとって自分の街であると思う。新宿は誰のもの

                         43
でもない。同時に、皆のものである。すべての人を受け入れてくれる「新宿」は、すべての人のものと
                              。そして目的を果たして、
なり得るのである。皆どこか自分の街から「新宿」へ「やって来る」          「新宿」
を去るのである。対照的に、地方の町には、地域社会が出来上がっている場合が多い。そこで生まれ育
った人々、彼らはその町を自分たちのものとして守っている。それがひどくなって他の地域の人に対し
                 「新宿」は、その正反対の位置にあるのである。誰のものでもな
て排他的になるところもある。つまり、
いからこそ、すべての人を受け入れることが出来る。そしてすべての人を受け入れることが出来るから
こそ、皆のものになることが出来るのだ。もしかすると、東京も同じかもしれない。もちろん東京に生
まれて東京で育つ人もいる。だが、多くの人は地方に故郷を持ち、それぞれの目的のために上京する。
彼らにとって東京はいわば仮宿である。東京もまたすべての人を受け入れてくれる。だからこそ人々は
新宿を「最も東京らしい場所」に選んだのかもしれない。東京も新宿も、誰の街でもない、どんな人を
も受け入れられる皆の街である。それゆえの混沌を作りつつも、その包容力が、新宿の役割であり、魅
力でもあるとわたしは思う。




                      44
                            6202644 木内沙織
[銀座]
 今回のレポートのテーマとして、私は銀座を選んだ。銀座は新宿や渋谷などと違って、ごちゃごちゃ
した感じがなくて、歩きやすくて私は好きなのだ。人ごみも新宿や渋谷ほどわずらわしく思うこともな
い。メインストリートの中央通りに面してデパートや専門店が立ち並ぶので、まっすぐ歩いていれば自
分の目当てのものは手に入り、道に迷うなんてこともない。また、私は銀座に行く場合、地下鉄を利用
して直結で銀座の中央通りに出るということはあまりしない。だいたい有楽町駅か東京駅の国際フォー
ラム出口から出て、そこから歩いて中央通りに向かうのである。プランタン銀座の横のマロニエ通りを
通って、中央通りに出るというのが私のパターンなのだ。マロニエ通りは中央通りに比べれば道幅が狭
 加えて高いビルに囲まれ、
く、          またマロニエ通りの名の通りマロニエの木々が歩道に沿って並んでいて、
視界があまりよくないのだが、そんなマロニエ通りから広々として一直線上に視界が広がるメインスト
リートに出る瞬間が好きなのだ。何度行っていても、いよいよ銀座に足を踏み入れるぞというワクワク
感がある。このように銀座は私が大好きな場所なのであるが、その銀座を様々な角度から見てみたいと
思う。
 まずは銀座の歴史からみていくことにする。今までは気に留めることもなかったのだが、銀座二丁目
                                  「慶長十七年 徳川幕府、
の宝飾店ティファニー前の歩道に「銀座発祥の地」と書かれた記念碑がある。
此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時、町名を新両替町と称せるも、通称を銀座町と呼称せら
れ、                     」
  明治二年遂に銀座を町名とすることに公示さる。 昭和三十年に銀座連合会が建てたのだという。銀
座という地名が江戸幕府が銀貨鋳造所をこの地に置いたことに由来しているのは、よく知られているこ
とだと思う。記念碑にもあるように、もともと銀座というのは地名ではなくて、役所の名称なのだが、
これが正式に銀座という町名になったのは明治二年のことなのだそうだ。ただし、このときの銀座は今
よりも範囲が小さく、銀座一丁目から四丁目までだけで、しかも中央通りに面した西側と東側にわずか
にひと皮分だけだったという。現在の銀座八丁の広さと比べると、一割にも満たないそうだ。また、今
の銀座五丁目、六丁目は尾張町一丁目、二丁目と呼ばれていて、銀座七丁目は竹川町、八丁目は出雲町
            これらの旧名の一つ一つは江戸時代の藩の名前であるそうだ。
と南金六町と呼ばれていた。                          というのも、
江戸に幕府が置かれた初めの頃、銀座の辺りは浜と海だった。家康から家光にかけて、幕府は江戸の町
づくりに力をいれなければならなかった。そこで、海を埋め立てて土地をつくる工事に、譜代大名の力
をあてた。これによって生まれた土地には、工事にあたった大名の領地名がつけられたというわけなの
である。
 時代は明治時代に移るが、この時代の銀座というと煉瓦街やガス灯といった文明開化のイメージであ
る。この銀座を煉瓦造りの西洋建築式の町にしようという計画は明治五年に始まった。きっかけは同年
の銀座大火である。当時の東京府知事・由利公正が首都を欧米並みにしたいと考え、新都市の計画をイ
ギリス人トーマス・ウォールトスに委嘱した。その手始めが、画期的な再建築案である。銀座も明治初
年の道幅は八間あまり(約十四・五メートル)だったが、再建案では一挙に三倍の二十五間(四十五メ
ートル)に広げ、表通りに面する町並みは煉瓦建てにするというのである。これには財政面からの反論
がでたり、木造建築しか知らなかった地元民の「銀座煉瓦街反対期成同盟」ができたり、結局道幅十五
間(約二十七メートル)に修正して復興計画が進められ、煉瓦街は銀座一、二丁目から始まり、尾張町、
竹川町、出雲町、南金六町へと順次完成した。この道幅が現在にまで続いているそうだ。普段はそこま
で行くことはないので、                 「煉瓦銀座之碑」
           私は今まで見たことがなかったのだが、       が銀座一丁目のさらに
日本橋側の京橋にある。

                      45
 銀座がほぼ現在の形になったのは大正十二年の関東大震災の後である。この地震により銀座全体は壊
れ、燃え、原型をとどめないほど一変し、その中にかろうじて煉瓦街が廃墟のように残ったという。政
府が発した帝都復興の計画で、銀座も焼け残った煉瓦街を一掃し、生まれ変わることとなった。復興事
業は七年間、昭和五年まで続き、区画整理、道路整備、公園建設が進んだ。中央通りと平行に銀座を南
北に貫く昭和通りもこの計画から生まれたのだ。さらに、銀座八丁がこのとき誕生した。中央通りに沿
って、一丁から四丁までだった銀座が八丁まで広がったのである。これにともなって、尾張町、竹川町、
出雲町、南金六町という古い町名が消えることとなった。晴海通りも道幅が広げられ、ほぼ現在の銀座
の形がこのとき完成した。ここからいよいよ日本を代表する街として、銀座は発展を遂げていくのであ
る。では次から、今現在の銀座はどのようになっているのかみていくことにする。
 現在の銀座は地図で見ると、高速道路に囲まれた街といえる。この高速道路は江戸時代に堀だったと
ころを埋め立ててつくられたものである。その中を通りが四角く区切っている。メインストリートの中
央通りとほぼ平行に外堀通り、昭和通りがあり、それらの通りと垂直に交わるように北から、桜通り、
柳通り、マロニエ通り、松屋通り、晴海通り、みゆき通り、交詢社通り、花椿通りがある。もちろん他
にも並木通りやガス灯通りなど小さめの通りがいくつかあるが、それらの通りも中央通りと平行になっ
ている。銀座はきれいに整理された街なのである。
 さて、通りの名前にはもちろん由来がある。柳通りやマロニエ通りはその名のとおり、柳の木とマロ
ニエの木が通りに沿って植えられているし、松屋通り交詢社通りもそのまま松屋、交詢社ビルがあると
いう風である。みゆき通りは江戸時代からの由緒を誇っている通りだそうで、地元の旦那衆が「銀座に
数ある道路の中でも一番格式の高い道路」と自慢するという。ただ格式といってもこの通りの店の格式
をいっているのではなく、江戸時代にさかのぼって、歴代の将軍が江戸城から浜御殿へお成りになる際
に通る道筋、すなわち御幸(みゆき)の通りだったということなのである。地元がこの通りをみゆき通
             格式を誇示して金色の鳳凰を飾りつけたのもそのときだという。
りと命名したのは昭和十二年。                           ただし、
戦時中の金属回収で一度姿を消し、現在の鳳凰は戦後の二世だそうだ。ガス灯通りは銀座が赤煉瓦造り
になったと同時に、中央通りにガス灯が街頭として登場したことを再現、物語っている。道路が他のと
ころと違い、煉瓦をはめ込んだかのようであるし、ガス灯を思わせる街灯も立っていて、なんとなく懐
かしい気分になる。
        中央通りの舗道の車道側には細長い花壇がある。
 通りに関連して、                    八月の初めに私が行ったときには、
サルビアとマリーゴールドの花が咲いていた。どの花壇もこの二種類の花を二列に植えてある。また、
今まではなかったのだがその花壇のところに小さな看板が立っていて、何かと思ったら銀座の歴史を伝
えるものだった。花壇ごとに内容が違うので、見て回るだけでもなかなか勉強になる。また、花壇の近
くにはだいたい灰皿が置かれているのだが、これがなかなか手がこんでいる。形は街灯の根元を切った
イメージにし、色も街灯と同じにして違和感なく街に同化する工夫をしたのだそうだ。吸殻をこすり付
けて火を消すための蓋の部分には「銀座」の文字が透かし彫りにしてあったりする。こんな細かいとこ
ろにまで気を使っているとはさすがである。私はタバコは吸わないが、花をながめつつ、銀座の歴史も
勉強できる、ちょっと休憩するにはちょうどいい感じである。
 その中央通りの歩行者天国も忘れてはならない。土日の午後は歩行者天国になるので、さらに歩きや
すくなるし、道路の真ん中にはパラソルやテーブル、椅子、ベンチが並び、本当は禁止されているらし
いがパフォーマンスも時々やっていたりするので、見ていて非常に楽しい。銀座で初めて歩行者天国が
実施されたのは、昭和四十五年の八月二日の日曜日だそうだ。昭和四十八年からは土曜日も実施される
ようになった。きっかけとなったのは、交通渋滞と大気汚染に対する強い反省の気持ちからだという。

                      46
まるで人間よりも自動車のほうが優位にあるような、当時の風潮に反省をこめてのことだったそうだ。
 また、銀座の通りには街灯があるが、それが通りごとによってデザインが違う。中央通りの街灯はオ
ーソドックスな形である。みゆき通りの街灯は釣鐘のような形をしていて、上には羽を広げた鳳凰がつ
いていて豪華である。前述の格式を意識してのことなのだろう。松屋通りの街灯はそれほど目立たない
が、曲線のある飾りがついていてなかなかかわいらしい。並木通りの街灯が私には一番おしゃれにみえ
た。灯がつく部分が透ける青になっていて、まわりの装飾もこっていてとても素敵である。ガス灯通り
は街灯が二種類ある。先にも述べたいかにも昔のガス灯といったものと、もう一つは形はそれほど変っ
ていないが支柱の色が他の通りのものと違っている。銀座の街灯はほとんどブロンズで統一されている
のだが、この街灯は青緑色をしている。普段、上を見上げながら歩くということはしないので、今まで
街灯に違いがあるということには気がつかなかったが、銀座を歩く楽しみがまた一つできた。
 次に通りから建物に目を移してみる。建物も普段はあまり注意してみることはないが、あらためて見
てみるとなかなかおもしろい。銀座には昭和の初めごろに建てられた西洋風ビルディングと現代的な建
築物とが混在している。古い建築物からみていくと、まずはなんといっても和光ビルだろう。銀座の中
心、銀座四丁目交差点に位置し、テレビで銀座というと必ずここの時計塔がアップでうつされる。和光
ビルの時計塔を見れば、銀座とわかるほど、銀座のシンボル的存在なのである。建物そのものは昭和七
年に建てられたアールヌーボー様式で、外壁をぐるりと飾っているレリーフがある。このレリーフにも
それぞれ意味があって、服部時計店の H、ギリシア神話の商業の神様ヘルメスを象徴する杖と蛇、精密
機械を表す天秤、貴金属を示す銀のカップなど、さりげなく自己紹介をしているわけである。またこの
時計は一時間ごとに鐘の音で時を知らせてくれる。次に交詢社通りの名前にもなっている交詢社ビル。
昭和4年に建てられたチューダー様式を基本とした6階建ての美しいビルである。日本で初めての社交
クラブ「交詢社」が所有している建物なので、メンバー以外には公開されていないという。昭和四年以
来、ほとんど建築当時のまま使用されていて、現代建築にはない装飾の美しさ、格調の高さを伝えてい
る。また、中央通りをまっすぐ行って、銀座二丁目の通りに面して越後屋ビルがある。昭和五年に建て
られたアールデコの装飾のある、白い外観を美しく保っているビルである。縦に長い窓、バルコニー風
な装飾で華麗に見える。その越後屋ビルの少し先の柳通りに面してあるのがヨネイビルである。昭和四
年に建てられた中世ロマネスク様式にならったデザインである。アーチ型の玄関、外壁のレリーフなど
に派手ではないが、おだやかで静かな装飾性が感じられる。和光ビル以外は気がつかずに通り過ぎてし
まうことが多いが、見つけるとなんだか嬉しくなってしまう。
 では現代建築はどうだろうか。銀座も新しい建物がどんどん建てられるのでどれも現代建築というこ
とになってしまうが、いくつか取り出してみてみよう。銀座の一番北にあるのが銀座テアトルビルであ
る。菊竹清訓氏の設計で、1987年に竣工されたビルで、ホテル西洋や銀座セゾン劇場、映画館、レ
ストランを合わせた複合ビルになっている。形が個性的でおもしろい。白い外壁が夜の銀座のネオンを
映してなかなか幻想的である。マロニエ通りをずっと行ったところにあるのが、ウィンズ銀座である。
黒川紀章氏の設計で、1990年に竣工された。銀座に場外馬券場とはなんともそぐわない感じである
が、明るいグレーのストライプ、大きなガラス張りの入り口など、それまでの場外馬券場のイメージを
一変させた建物である。銀座八丁目にある資生堂ビルは、真っ赤で目をひく。旧資生堂パーラービルが
2001年スペイン人リカルド・ボフィル氏の設計の新しい建物「東京銀座資生堂ビル」に生まれ変わ
ったのだ。非常におしゃれな感じのする建物である。中央通りに面している兼松のビルも、形が変って
いておもしろい。曲線と直線が交わるようなデザインで、まさに現代的な雰囲気の建物である。また忘
れてならないのは海外ブランドショップの建物だろう。エルメス、グッチ、ルイ・ヴィトン、ティファ

                      47
ニー、カルティエなどなどこれらのブランドショップの上品なたたずまいが、銀座の高級感をアップさ
せている。シャネルも今現在、松屋の前に建設中である。
  これまで銀座をいくつかの角度から見てきたが、最後に全体的に見ると銀座はどのような街なのだろ
うか。やはりなんといっても高級感漂うブランドの街といったイメージがある。道行く人々のファッシ
ョンも上品でおしゃれな人が多い。銀座を歩いているだけでなんとなく自分自身が洗練されたような気
分になったりする。とはいえ、銀座にもコンビにはあるし、ファーストフードもあるし、ユニクロやマ
ツモトキヨシなんかもある。ただこれらの店はメインストリート沿いにはなかったり、あっても看板が
ひかえめだったりする。吉野家は堂々と中央通りにあり、オレンジ色で目立つはずなのだが、銀座とい
う街の中にあるとなぜか気がつかない。銀座には何か一種独特の空気があるようである。このように銀
座は大小様々、業種も様々な店が自由に混在しながら、全体として統一的な雰囲気を保っているといえ
る。銀座は絶えず変化し続け停滞することがない。新しいトレンドを丹念に吸収しながら、それでいて
良質的な古さを保持し続けているのだ。そのために新旧が積み重なり、誰もが自分にとって心地よい場
所やスペースが見つけられる、そこが銀座の魅力なのではないかと思う。


参考文献
「江戸東京物語 都心編」 新潮社 2001
参考 HP
http://www.ginza.jp




                        48
ベルリナールフト(ベルリンの都市の空気)
                        テクストの中の都市・テクストとしての都市
                                 6204028   加藤めぐみ


ベルリン・・・ドイツ北東部の都市で、1945年までドイツの首都だった。1948年以来東ドイツ
                 、
の首都として(西ドイツの首都はボン) 90年の東西統一により再びドイツ連邦共和国の首都となる。
 ベルリンには「ベルリナールフト」と呼ばれる独特の雰囲気が漂う。
私は 2002~2003 年2月までの10ヶ月間をベルリンの郊外アルトシュモックヴィッツという場所で過
                               「
ごしたが、中心街に出るたびにこの「ベルリナールフト」を堪能した。 ベルリナールフト」に触れたく
て一ヶ月定期で毎日町へ出ていた。ベルリンの交通網は本当善く出来ていて、始めになれるまでは複雑
に感じるが慣れてしまえば自分の好きなルートでなんとおりもの行き方が可能である。又一つの駅から
隣の駅までの道のりもさほど遠く感じず景色を楽しみながら観光できるのが特徴である。しかし、初め
てこの地に降り立つ人はまずこの都市のつくりの複雑さに圧倒される。ベルリンの市内観光バスに乗れ
ば分かるが、たとえばツォーロギッシャーガルテンにはベルリンの中のかつての西ドイツの象徴「オイ
ロッパーセンター」があったかと思えばその手前には2次世界大戦中の1943年の空襲で爆撃された
ままの旧カイザーヴィルヘルム教会があり、それを中心にさらにかの有名な「クーダム」を含む放射線
状の道が伸びている。私達日本人にとっては海の向こう側で起きた歴史的な事件の痕が生々しいまでに
目の当たりに出来るのがベルリンの街なのだ。さらにティーアガルテンの中の 6 月 17 日通りを東に向
かうと有名な「ブランデンブルク門」に突き当たる。南下すると近未来的な雰囲気のポツダマープラッ
ツ(ポツダム広場)に出る。ここで日本資本のソニーセンターや全ガラス張りの高層オフィスを目の当
たりにして驚くのもつかの間、いつの間にかウンターデンリンデン(菩提樹の下という意)を素行する
バスはいよいよ旧東ドイツに入るというところで、左手にベルリン大聖堂を捕らえるのだ。いきなり現
れた大聖堂はとてつもなく大きくしかもバロック様式で見た目も重厚。100m近くは離れないと全景が
カメラに収まらないカメラマン泣かせな存在でもある。さらに左手には博物館島という博物館・美術館
の集合した場所になっている。あのペルガモン博物館もこの裏に建っている。
それから東へ向かうとすれば、ベルリンオストバーンホフ(ベルリン東駅)から約1km ほど東方面に
ベルリンの壁(イーストサイドギャラリー)が伸び東西分裂の痕を見ることが出来る。
これらをオムニバス形式で眺めるだけでもかなり疲れてしまう。それほどベルリンという都市は、歴史
の重みを十分に含んだ稼動する現実の歴史博物館なのだ。
 しかし、ベルリンの事を考える時どうしても気になってしまうのはやはり私の好きな「ベルリナール
   が        ど                     前
フト」 一体誰によって、 うやって作り出されているのかということだ。 期のテクストの中の都市・
テクストとしての都市の講義ではベルリンを中心とした都市空間について学んだが、やはり都市におけ
るその空間が作られるものだとしたら、それは誰が、どうやって、どんな背景の下にそれを作り出すの
だろうかという疑問突き当たる。
 ベルリンの都市空間を考える時、私はあの時感じたベルリンの風(ベルリナールフトの日本語訳らし
い・・)を思い出す。


一言で言えば、気軽さ、開放感、整理整頓が正しくなされた街であると誰もがうなずくと思う。街のと
ころどころで見かけられる「ケバブ屋」や、クロイツベルグ地区に納まるように住むトルコ人たちを見

                          49
れば彼らが自由の街ベルリンで上手く共存しているように見えるかもしれない。そんなスマートで清潔
感あふれるドイツ人に嫌な印象を抱く人はまず、いないだろう。しかし、彼らの開放感や、整理された
印象の裏に何か鬱屈した憂鬱感をたびたび見て取れるのもまた事実である。アンニュイ(倦怠)はフラ
ンス、メランコリック(憂鬱)はドイツをあらわす形容詞にぴったりだと感じたが、それぞれの国の持
つ雰囲気は一体どこから来るのだろう。
たとえば歴史的なものから作られるというのが、もっともわかりやすく手のつけやすい材料かもしれな
い。ドイツ民族はヨーロッパに数多くある諸民族の仲で中でも特異な位置を持っているといえる。理由
はその位置する場所がヨーロッパの中心、いわば心臓に当たる部分であり、それゆえにヨーロッパの運
命を左右するポジションにあるからといえる。それだけではなく、言語学的な視点でヨーロッパ諸言語
から見ても、それぞれの国の言語は国や民族示す固有名詞から名づけられている。たとえばスペイン人
とスペイン語、フランス人とフランス語、サクソン人とサクソン語、イタリア人とイタリア語などであ
る。ところがドイツとなると事情が違って、ドイツ語は始めに「言語の表記」から始まって国家や民族
名はその後で言語表記から派生したものなのである。ドイツ民族の発端はゲルマン諸部族にあり、これ
もまたドイツという表記とは関係しないのである。さらにドイツ人すべてがゲルマン人というわけでも
なく、一般にドイツ人はゲルマン民族とは区別されている。
領土分割を繰り返し、ヨーロッパの心臓部分であるが故の激動ど幾度となく体験したドイツ国民が自ら
                                    (
のアイデンティティーにこだわり、又同時に様々な意味合いでの「居心地のよさ」 ゲミュートリッヒ)
にこだわるのも納得できるのではないだろうか。
 勝手に納得してしまったが、これはベルリンに限った事ではなくヨーロッパでは人々がとにかくそっ
けないのを痛感する。余計な事はしない。しかしこちらが助けを求めればきちんと親身になってできる
だけのことをしてくれる。日本人の場合、相手が自分のできること以上の要求をしてくるのではないか
と恐れてしまって、親切や思いやりも外面に出さなかったり、逆にここまでしなくても・・・というく
らいおせっかいであったりする。評価する基準が社会だから、いつも他人の目を気にしてしまうのだ。
結局自分がどうしたいのか自分でも分からない。それが日本人の行動の特徴でもある。一方、ドイツ人
の場合は行動の基準は常に自分の中にあって、筋を通すことを忘れない。一見無関心で(実際無関心な
んだろうが)いて、自分の目に入る事を自分の基準で片付ける。人によっては自分本位な色を濃く出し
ている人がいるのも事実だが、好意にほとんど(人によってまったく)押し付けがましさを感じさせな
い。感じさせないのではなく元々義理とか、見返りとかを考えない人たちなのだろう。
そう考えると、彼らの日常のそっけなさは説明がつく。自分が相手に期待しない分、自分も期待されて
無いと考えるからこそ、彼らの好意や行為も自然で何の余分な味付けも感じないのだと。
こういった彼ら、ドイツ国民の性格から形成される都市も彼らの人間性や彼らそのものが顕著に反映し
ていると思う。
 ベルリンにはミッテと呼ばれる、中央街の地区やクロイツベルグと呼ばれるトルコ人などの移民が多
く住む町とやや郊外に近いケーペニック地区などそれぞれ同じベルリン内でも違った色の地区が存在す
る。
私が夏以外をすごしたのはケーぺニック地区に近く、買い物も近くのスーパーに飽きたときはトラムの
終点がケーぺニックのショッピングモールだったため、何かと足を運んだりした。ベルリンに限った事
ではないのかもしれないが、ヨーロッパの都市構造はどことなくムラがあるように思う。たとえば私の
知る限り東京の街などは界隈自体が何か世俗的で上品さとはかけ離れているし、青山あたりになると逆
に上品過ぎて特定の人しか近寄らない。実際その地域に多く現れる人達の色でその地区の色も決まって

                         50
くるし、反対にその地区の持つ色に人が合わせることもあるだろう。
話をベルリンに戻すと、ベルリンでもミッテ地区にはガラス張りで近未来的なオフィスの立ち並ぶ場所
は人間の質もまた高い。直ぐに頭に浮かぶ場所はポツダム広場周辺と、フリードリッヒシュとラーセ、
フランツォーヅィシュシュトラーセ周辺である。フリードリヒシュトラーセの通りはオフィスビルも
年々モダンなデザインに建て替えられ、ますます近代的になっている。しかしその雰囲気はポツダム広
場のガラス張りの構想ビルのように無理な痛々しさは感じさせず、とにかく「上品」の一言で形容でき
るほど周りの古いビルとも違和感なく溶け込んでいる。ベルリンがとにかく年中工事をしていて、工事
をしていない日は無い(メーデーには休むだろうが)というほど町をいじくっているのは本当に不思議
で、正直私には彼らが何を目指して街の衣替えにいそしんでいるのか分からないが、私の感じるベルリ
ンの居心地のよさはむしろこの年中工事しているという点なのかもしれない。
 パリのように完全ではなく、プラハのように歴史を引きずることなく、ウィーンのように歴史に浸水
しない。ベルリンにいると歴史の断片が多く垣間見られるのにも拘らず、それについての生臭さがまっ
たく感じられないのは本当に不思議に思う。パリやプラハに行くとそこで起きた過去の出来事は、まる
で今自分の目の前でも起きるのではないかと思うほど景色やそこから生まれる雰囲気は過去と今なお繋
がっているように感じられる。東欧に位置するプラハはドイツ同様その地理的位置から土地分割や宗教
戦争で激動の過去を体験している。街が疲れているようにそれを構成する市民も何処かあきらめを含ん
だ疲れを帯びているように、旅行者の私には映った。
 歴史的建造物など、時代をもろに象徴させるものは時に人を感動させ過去に引き戻し時間旅行を楽し
ませる一方、そのあまりの時代錯誤さに人を落ち込ませたり、疲れさせる事もある。ドイツ人に代表さ
れるような憂鬱感は何もドイツに限った事ではなく、むしろヨーロッパ全体の抱える国の病だと思う。
 自分達が見て、体験してきた歴史を、近代化する今日なお目の当たりにし続けるわけだから、精神的
に慢性疲労を抱えてしまうのも仕方ないのかもしれない。
クロイツベルグ地区については、実際にドイツ人の友人の家があったのと、週末の夜にはクラブが多く
                             一          (
開かれていたため私にはミッテについで印象深い場所だったが、 般にトルコからの移民 出稼ぎか?)
の多い町で治安はお世辞にも良いとは言えなかった。 ちらかといえば殺伐とした感じで、 度 U バー
                        ど                一
ンのホームで電車を待ってたら明らかにドイツ国籍ではなさそうな男にタバコの空き箱を投げつけられ
た。ショックだったが同時に始めて体験した人種差別に感動したりもした。彼らが私に投げつけたのは
確かにタバコの箱だったが、そこにこめられたものは、恐らく彼らの鬱屈した日々のストレスだろう。
彼らも追い詰められた人々だったのだ。どこから来たのか分からないおさない感じのアジア人に、ふと
日々の思いをぶつけたかったのかもしれない。
 クロイツベルグ地区にはとにかくクラブが多い。ボディーガードが入り口で待機するようなディスコ
テークではない。すべてに行ったことがあるわけではないが、トランス好きな私は帰国前一度でいいか
             「       ク                 偶     (
ら魔法の薬なんかもでまわる ちゃんとした」 ラブでトランスを堪能したかったが、 然特別な日 ク
ラブは日によって同性愛者のために入場を限定することがある)に当たってしまい、いまだ本場のシン
                       そ       ほ
セサイザーで作られたトランスを生で聴いていない。 のクラブだが、 とんどが巨大な倉庫だったり、
              「   と                         「
廃墟の地下をホールにしている。テクノ」 いえばベルリンで毎年5月に開かれる風変わりなお祭り ラ
ブパレード」でも有名で、ベルリンは世界のテクノの中心地でもある。
このベルリンでテクノが発達した背景には、壁の崩壊が大きく関わっているといわれている。東と西が
互いに偏見を持つことなく出会い、いっしょにパーティーをやった唯一、初めての分野、それがテクノ
だったのだそうだ。そんなことは、この小さな首都の中に二つの国が存在したベルリンでなければ不可

                        51
能だったのだ。ベルリンが東西を結ぶ地点であったのに加えて、壁の崩壊後東ベルリンにはたくさんの
空家が出現しそこでパーティーをしたり、クラブが入ったりする事が出来たのだ。それが今の、どちら
かというと東側の方がワクワクするような個性的なクラブ(一見すると倉庫か廃墟)がそろっている理
由のようだ。
しかしベルリンのこの廃墟は、不良の溜まり場になるという意味で今、問題視されているのも事実であ
 ミ                             ひ
る。 ッテからは近未来的で進歩的な建造物の建設工事が見られるが、 とたび旧東側に電車で赴くと、
そこには廃墟、雑居ビルが見える。屋根はすでになく、崩れかけたレンガの壁にはベルリンの ZOO 駅
付近の雑居ビルに描かれたカラフルな落書きがされている。もう片付けるのすら疲れてかったるいの
か・・?
 ケーぺニック地区は一言で言うと住宅街という印象だった。きちんと町を歩いていないのでハッキリ
した事はいえないが、シューネヴァイデ駅周辺はところどころ店の窓ガラスが割れていたり、一見して
はなんの工場か分からないような不思議に年季のはいった建物がおおい。駅から離れるほど建物にも特
徴はなくなり雰囲気も怪しげになってくる。唯
ケーぺニック駅(S バーンホフ)周辺は先にも書いたようにショッピングモールのみ栄えている。新し
く出来た地中海風のカフェの客入りは程ほどといった感じで、しかし皆どことなくお得意様(もう?)
な様子で自分も含めて顔ぶれがほとんど変わらないのがおかしかった。そして皆自分の家のようにリラ
ックスしすぎている。日本でも最近カフェが人気だが、さすが本場カフェのヨーロッパ。日本のおまま
ごとのようなカフェではなく本当に「くつろぐ」ということをよく考えて家具選びや、配置などインテ
リアに無理がなくお客が十分満足できるスペースと雰囲気を作り出していた。
ひとたび大通りを曲がって細い通りに入ると、廃墟とケバブや、刺青屋の立ち並ぶ怪しげな界隈に入っ
てしまう。しかしクロイツベルグ地区に比べると、隠された怪しさや、やる気の
なさ、場所によって様々な表情を見さてくれそうな、ケーぺニック地区は何回散策してまっわってもあ
きる事は無い、怪しい魅力を含んだ地区に思える。今になってもっと自分の足で散策して回ればよかっ
たと悔やまれてならない・・。
 「ベルリナールフト」を思い出す時、私はミッテの生き生きとした最先端をいくモダンな空気、クロ
イツベルグの鬱屈したなかにこめられた何かが起こるのではないかという期待も匂わせる複雑な空気と、
ケーぺニック周辺のやる気は無いが、地元に帰ってきたような安心感ある静けさを含んだ空気すべてが
懐かしくなる。
 様々な歴史の博物館でもある都市でありながら、ひとつの顔と色に縛られず、日々変化し革新する自
    「
由な都市。 ベルリナールフト」が人々に与える開放感や自由なイメージは、戦争を繰り返し、そのたび
に多くを失ったドイツ人ベルリナーが積み上げてきた、自分達を癒す空気なのではと思う。激動のヨー
ロッパの歴史を、そのまさに心臓部分でもある場所で傷つきながら彼ららしいマイペースさで模索して
作り出されたのが、触れた人を魅了して止まないあの「ベルリナールフト」なのだと思う。
そんなベルリンで10ヶ月間過ごしただけの私だが、今も旅行でベルリンに立ち寄ると大好きなふるさ
とに帰ってきたような安心感を抱いてしまう。クールなベルリナーたちの発する、癒しの空気が今また
恋しくなってきてしまった。
                                    了




                        52
     地域専門科目レポート
     「東京 変化の中で」




        ドイツ科4年 6200065 浅野 潤




序論

           53
 このレポートでは、東京という都市を対象に論じる。ただ、初めにこの区切り方が多少強引かつ、大雑把
なものであることは明示しておかなければならないだろう。
 東京は都道府県としては3番目に小さい面積でありながら、人口数、人口密度共にトップを誇る。そして
東京都によるホームページにも見られるように、都は 23 区、多摩地域、島嶼地域に分類されている。そして
23 区、区外はそれぞれに個性を持っており、その個性は様々な点から指摘することができる。
 例えば、23 区それぞれの区役所は一般の市町役所と同等の役割を担っており、区政の影響力が増大してい
   (分かりやすいところで言えば、路上喫煙についてであろう。その行為が実際に罰金を伴う程の禁止
ること。
                            )もしくはこうした行政的な特徴とは全く別
か、警告止まりになっているかは区によって全く異なっている。
                         (それには例えば、新宿、渋谷、下北沢、といった
に、それぞれの地域によって多様な文化が存在すること。
各地域に集まる若者の違いを挙げることも可能であり、六本木ヒルズの建設に伴って増々顕著となった一部
                     )
の上流階級志向を指摘することもできるだろう。
「東京」をテーマとするにあたってはこれら全てについて論じる必要があるかもしれない。しかしながら、
ここでは実際に行ったことのある場所のみを、もしくは論じる題材になると感じた場所のみを対象としよう
      (そのため対象地は数えるほどにしかなくなってしまう。
と考えている。                        )各々の具体的な地名はその都度挙
げていくことにする。また、このレポートでは今現在の東京(の一部)を記録することができれば、とも考
えている。なぜなら、東京はとりわけ変化が速い街であり、今見ることの出来る風景がいつ変わってしまっ
ても有無を言わせない力を感じさせるからである。ここで指す「変化」とはそのまま「開発」と置き換えら
        「開発」によって街が消滅し、新たな建築物が出現するのは日常茶飯事となっている。
れるかもしれない。


山谷
                   「山谷(やま)ーやられたらやりかえせ」という映画を見たこと
 この地域を訪れるきっかけとなったのは、
である。1986 年自主制作映画として発表されたこの映画は文字通りこの「山谷」を舞台としており、日雇い
                     「山谷」とは日雇い労働者の街なのであるが、正確にはその
労働者の姿を追ったドキュメンタリーでもある。
ような地名は東京に存在しない。1966 年の「町名変更」によって抹消されたためである。荒川区南千住から
泪橋を通り台東区浅草へと続き、東から北にかけては隅田川が流れ、西はかつて遊郭で名を馳せた吉原、南
は皮革産業地帯である今戸と接する地域が現在もこのように呼ばれているのである。
 映画は労働者と、雇い主からピンハネすることで利益を得ていた暴力団との対決を軸として描かれる。日
                  「寄せ場」とも呼ばれるこの地域では暴力団による賃金搾取が深刻
雇い労働力が市場のように売買される場、
な問題となっていた。その労働者と暴力団は度々争いを繰り返していたが、力の(もしくは金の力の)差は
歴然としており、問題が解決されることはなかった。しかもその状況を記録し、映画にすることを通じて労
働者達の現状を訴えようとしていた(つまりこの「山谷」映画化を構想していた)監督、佐藤満夫氏はその
                  (映画ではまずその殺害場面から始まる。
矢先に暴力団によって殺害されてしまう。                 )
 この殺人事件に対する労働者達の暴動を契機に、労働者組合の争議が活発化する。そして山谷の労働者が
駆け込む病院となっていた宇都宮病院では、看護人による患者へのリンチによって二人が死亡するという事
件が明らかとなる。企業や病院にまでも搾取されながらも、生きていくためにその世話にならなければなら
ないという事実と同時に、そういった悪徳な社会に争議を持ちかける圧倒的なエネルギーが映し出される。
また映画は労働者の日常を、例えば年末年始の間に職が減ってしまう為に野宿せざるを得ない人々が寒さに
よって死んでしまう(そして引き取り人のない遺体として献体されてしまう)といった状況までをリアルに
捉えていく。
                                、そしてかつて労働者が集まってい
 山谷と同時に描かれるのは大阪釜ヶ崎や横浜寿町など全国の「寄せ場」

                         54
た炭坑街の姿である。そこではさらに強制連行された朝鮮人達に関する事実が言及される。この映画はドキ
ュメンタリーとして、劇的な展開が用意されているわけではない。ただし、映画が終わった後の結末は最悪
なものであるかもしれない。佐藤満夫氏の後を引き継いで、監督となりこの映画を完成させた山岡強一氏は
結局暴力団の手によって殺されてしまったのである。
 「やられたらやりかえせ」という言葉には誤解を招き得ない鋭さがある。この言葉から、そして二人の監
督の死から連想されるのは 1960 年代アメリカの黒人解放運動である。マーティンルーサーキングは「非暴力」
を訴え公民権運動を続けた。マルコム X はそのキングを一旦非難したが、ブラックムスリムからの呪縛を逃
れ独自の倫理観を形成し、最終的にはキングとの連携もとろうとした。しかし両者ともそれぞれ、68 年と 65
年に暗殺されてしまった。
 「やられたらやりかえせ」という言葉が誤解を招くのはそれが「暴力には暴力を」というハムラビ法典的
な意味を感じてしまうからなのだ。しかし実際にこの言葉が投げかけるのは「行動せよ」という意味であろ
 「統率者の死」は運動の衰退をもたらす。
う。                 (ここでは映画を一つの運動として、そしてその監督を統率者
        )それでも「行動」を続けることが必要なのだという考えがこの言葉には込められている
として捉えている。
ように感じてならない。キングやマルコム X が死を覚悟したということは、自らの信念とそれに伴って行動
する力を信じていたからではないか。だとすれば、佐藤満夫氏の後を継いだ山岡強一氏は、確かにその信念
を受け取ったと考えられるだろう。
 しかし約 20 年が経った現在、山谷の街並みには映画に見られたような荒々しい雰囲気はない。それはつま
り、山谷に住む人々のエネルギーが衰退してしまったと言えるのかもしれない。実際に労働者は高年齢化し、
不況によって慢性的な職不足が続き、職形態そのものが変化してしまったことが影響し、現在山谷に残る日
雇い労働者の数は激減したという。残された人々の状況は改善したとは言いがたい。比較的高齢の労働者は
今でも路上にあふれ、簡易宿泊所の周りにも労働者が歩いている。隅田川沿いから公園にかけては宿泊所に
泊まることのできない人々によって作られたビニールシートの住居が列を成している。そして恐らくこの 20
年の間、他の地域とは違ってここに「開発」の手が加えられたことはない。街も人も、風化して忘れ去られ
てしまうような儚さを感じた。
 それでもまだ労働者は確かに存在し、彼らを支える活動団体も多数存在する。街も人も未だ生きている。
すぐ隣の浅草が観光地として繁栄しようと、隅田川を下った汐留では開発が進んでいようと「山谷」はその
まま存在する。自分が忘れがたい映画の一場面は何気ない就労風景なのであるが、そこは確かに現在の「お
台場」であった。つまり「開発」によって生み出されてきた東京は彼ら労働者なくしては存在し得なかった
というのは言い過ぎであろうか。しかし「山谷」はまぎれもなく労働力確保には欠かせない場所であったの
だ。
「社会の管理支配が全ての面で強められている現在、より弱き者をいじめ、差別する風潮が広まっている。
83 年 2 月、横浜で中学生によって引き起こされた、いわゆる「浮浪者」虐殺事件は、まさにその典型である...」
これは映画の一節であるが、この構造は今では更に悪化してしまっている。山谷の風景と同様に社会の構造
も変わっていないのだとすれば、東京の変化とはイメージの、酷く表面的なものに過ぎないのかもしれない。
少なくとも山谷に生きる人々にとっては。


高島平
 ここでとりあげるのはいわゆる高島平団地と呼ばれる、高層住宅街である。都内でも有名なマンション群
を実際に目で確かめようと思ったのは、大友克洋による「童夢」を見てからであった。この漫画で描かれる
団地群は高島平であると言われることが多い。しかし本当にモチーフとなったのは埼玉県蕨市の団地であっ

                          55
たようだ。ただ、設立当初の高島平が「自殺の名所」として有名となってしまった事件を導入部分に持って
きているところを見ると、両者のイメージをうまく混合させているのかもしれない。
 物語は団地内で自殺、変死が続くところから始まる。建物内の屋上へと続くドアは厳重に鍵がかけられて
いるが、何故か屋上から飛び降りる人間が後を経たない。実はこれらの事件は皆、超能力を持つ一人の老人
によるものであったのだ。
 大友克洋の絵はかなり緻密な部分まで描かれることを特徴とする。冒頭で描かれる老人の部屋の荒廃ぶり
や、圧倒的な存在感を持つ団地郡の描写は無意識の内に読者の記憶のイメージを刺激する。つまり、絵に詳
細な部分が描かれてリアリティーを獲得することで読者はそれを「どこかで見たことのある風景」と感じる
のである。この団地が更に特徴的なのは、高島平のように均等に平行に並んでいるのではなく団地がぐるり
と円を描くような形で密集している点である。
 団地という空間に閉塞感を感じるのは、建物の威圧的な存在感によるところが大きい。例えば高島平では、
都営地下鉄三田線高島平駅を降りて団地に向かえば一本の道路を挟んだ向こう側にあたかも壁のようにそび
                   この先に殆ど同じ様な外観をもった 14 階立ての住宅群が続く
え立つ高層マンションを見ることができる。                            (総
戸数 10170 戸)ことを考えると、それを日常の風景として捉えることができない者にとってはかなり異様に
  「童夢」ではこの閉塞感、言いようのない不安を高めることで物語の緊張感を高めているといってよい
映る。
だろう。
 老人以上の超能力をもつ少女が現れることで、物語は両者の戦いへと移っていく。老人対子供という構図
は時間軸の上では対立した存在として描かれている。もっとも、この物語の老人は痴呆の為に子供と同様の
                                              (誤
考え方しかできない。しかし家族から(もしくは社会から)見捨てられた老人という位置づけは免れず、
解を招く言い方だが)最も死に近い存在である。一方の子供はこれからを生きていく存在であり、未来を担
っていく象徴である。この対比から、物語の当初老人は住民を無差別に殺していく「死神」であり、少女は
それを阻止しようとするいわば「正義の味方」であった。
 しかし、この構図は戦いのピークを迎えることで一転する。老人の無差別な攻撃に怒り、自我を失った少
女は老人以上に無差別に、無目的に破壊行為を開始するのである。老人は少なくとも団地という生活空間を
                                    。少女の力は理由などお構
破壊することはなかった(それは自身が住むということもあったからであろうが)
いなしに行使され、その力が急速に終わりをみせたのはやっと少女の母親が現れることによるものであった。
つまりここで強調されているのは、少女が本当の子供であったということ、子供のような老人との対比なの
である。
 徹底的な破壊という惨事の後、少女は再び老人に戦いを挑む。他の子供達の力も借り、無言のままに力を
ぶつけることによって、老人は静かに息をひきとる。破壊の修復作業の様子を伺うこともできるが、団地の
                  「ユリイカ増刊ー大友克洋特集」の中で、大塚英志は次のように述
情景はいつもと大して変わることはない。
べる。
「すなわち団地という無機的で秩序的な均質の空間に「置き去り老人」チョウさんに代表される異物が発生
し、これを外部に放出し、再び秩序を取り戻すという都市の安全弁的システムをそのままシステムとして美
                      (中略)ラストの場面で異物の代表者であるチョウさんの
的に描くのが「童夢」という作品の主目的である。
                       」
死刑を執行するのは超能力を持った子供たちなのだ。
 大塚は老人を「異物」と述べるが、本来これは「マイノリティー」を代表する存在ではないだろうか。民
主主義社会において、少数派は殆ど異物として捉えられ消滅させられる。子供達は多数派、もしくは代表者
としての性格を持つ。しかし戦いの場面で明らかになったように、子供はシステムを破壊してしまう可能性
も持ち合わせる存在であることも無視できない。あるいは子供達は成人してやがては団地から巣だっていく

                         56
      (つまりシステムの担い手という役割を放棄するということである。
存在でもある。                             )実際に高島平団地では
少子高齢化の問題が深刻化しており、少子化高齢化共に全国平均を上回る伸びを見せている。
つまり、システムを担うはずであった子供達は生まれなくなり、少数派であったはずの老人がいつの間にか
「マジョリティー」となっていた。このことが即座に役割分担の交代に繋がるとは考えがたいが、老人達は
自ら秩序を維持していくことを余儀なくされていることは間違いない。
  既に高島平団地の周りには別の高層住宅群が林立している。都営三田線からその光景を眺めると、多様な
マンションの中で高島平団地の妙に統一された外観が不自然にも感じられる。住民の少なくなってしまった
高島平団地が、いつまでそこに存在しているかはわからない。ただし、これら高層マンション群がなくなら
ない限り、東京の住居不足を補う役割としての高島平はそう簡単に消滅することはないであろう。


終章
  開発によって高層ビルが次々と乱立していく都市部とは別に、変わることなく昔の姿を保っている「東京」
     「山谷」も「高島平」もその中で生きる人々もそのまま年を経ていく。そしてその人々の需要が
も存在する。
なくなれば、そこには容赦なく変化が訪れるだろう。変化はその場所のイメージの変化をも当然もたらす。
前のイメージは当然のことながら記憶や記録にしか残らなくなってしまう。記憶は薄れてしまうものである
が、記録をたよりにその記憶を取り戻すことはできる。そのために記録は必要とされる。このレポートによ
って、この二つの東京の側面を記録することが出来ているとすれば幸いである。


参考資料
東京都ホームページ
(http://www.metro.tokyo.jp/)
映画「山谷ーやられたらやりかえせ」及び映画パンフレット
映画「マルコム X」
大友克洋「童夢」双葉社
田中 純「都市表象分析1」INAX 出版
「ユリイカ 1988 年 8 月臨時増刊ー大友克洋」青土社
「ユリイカ 1996 年 1 月臨時増刊ー荒木経惟」青土社
大東文化大学による高島平団地についてのデータ
(http://www.daito.ac.jp/~nakamura/seminar/takashimadaira.htm)




                                                     57
               、
物語のなかの都市空間と「視野」「移動」―『ノルウェイの森』を素材として―

                                 欧米第一過程ドイツ語学科
                                6200616 安永麻里絵




1


現実の都市空間の体験は、たとえばその中を歩き回ることを考えてみれば、時間軸に即した継起的な
体験である。しかしその連続性とは、意識的であるにせよ無意識的であるにせよ、視線によって分断さ
れた景色、ショットとショットの狭間の、あるかなしかの時間的な断絶を無意識的に無化することによ
って支えられている。その意味で、芸術における「空間芸術」と「時間芸術」という区分を都市に当て
はめようとするとき、そこにはひとつの混乱が生じる。その混乱は、その区分を建築について考えると
きに起こることと相似である。
「空間芸術」の特質が、端的に言って作品が観者に自らの全体性を一瞬のもとに提示することにある
                           「時間芸術」
とすれば―したがって絵画は一般的にその代表例とされる―、     とは―音楽のように―作品が
線的な時間軸に沿った形で展開され、作品の体験者は一瞬のうちにはその作品のひとつの断片しか体験
しえず、その全体性は体験者の記憶の中にしか生成されえないという特質をもつ。建築は、一見ファサ
ードや航空写真によってその外観を一瞬のうちに呈示しているようにみえて、しかしその建築を体験す
る、つまりその中に入ってみることを考えると、その体験は「時間芸術」的性質を帯びる。
都市もまた、夜景の航空写真のイメージによって、あるいは地下鉄の路線図によって、またより端的
に地図によってその全体性をわれわれの眼前に呈示しながら、一方でその中を体験しているときその外
縁を認識させることを許さず、われわれは自ら断片化した画像を連続的なものとして再構築することで
しか都市を認識し得ない。つまり、都市は、文字通り「空間」であるにもかかわらず、体験の場におい
ては「時間芸術」にむしろ近づくという奇妙な構造を持っている。しかしここで気づかされることは、
都市を「時間芸術」的にではなく「空間芸術」的に把握するためには、都市を上空から見下ろす視点が
必要であるということだ。測量によって描かれた初期の地図にせよ、最初にパリを気球から写真に収め
たナダールにせよ、あるいははじめてそうした視点を市民に与えたエッフェル塔にせよ、都市を外縁が
あって内側を持つ一個の形体として把握するためには、ひとは地上を離れ上空に近づかねばならない。
逆に言えば、上空に視点を得て初めてひとは都市を自らの身体と切り離して相対化することができるの
である。


「僕は三十七歳で、                      」
         そのときボーイング747のシートに座っていた。 という一文で始まる村上春樹
         (一九八七年、講談社)はその意味で大変示唆的である。それは次のように続く。
の『ノルウェイの森』



その巨大な飛行機はぶ厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルグ空港に着陸しようとしているとこ
ろだった。十一月の冷ややかな雨が大地を暗く染め、雨合羽を着た整備工たちや、のっぺりとした空
港ビルの上に立った旗や、BMWの広告版やそんな何もかもをフランドル派の陰鬱な絵の背景のよう

                      58
 に見せていた。やれやれ、またドイツか、と僕は思った。
 飛行機が着地を完了すると禁煙のサインが消え、天井のスピーカーから小さな音でBGMが流れ始め
 た。それはどこかのオーケストラが甘く演奏するビートルズの『ノルウェイの森』だった。そしてそ
 のメロディーはいつものように僕を混乱させた。いや、いつもとは比べものにならないくらい激しく
 僕を混乱させ揺り動かした。
                               そのままじっとしていた。中略)
 僕は頭がはりさけてしまわないように身をかがめて両手で顔を覆い、          (
 音楽はビリー・ジョエルの曲に変わった。僕は顔を上げて北海の上空に浮かんだ暗い雲を眺め、自分が
 これまでの人生の過程で失ってきた多くのもののことを考えた。失われた時間、死にあるいは去って
 いった人々、もう戻ることのない想い。
 飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れからバッグやら上着やらを取り出
                      (上巻五、六ページ)
 し始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。


        、ワタナベ・トオルの身に起こった、親友キズキの死、その恋人直子との奇妙な恋愛
 十八年前に「僕」
関係、大学の同級生小林緑との恋愛、直子の死といった、長い長い「死と恋愛の」物語は、飛行機の座
席から上空の「ぶ厚い雲」を、次いで眼下に見下ろすハンブルグ空港の景色から始まる。飛行機が着陸
しても、シートベルトで座席に固定された「僕」はその閉じた乗り物の内部空間のなかで同じ位置に固
                             「混乱」に陥る。曲が変わり「混乱」
定され、身動きできずに死んだ女の子が大好きだった曲に晒され、
     「僕」の視線は初めて地上から上空の空を見上げる。そして「混乱」は回想にとって変わら
が鎮まると、
  「僕」は「上空に浮かんだ暗い雲を眺め」ているものの、彼が「見て」いるのは記憶の中の「草原」
れる。
である。そして、周囲の人々が機外へ出る準備をする動作を「見て」はじめて、彼の意識は現実の空間
へと戻ってくるのである。そしてそこから、この小説は二十歳になろうとしていた「僕」の世界へと入
り込み、終局を迎えてもついに三十七歳の「僕」の世界に戻ってくることはない。
 冒頭で描かれる飛行機の着陸のシーンはだから、物語空間が三十七歳の「僕」の空間から二十歳にな
ろうとしていた「僕」の空間への着陸とパラレルなのである。そしてボーイング747が降り立った地
               「僕」
上の空間はハンブルグ空港であり、  が着陸したのは六十年代末の東京なのである。そして先ほどの
                           、、
            「僕」はおそらくは成田空港から離陸することで三十七歳の「僕」にとって
航空写真の例と同じように、
の「東京」を切り離し、別の場所に降り立つことで十八年前の空間に入り込むことができたのである。




 2


 この冒頭シーンから想起しうるもうひとつの重要な点はおそらく、都市と「移動」あるいは「輸送」
         『ノルウェイの森』の中には、様々な移動あるいは輸送手段が登場する。歩行、バ
の問題であるだろう。
ス、電車、地下鉄、新幹線、そして飛行機。これらの手段は、その体験の質的差異によって分類されう
る。まず移動中の周りの空間と移動する主体との関係の差異によって、歩行とそれ以外の乗り物は区別
される。歩行による移動では、主体が移動すると空間もそれに密着して移動し、その間に断絶はない。
一方乗り物によって主体が輸送されている場合には、主体の身体は運動せず、乗り物の内側の空間と主
体との関係は固定で、主体は視覚によって窓外の景色の変化を知覚することによってのみ移動の運動を
体験することができる。また、各々の手段が結びつける場所と場所の相違によっても分類可能だ。歩行

                      59
は、今立っている場所と次に立つ場所を結びつける。バス、電車、地下鉄は都市の内部の点と点を、新
幹線あるいは長距離列車は国内の都市と都市を、国際線はハンブルグと東京を、というように。ただし
これら乗り物の中で、バスは都市の最も周縁に近い場所に達する特異な手段として物語に登場している
ことを付け加えておかねばならない。
冒頭のボーイング747のシーンをこれらの観点からもう一度見直すと、飛行機という輸送手段の特
質が「僕」の心理と密接にかかわりあっていることがわかる。先述したように、飛行機が地上から離れ
ることは、三十七歳の「僕」にとっての現実の都市空間の地上での横の広がり、連続性から「僕」を引
き剥がす。また、飛行機がそのほかの乗り物に比べて主体を乗り物の中の一点に極めて強固に固定させ
    「ノルウェイの森」のメロディーが「いつもとは比べものにならないくらいに激し」い混乱を
ることは、
             「僕」には逃げ場はなく、
引き起こす要因となっている。          「そのままじっと」しているしか術がないので
ある。そして、外界から遮断され密閉された空間のなかで唯一自由なはずの視覚は、小さな窓から見え
        「 と同じようにほかの乗客も固定されたために静的な画像を捉えるばかりで、僕」
る景色の無音さと、僕」                                「
が回想へと入り込む深さや速度を助長させるばかりである。




3


                         「僕」と直子の果てしない歩行は避けて通れ
『ノルウェイの森』と都市、あるいは移動を考える上で、
          「僕」は中央線の車内で一年ぶりに直子と偶然再会し、四ツ谷駅で降りて、その
ない問題であるだろう。
時から二人の歩行は始まる。


 駅の外へ出ると、彼女はどこへ行くとも言わずにさっさと歩きはじめた。僕は仕方なく
              (中略)
 そのあとを追うように歩いた。   時々直子は後ろを振り向いて僕に話しかけた。うまく答えら
 れることもあれば、どう答えればいいのか見当もつかないようなこともあった。何を言っているの
 か聞きとれないということもあった。しかし、僕に聞こえても聞こえなくてもそんなことは彼女に
 はどちらでもいいみたいだった。直子は自分の言いたいことだけを言ってしまうと、また前を向い
       (中略)彼女は飯田橋で右に折れ、お堀ばたに出て、それから神保町の交差点を越え
 て歩き続けた。
 て御茶ノ水の坂を上り、そのまま本郷に抜けた。                   (中略)
                       そして都電の線路に沿って駒込まで歩いた。
 「ここはどこ?」と直子がふと気づいたようにい訊ねた。
           「知らなかったの?我々はぐるっと回ったんだよ」
 「駒込」と僕は言った。
 「どうしてこんなところに来たの?」
  、、
                      」
 「君が着たんだよ。僕はあとをついてきただけ。(上巻三十六~三十七ページ)


                 「ぐるっと回ったんだよ」という言葉にあるように、移動とも、
直子と「僕」の東京を歩行するさまは、
散歩とも、ボードレールあるいはベンヤミンのいう遊歩とも違った様相を呈している。目的地がないと
いうだけならそれを散歩や遊歩とみなすこともできようが、この歩行には、移り変わる景色に向けられ
            「ここはどこ?」
た視線さえも欠如している。       という直子の質問は、彼女が何も見ずにひたすらただ歩き
続けていたことを示唆している。歩いたルートを説明する「僕」の視線は一見周りの景色に開かれてい
るようであるが、彼の視線は変化する景色の中を歩き続ける直子の背中にこそ注がれている。二人の果

                      60
てしない歩行は、                              「僕」
        直子にとっては身体を動かし続けるという運動性にのみ意味があり、  にとっては
運動する直子にのみ意味があるのである。二人の終わりのない東京めぐりは、直子が東京を離れるまで
日曜日ごとに繰り返される。


                      (中略)
 我々は二人で東京の町をあてもなく歩き続けた。   どこに行きたいという目的などなにもなか
 った。ただ歩けばよかったのだ。まるで魂を癒す宗教儀式みたいに、我々はわき目もふらず歩いた。
 (上巻五十ページ)


この当てもない歩行もまた、作者が読者に対して周到に準備したメタファーであり、登場人
物の心理と明確に対応している。それは二十歳の誕生祝の夜の直子の話である。酔った直子
は延々と「細密画みたいに克明」に話し続ける。しかしその話し方の不自然なゆがみに「僕」
は気づく。


 何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋が
 通っているのだが、そのつながり方がどうも奇妙なのだ。Aの話がいつのまにかそれに含まれるB
 の話になり、やがてBに含まれるCの話になり、それがどこまでもつづいた。終わりというものが
     (中略)
 なかった。   直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポイントに触れないように気をつけ
 ながら話していることにあるようだった。
                   (上巻七十一ページ)


直子の歩行はA地点からB地点、C地点と無限に続く。そのひとつひとつの空間はどれも
克明な現実であり、直子は運動する身体を通じてそれを確かに体験しているのだがしかし、
それは周辺ばかりを彷徨い続ける堂々巡りなのだ。彼女は実姉の死、幼馴染で恋人だった
キズキの死、確かな愛情を裏切り続けた自身の性的不能が引き込もうとする混乱から必死
に逃れようと、迂回し続けるのである。その迂回を終わらせたのは「僕」であった。しかし
そのことは直子を混乱から救い出すよりもむしろ、その中心へ彼女を投げ込んでしまう。そ
して日曜日の東京堂々巡りも終わりを迎える。直子は東京を離れ、京都の山奥の療養所に行
ってしまうのである。


直子と「僕」の歩行と対比的に描かれるのが「僕」と小林緑が都内をめぐるシーンである。
この二人の歩行も最初四ツ谷から始まる。直子との歩行とは対照的に、この二人は歩くたび
に、店に入って食事をしたり、公園のベンチに座って建物を眺めたり、映画を観たり酒を飲
                       「会話」を中心に展開する。
んだりディスコで踊ったりする。そしてその場面は、
「僕」とかかわる二人の女の子、直子と小林緑とが担わされているベクトルは正反対で、
直子は死に向かい、緑は生の世界にいき続ける。その対象性が、この二人との「歩行」の描
写の対象性に反映されているのである。
このほかにも、京都の山奥に直子を訪ねて行くときの山林を奥へ奥へと分け入っていく描
写と「僕」が直子の内面的混乱の渦の中に引き込まれていく展開との関系や、生と死の境界
を揺れ動く「僕」が物語の終盤に佇む「縁側」の空間的機能(それはまさに内と外との境界
のメタファーであるばかりでなく、内と外とを同時に無意識に想起させるメトニミーであ
 )あるいはまた、小林緑との最後の歩行でたどり着く場所が銀座の高島屋であるという
る。

                      61
                                」「パリ―十九世
ことから、ベンヤミンの「デパートは遊歩者のための最後の領域である。(
     、            、ちくま学芸文庫、三四七ページ)という言葉を
紀の首都」『ベンヤミンコレクションⅠ』
思い起こすこともできるかもしれない。
       『ノルウェイの森』において、読者を内的空間に引き込むこれらの描写は、
 いずれにせよ、
ワタナベ・トオルを視点の定点として持ち、ワタナベ・トオルのまなざしを受けた直子や小林
緑にその定点を移すという、前田愛が『ボヴァリー夫人』を引いて解き明かした構造を持つ
だけでなく、視点の定点、さらには視点の定点から転移された定点をも同時に移動させ続け
る。また、移動手段の多様性を加味することで、移動の運動が起こる空間の質を差異化し、
その差異を心理描写と密接に連関させている。




 4


 そして、これらの移動手段がすべて、英語で言う transport に相当することを思えば、こ
                   「僕」が直子や、小林緑に送った無数の手紙、
の物語に貫かれたもうひとつの相に気づく。
                                        、
返ってきた返事、あるいは返ってこなかった返事。その何通もの手紙と対比される「電話」
telephone である。Transport が主体自体を別の場所へと運ぶのに対して、tele-という接頭
辞は television や telegram というように電気信号を媒介とした通信をさす。その場合主体
の身体ではなく、そこから切り取られた情報の一部が伝達されるのである。
「僕」が書き送った手紙は、返事が来るまで相手に届いたかどうかわからないし届いていて
                               「僕」は待たねばな
も返事が実際に手元に届くまで、それはくるかこないかも未定である。
   「僕」にとってはしかし電話もまた、相手の返事を得るのに有効ではない。相手が
らない。
それを拒んで出なかったり切ってしまったりするからだ。
 この物語は次のようにして幕を閉じる。



  緑は長い間電話の向こうで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているよう
  なそんな沈黙が続いた。僕はそのあいだガラス窓にずっと額を押し付けて目を閉じていた。それか
             「あなた、いまどこにいるの?」
  らやがて緑が口を開いた。
  僕は今どこにいるのだ?
                                        、
  僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見回してみた。僕
  、、、、、、、、、、
  は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかっ
  た。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく
  無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所の真ん中から緑を呼び続けていた。
                                                (下巻二五八ページ)




都市の中の電話ボックス。それはさながら乗り物のようにガラスで「僕」を外界から隔離する。ガラス
の箱の内側は受話器から聞こえる緑の小さな声と頼りなくつながりを持ちながら、緑のいる空間とも、

                             62
あるいはそれと連続した箱の外の空間とも遮断されている。それは、trans と tele の交差する場所
として「僕」をどこでもない場所に運び去ってしまうのである。その場所で「僕」に残されたのはまさ
しく「孤立」で、彼は声にならない声でかすかな電気信号を頼りに緑を呼び続けるのである。
 この文脈で、携帯電話を trans と tele がより無意識的に結びついている場として捉えるならば、そこ
に現出しているのは完全な透明性を獲得した電話ボックスのガラスケースだと言ったら言いすぎであろ
うか。




                          63
世紀末ウィーンとマーラー
                                         茅野大樹

序論
音楽は他のあらゆる芸術よりも抽象的な性格を強く持っている。絵画や演劇などのジャンルにおいて
は、程度の差はあるにせよ、依然視覚的な知覚がその芸術の享受の主要な位置を占めているといえるだ
ろう。目の前にあるものを視覚するという行為の持つ性格上、そこでは風景や人物、建物といった具体
的な物が少なからず顔を見せており、そうしたものと芸術を結びつけて論じることは比較的多くなされ
てきている。20世紀初頭から生まれた抽象を志向する諸芸術においてさえ、色彩や構図が抽象的な意
味を獲得しながらも、人物や自然物が歪められた形で登場していることが多い。
そのため芸術作品とそれを作り出した者との関係を論じる際、芸術家の置かれた環境や周りで起きた
            そうした視点から芸術作品を解釈することは非常に重要な仕事だといえる。
事件の直接的な影響を考え、
例えばある画家がこの時期にこの風景やこの人物を好んで描いているが、そうしたことからこの時期の
画家の心情がこの様に読み取れる、といったように画家を取り巻く現実の環境と作品を結びつけること
は主要な研究の方法といえるだろう。
しかし、音楽の研究においては個々の作品と作曲家の環境を直接的に結びつけるというやり方はあく
までマイナーな分野でしかないと言わざるをえない。西洋音楽が生みだしたソナタや交響曲という高度
に抽象的な表現様式の中で作られた作品を論じる時、最も重視されるのは、どういった形式が取られて
いるだとか、主題がどの様に展開されているとか、各楽章がどの様に関連付けられているか、といった
構成・形式の問題であり、あくまで作品の内部に止まった考察である。たとえ標題音楽という比較的具
象性を伴った作品の解釈の場合でもそれは当てはまるように思われる。音楽史や作曲家の生涯を研究す
る分野ももちろん確立されているが、そうした知識と個々の作品を直接結びつけることは多くの場合困
難を伴う。なぜなら作曲家が残した主な芸術作品はもっぱら抽象的な音符という記号であり、作曲家自
身がこの旋律はこうしたものを思い浮かべたと語ってでもいない限り、作品の一つ一つの要素と現実世
界の具象物を結びつけるのはほとんど不可能だからである。もっともそうした抽象的な素材だから鑑賞
者が自由に創造を働かせることができる余地が残されており、それが音楽の一つの魅力ともいえるのだ
が。
この様に音楽という芸術においては作曲家と作品は互いに分離し、作品はひとたび作曲者の手を離れ
ると一人歩きをはじめるということが言えるかもしれない。しかし音楽も人間が作り出すものである限
りはその作曲者の思想、周囲の人物、住んでいる環境、都市、町、そしてそこで見聞きしたものが全く
影響を与えないはずはない。たとえそうしたものと作品を結びつける余地が他の芸術に比べてずっと少
ないとしても、それは決して無視されるべきではないだろう。
                                     」という言葉が注
近年、マリー・シェーファーによって提起された「サウンド・スケープ(音の風景)
目を集めている。その主著『世界の調律』の中では、われわれの世界に溢れている様々な音(いわゆる
音楽だけでなく騒音といったこれまでほとんど見過ごされてきた音も含めて)に注目し、それが具体的
にどの様に人間の社会的活動や思想に影響を与えるかが検証されている。それは今や一つのディシプリ
ンにとらわれずに、環境デザイン、文化人類学などの分野の研究手法も取り入れた新たな学際領域を確
立しようとしている。こうした試みは音楽作品とその作曲家の環境との関係についてこれまでとは違っ
た視点を提供しうるかもしれない。

                      64
                           「歴史家や分析家は、
シェーファーは同著の第七章の冒頭で次のように述べている。         音楽家が自らの想
            いかにして音楽を引き出してきたかを説明することに専念してきた。
像力や他の形式の音楽から、                             だが、
音楽家も現実の世界で生活している。よって、彼らの作品には意識的にも無意識的にも、さまざまな時
                                」
代や文化の音とリズムが、認識できる多様な形で影響をとどめている。(1)
こうした視点を踏まえて、19世紀末から20世紀初頭にかけての都市、ウィーンに注目し、そこを
              ・            特にその音楽作品に話を絞るのではなく、
舞台に活躍した作曲家グスタフ マーラーを考察してみたい。
ウィーンという都市環境の中で生活し、そこに集まってきた人々と交流した都市生活者としてのマーラ
ーに注目していきたいと思う。
              『嘆きの歌』『大地の歌』を除く)と一曲の未完成の交響曲を残した
マーラーは生涯で九曲の交響曲(     、
が、交響曲というジャンルはこの作曲家の最も重要な作曲形式といえるだろう。マーラーは現代におい
て非常に高い評価を与えられるようになった作曲家であり、その時代を先取りした鋭い先見性は現代に
おいても新鮮な驚きを与え続けている。
彼の交響曲を聴くと、様々の旋律線が互いに何の関連もなくばらばらに現れては消えていくといった
ような印象を受けることがある。そこでは従来の序奏部から主題提示部、そして展開部へと有機的な関
連性を保ちながら進行していく伝統的な音楽語法は破棄されているようにも見える。なぜ彼がこの様な
音楽を書いたのかという素朴な疑問がわき上がる。なぜマーラーは伝統的な音楽から逸脱していったの
か。この19世紀という時代に関しては、新たな音楽語法が次々と生まれており、そうした進歩的な作
曲家達の影響を受けていることは間違いない。ドビュッシーやワーグナーといった従来の機能和声を限
界にまで拡張していった作曲家達は、シェーンベルクによる調性の支配性が完全に破棄された無調性音
楽をすでに予兆していた。
しかしここではこうした作曲家間の抽象的な音楽形式の相互の影響に焦点を当てるのではなく、人間
としてのマーラーがどの様な環境で生活し、そしてそれが彼の音楽にどのような影響を与えたかについ
て考えてみたい。




ウィーンの異邦人マーラー
マーラーは1860年、モラヴィアの国境に近いカリシュト(ボヘミア)に生まれる。彼は15歳に
なるとウィーンに赴き、ウィーン音楽院に入学すると、そこでピアノと作曲の課程を修了する。ボヘミ
アの地方都市から出てきたマーラーにとってウィーンという文化的水準の非常に高い大都市に住むこと
はさぞかし刺激に満ちたもののように思える。しかし、実際はそうでもなかったようである。
マーラー研究の第一人者アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジェはその頃のウィーンの様子をこう記して
  「揺らぎ始めたオーストリア帝国の首都であり、
いる。                     変貌を遂げつつある世界の首都でもあるウィーン
は、何よりも楽しみ、くつろぎ、生活を快くするすべてのこと、すなわち、寛容(おもて向きだけにせ
 、礼儀正しさ、中庸に執着した。すでにあるがままに、すなわちすべてにおいて熱狂的でエキセント
よ)
                                      」
リックだった若きマーラーには、こうした特徴はどれも全くなじめないものだった。(2)
この文章は同時にマーラーの性格をもうまく描写している。若い頃からマーラーは決まりきった慣習
や伝統に妥協して甘んじることや、自らの理念と意見を曲げることが大嫌いだった。音楽院の頃から周
囲からその音楽的才能は認められていたが、同時にそうした新たな理念を標榜する人物として反感を買

                      65
うことも少なくなかったようである。
彼が最初に音楽家として有名になったのは作曲家としてでなく、指揮者としてであった。幸運にも1
9世紀後半はヨーロッパの各都市で歌劇場が次々に新設された時期であった。そこでは実力を備えた指
揮者が常に必要とされており、マーラーも各地の歌劇場で指揮者として活躍し、1897年にはウィー
ン宮廷歌劇場(現在の国立歌劇場)の音楽監督に就任する。当時ウィーンでは反ユダヤ主義が高まりを
見せており、ユダヤ人であるマーラーがウィーンの最高の芸術組織の監督に就任したことは大きな驚き
だった。
こうしてまさに指揮者にとって頂点ともいえる地位に立ったマーラーだが、その多忙な生活の中で、
夏のオフ・シーズンには都会の喧騒からはなれた作曲小屋で作曲活動に没頭した。しかし、彼の作曲し
た交響曲の多くは初演の時から高い評価を受けることはまれであった(交響曲第三番は比較的好意的に
         。
迎えられたようだが) その反対にそれはウィーンの人々の鋭い批判の的となった。マーラーは大作曲家
の多くがそうだった様に、存命中には作曲家としての評価はあまり高くなかったのである。ウィーンと
いう刺激に満ちた都市は様々の優れた芸術家達を引き寄せ、前衛的な芸術運動が花開く場所となったに
もかかわらず、人々の間では伝統に固執し、波風が立つことを嫌う中庸主義的な空気が支配的だったと
いうのは皮肉である。そしてそれは現代においてもなお言えることで、ウィーンはいまだに「根強い反
マーラー派の最後の拠点」なのである。
そうしたウィーンの人々のマーラーに対する批判の目を、マックス・グラーフによる当時の新聞批評
         「ウィーンに十年間住んでいたにもかかわらず、グスタフ・マーラーは、この都市
に見ることができる。
では、相変わらず異邦人である。北ドイツの荒地生まれの反逆児ブラームスでさえ、ウィーンの風景の
美しさと、ウィーンの社会の生き生きとした親愛感に心を動かされ、そのとげとげしさは洗練され、愛
想のない性格は和らぐという変容を遂げていったのにひきかえ、マーラーはここに長く滞在すればする
ほど、ますます自分の殻にひきこもっていった。マーラーはウィーンの社会のいかなる嗜好も共有でき
ず、この都市の魅力に捉えられることはなかった。彼の作品のいずれにも、それを書いた人物がウィー
ンで活動していたことを思わせるものはない。それらの作品は、自然さ、美的センス、純粋な官能性を
まったくもっていない。巨大な野心につき動かされて執拗に不条理なものを追求しているだけなのであ
  」
る。(3)
こうした記事は多くの偏見を含んでいるが、これが当時のウィーンの人々の一般的なマーラー像であ
ったことは確かな様である。マーラーはこうした批判を受けてもウィーンという都市の官能的な美的嗜
好に迎合することをせず、あくまで己の音楽の理想を貫いた。それでは彼はウィーンという都市に長く
住んでいたにもかかわらず、その都市が持つ空気、環境をまったく寄せ付けず、そこから何らの影響も
受けることはなかったのであろうか。そうとは考えづらい。以下では、19世紀末という産業革命を経
て技術革新が進む中、それまでとはまったく異なった「音の風景」が現れてくる時代の変化がどのよう
に作曲家と関わっていたかを考察してみたい。



サウンド・スケープの変化とマーラー
マリー・シェーファーによれば、音楽は時代の情況を最もよく証言する時代の指標の一つであり、マ
リア・テレサの平等主義的で啓蒙的な統治とモーツァルトの優雅で均衡な音楽、オーストリア=ハンガ
リー二重帝国の衰退とリヒャルト・シュトラウスの情熱的な気まぐれは完全に一致しているという。ま
たマーラーの音楽にはその後すぐにやってくる政治的な「死の舞踏」を予感させるような風刺に満ちた

                        66
マーチやダンスが含まれていると指摘している。
マーラーの生きた時代はヨーロッパ全体を巻き込む政治的不安が人々の間を覆い始めていた時だった。
この時代に生まれたフォーヴィズムや表現主義の歪められ、激しく塗りたくられた絵画の中にそうした
                  しかしそうした大きな視野で繰り広げられた変動よりも、
空気を読み取ることは比較的容易である。                        人々
の実生活に基づいた身近なレベルにおいての変化の方が、芸術家達により強く、それも気付かないうち
に大きな影響を与えているかもしれない。
                               、生命の音(鳥や虫や動物)
シェーファーは人々を取り囲むさまざまな音が自然の音(海や水や風)           、
         、町と都市の音(馬車や路上の呼び売り人)の音へと変化していく様子を描いてい
田舎の音(牧場や狩)
る。そうした中で環境における騒音レベルは徐々に上がっていき、それまでは遠くの微細な音まで聞き
分けることが可能だったにも関わらず、個々の音が超過密状態になり、生き生きとした自然の音は徐々
にかけ消されていったという。
しかしそうした状況をより深刻にしたのが産業革命である。およそ1760年から1840年にかけ
てイギリスで起こった産業革命によってミシン、タイプライター、エア・シリンダー、スクリュー、蒸
                それらの出す機械音は今までには誰も聞いたことのない音であり、
気機関などが次々と生み出されたが、
それが不幸にも自然や人間の音と混じりあった時、音の風景はますますくすんだ、ぼやけたものになっ
ていってしまった。そしてそれらはかつて自然のみが出しえた大音量を人間の力で出すことをも可能に
した。かつて嵐や火山、そして教会のパイプオルガンなどが出すことのできたこうした音は、人間に畏
怖の念や恐怖を呼び起こした。シェーファーが「聖なる騒音」と呼ぶこうしたこうした特権的な音はこ
うして神から聖職者そして世俗の産業家へと降りていく。そうした機械を操る人々はやがて「音の帝国
主義」を生み出す。産業家たちは機械の出す大音量によって、検閲にかけられることなく自由に他人に
干渉することができるのだ。そうした機械音はまた、自然界がめったに出すことのできない、連続する
平坦な音の線という特徴をもっている。それを聴くものは、個性も進行しているという感覚も持つこと
はなく、ただ永続的に続く同質の音に従属させられる。
産業革命の後には電気革命の時代がやってくる。19世紀後半にかけて電話、蓄音機、ラジオが相次
                        」と呼ばれる状況を生み出した。それ以前は、音
いで発明され、それらは「スキゾフォニア(音分裂症)
はそれを生み出した人間や自然物のメカニズムと直接関わったところでしか生まれえなかった。すべて
の音は完全に模造されることは不可能だった。しかしこうした電気技術は音をパッケージ化して蓄え、
時間的も空間的にもそれが生み出されたコンテクストから分離することになった。
ここで重要だと思われるのは、人々を取り囲む音が次第にごちゃ混ぜで不明瞭なものになっていき、
自然な音発生のメカニズムから分裂した、これまで聴いたことのない異質で平坦な音、そして大音量が
生まれてきたということである。マーラーの音楽をこうした人間の音環境の変化の一つの現れとしてみ
るのはまったく見当違いではないだろう。彼の交響曲ではどこから来たのかわからないような音が、自
然の摂理を、伝統的な音楽の進行を無視するかのごとく現れては消えていく。それらは次第に混じりあ
うが、互いに調和し有機的な全体を形成することを嫌うかのようだ。交響曲第一番の序奏部にある、弦
楽器のA音の非常に長く伸ばし続けられるフラジオレットは、それまでの音楽では決して聞かれなかっ
た異質で、平坦で機械的な冷たい印象を受ける。
機械化時代の前に人々に恐怖と畏怖の念を呼び起こしていたものが何なのかは、ベートーヴェンの田
園交響曲の嵐の描写を聴けばよくわかる。もはやそうした自然の音よりも大きな音を出しうる機械に囲
まれた現代においては、そうした嵐を表す大音量のティンパ二やピッコロそして低弦楽器のグリッサン
ドも、もはや畏怖の念を呼び起こす力を半減させてしまったかもしれない。古典派の時代の音楽に自然

                         67
的な音から極端に逸脱する様な、機械的で人工的なものを連想させるような音が聞かれないのは、そう
した音がまだ作曲家達の周りにあふれていなかったことと一致するのではないか。
マーラーの交響曲がかつてない規模の大編成になっていくのは、まるでそれまでの古典的な編成のオ
ーケストラの音は超過密の騒音環境に囲まれた都市の人々の耳には届かず、かき消されはしまいかと訴
えているかのようだ。コンサートホールは外部の都市の喧騒を遮ってくれているというのに。
このように人間を取り巻くサウンド・スケープの変化は、それを耳にした作曲家達の音に対する感性
も確実に変えていった。それではマーラーが実際に住み、生活していたウィーンはどのような環境であ
ったのか。以下ではマーラーがこの都市の中でどの様な体験をしていたのか、そしてマーラーとウィー
ンという都市の魅力に引き寄せられて集まった芸術家達との交流について考えてみたい。



ウィーンの都市環境
マーラーが宮廷歌劇場の音楽監督としてウィーンに移り住んできた頃は、この伝統的な都市がまさに
近代的な都市への歩みを進めている時だった。特に19世紀中ごろのフランツ・ヨーゼフ一世によるリ
ングシュトラーセ計画はその代表的なもので、中世以来都市の中心街を取り囲む城砦インネレシュタッ
トが取り除かれ、そこに巨大な環状道路のリングシュトラーセが敷かれた。そしてそれに沿ってウィー
ン大学や市庁舎、国会議事堂や美術史博物館が次々と建設され、宮廷歌劇場もリングシュトラーセとケ
ルントナー通りの交わる絶好のロケーションに建てられた。
しかしこのリングシュトラーセ計画が豪華な建築物を派手に飾りつけることに目がいく余り、都市機
能についての配慮がかけていたのも事実で、そうした批判の中から若い建築家の一人、オットー・ワー
グナーは市営鉄道の敷設やドナウ運河とウィーン川の暗渠化などの機能重視の都市改造を次々と実行し
ていった。マーラーの住んでいたアパートもこのワーグナーが手がけたものに他ならず、そこから宮廷
歌劇場までの道のりではちょうどウィーン川の暗渠工事が進行中で、マーラーがまさに都市の近代化が
進む空気の中で生活し、その様子を直接見聞きしていたことは間違いないのである。
こうしてマーラーは都市化がもたらす典型的な機械音を生活の中で絶えず耳にすることとなる。四方
からどこからともなく聞こえてくる互いに調和することのない音の群れに囲まれることをマーラーはど
の様に感じていたのだろうか。このことに関して彼自身は意外ともいえる言葉を残している。
ある日友人とともにウィーン市街地を歩いていると、二台のストリート・オルガンが同時に音楽を奏
で、遠くでは軍楽隊の音が聞こえていた。友人はこの騒音に耳を覆ったが、マーラーは喜んでこう叫ん
 「聞こえるかい。ポリフォニーだよ。音楽においても、まったく同じことさ。…ちょうどこんなふう
だ。
に、四方八方からテーマがあらわれてくるんだ。だからそのテーマは、リズムも、性格も、このとおり
互いにまったく違う。これ以外のものはみんな、ただたんにいくつかの声部のために書かれているとい
うだけの、装われたホモフォニーだ。唯一の違いは、創造的芸術家がこれらのテーマに秩序と統一感を
                              」
与え、均衡と調和のとれた全体にまとめ上げているだけのことさ。(4)
マーラーは、こうした都市の騒音が生み出す複雑で不調和な音の戯れを敏感に感知していた。そして
                     自らの音楽の霊感の源としてはっきり認めているのだ。
単なる騒音としてそれらに耳を背けることなく、
マーラー独自の複雑なポリフォニー書法はこうした都市近代化の中で生まれた過密な音空間がなければ
確立されなかったかもしれない。多くの人が好んで耳を傾けたいとは思わない都市の喧騒もマーラーに
とって新たな音楽の可能性を示唆するものとなり、それが彼の音楽をそれまでの伝統とは相いれない、
時代を超越したものにしたのだ。もしマーラーがそうした新しい時代の音に敏感に反応することなく、

                      68
伝統こそが芸術家の従うべき唯一の規範と信じていたなら、今日マーラーの名前が人々の中に刻まれる
ことはなかったのだはないか。この世紀末の時代の芸術家の中で、伝統に完全に迎合しながらも、現代
において高い評価を受け続けているものが果たしているどれだけだろうか。
マーラーは新たな時代の芸術を創造するために伝統に対峙することも決して恐れなかった。それは単
に音楽史に名を連ねる偉大な作曲家達に挑戦するだけでなく、伝統の象徴的存在であるウィーンの人々
に対しての挑戦でもあった。実際彼はウィーンの聴衆から鋭い批判を常に受けていた。しかし彼はそれ
らに臆することなく自らの芸術を信じて創造を続けた。そうした姿勢はウィーンに集まってきた多くの
前衛芸術家達にも共通することだった。マーラーのウィーンでの生活を考える時、そうした他の芸術家
達との交流もまた重要なファクターである。以下ではそうした人々との相互影響を視野に入れてマーラ
ーがいかに新たな芸術に向けて歩みを向けて言ったかを考察したい。



ウィーンの前衛芸術家達
マーラーがウィーンで出会った人々の中でまず挙げなければならないのが彼の妻、アルマ・マーラー
であろう。ウィーンでも有名な風景画家だったエミール・ヤーコプ・シントラーの娘であったアルマが
有名なのは、マーラーの妻だからというだけではない。彼女はマーラーの死後、表現主義の画家オスカ
ー・ココシュカ、建築家ヴァルター・グロピウス、そして詩人で小説家のフランツ・ヴェルフェルをつ
ぎつぎに夫やパートナーとしていったのである。それゆえ彼女は「四芸術の未亡人」と時に皮肉をこめ
て呼ばれる。彼女自身も音楽的才能を持ち独学で作曲を勉強したりしていた。アルマがマーラーにとっ
て大きな存在だったのは、彼の妻としてそばにいたというだけでなく、ウィーンの前衛芸術家達との接
点となっていたからである。アルマの父親が亡くなった後、彼女の母親は「ウィーン分離派」の創始者
の一人、   ・
    カール モルと再婚する。アルマと結婚したマーラーにとってモルは義父にあたることになり、
そのモルの家に分離派の人々が集ってきたことからマーラーと分離派の人々との交流が深まることとな
る。
その分離派の人々の中には後にマーラーが宮廷歌劇場でワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を上
演する際舞台演出を依頼したアルフレート・ロラー、そして分離派を代表する画家グスタフ・クリムト
などがいた。とくにクリムトは伝統にとらわれずに新たな芸術を模索する前衛的な卓越した芸術家であ
り、マーラーの身近にこうした優れた芸術を生み出す人物がいたというのは無視できないことである。
このクリムトの型破りな芸術を象徴するものの一つがウィーン大学の大学講堂の天井を飾る寓意画と
                、   、
して文部省から依頼された『哲学』『医学』『法学』の三連作だろう。最もこれらの作品は周囲から痛
烈な批判を浴び、結局クリムトは仕事の報酬を返却してこれらを手元に戻すことになり、三枚とも第二
次大戦中に焼失して幻の作品となってしまい、白黒写真としてしか現存していないのだが。ウィーン大
学の教授たちにはそれらが「曖昧な形で曖昧な観念」にしか見えず、講義の嘆願書が出される事態にま
でなった。このようにウィーンの人々の伝統を重んじる人々からまったく相手にされなかったクリムト
の作品だが、よく見てみると不思議とマーラーと同じように新たな時代の空気を敏感に察知しているこ
とがよくわかる。
『哲学』においては全体的に薄暗い画面の右側にスフィンクスがまるで闇の中から現れたかのように
そびえ立っている。その左側では目をつぶり、この世の不幸を嘆き、そこから目をそむけようとしてい
るかの人々が、不自然に交じり合いながらも不安定なまま空中を浮遊している。画面下の一人目を見開
いた人物一人が、唯一物事を理解しようとしていることが示唆されている。この絵は闇に対する光の勝

                      69
                          彼らには全く受け入れがたいものだったが、
利という大学側の意向とはまったく相いれないものであり、
この絵にマーラーの音楽との関連性をみるのは飛躍のし過ぎであろうか。ぼやけてはっきりしない輪郭
線、有機的に配列されずただ無目的にさまようかのごとく浮遊する人物達、人間的な個性が全く感じら
れず冷たい印象のスフィンクスの顔、絵全体を覆う不穏な空気、これらからはマーラーの音楽にも感じ
られたこれから世界が直面していく大きな変動への不安感と期待感から逃れずに対峙しようとする強い
意志と理念がこめられている様に思えるのである。
マーラー自身は1902年に開かれた第14回のベートーヴェンをテーマにした分離派の展覧会に音
楽家として関わっている。宮廷歌劇場の音楽監督として多忙を極める中、展覧会会場でウィーン歌劇場
の管楽器のメンバーと共に、自ら木管と金管用に編曲したベートーヴェン作曲の第九交響曲の四楽章を
演奏したのだった。こうしたことからもマーラーが分離派の人々の新たな芸術を模索していこうとする
試みに大きな共感をよせていたことは間違いない。そしてクリムトの有名な『ベートーヴェン・フリー
ズ』に出てくる黄金の甲冑を着け、剣を携えた男がマーラーの容貌を備え、あたかも伝統という大きな
敵に立ち向かうかのごとく描かれていることからも、クリムトがマーラーをそうした伝統には屈しない
芸術家として捉えていたことがわかる。彼らは互いに認め合っていたのだ。そして同じ環境の中で暮ら
す内に、自然とその芸術作品にも類似点が浮かび上がってきたのではないか。両者とも同時代の多くの
人々には批判の対象でしかなかったが。
同じウィーンで活躍した芸術家でもう一人重要なのがアルノルト・シェーンベルクであろう。この二
人は世紀末のウィーンで活躍し、どちらも自らの芸術理念を信じて伝統に固執する人々と対峙した作曲
家同士であり、この二人が出会ったのはまさに宿命だったかもしれない。やはり優れた芸術家の周りに
は優れた芸術家が互いに引かれあい、集まってくるのだろうか。しかしシェーンベルクの伝統的な音楽
に対する挑戦はある意味マーラーよりもはるかに強烈なものかもしれない。彼は音楽においてその最も
根本的な原理の一つと考えられていた調性システムを完全に破壊しようと試みたのだった。彼の表現主
義時代の無調性音楽においては、それまでの主音や主和音を頂点にした音のヒエラルキーが否定され、
すべての音は完全に相対的で、調性が保障していた有機的連関を失うこととなった。マーラーはあくま
で調性と全音階のシステムを完全に破棄することはなかった。
彼らを結びつけることになるのは1902年のシェーンベルクの『浄められた夜』の初演であった。
これを聴いたマーラーは深い感銘を受け、二人の交流が始まることになるが、両者は断固として自分の
理念を曲げるのを拒否したため、激しい言い争いになることも少なくなかった。しかしそれは互いの音
楽によせる共感と尊敬を失わせるものではなかった。1907年にはマーラーはシェーンベルクの『弦
                (作品9)の初演を聴いている。そこにいた聴衆はそれを「拷問室
楽四重奏曲第一番』と『室内交響曲』
内交響曲」となじって拒絶反応を示したが、マーラーは最前列に陣取り、二曲に対して大きな拍手をし
ただけでなく、あわやそうした罵声を浴びせる聴衆の一人に平手打ちを食らわせるところだった。マー
ラーはシェーンベルクが人々に評価されず、貧困にあえぐ時も、金銭的援助を施すほどだった。一方の
シェーンベルクもマーラーを批判する人々から彼を庇護し、マーラーの死後の1912年に有名な「プ
ラハ講演」の中で正当な評価を受けなかった作曲家に対しての最大限の賛辞を送った。そして同年に完
成した彼の理論的主著である『和声学』はマーラーに捧げられたのである。
二人の音楽語法は上で見たようにかなり異なる部分があるのは確かである。しかしこの二人の音楽は
クリムトとマーラーの芸術がジャンルは違ってもその根底において通じ合っていると思われるのと同様
に、同じ理念を共有しているようだ。マーラーが作曲家としてはウィーンの中庸主義の人々に決して受
け入れられなかったことはすでに見てきた通りだが、シェーンベルクほど人々の激しい拒否反応を受け

                      70
た作曲家は音楽史上に存在しないかもしれない。彼の『弦楽四重奏曲第二番』の初演は「スキャンダル
      、
コンサート」「大荒れのコンサート」と揶揄され、曲の演奏さえ危ぶまれるほど聴衆の反応はひどいも
のだった。彼のコンサートはこうした妨害が付き物であったが、シェーンベルクはそんなことでは自ら
の芸術の理想を曲げることはしなかった。こうして見ると新しい芸術形式は常に伝統の側に立つものか
らの痛烈な批判を受けるが、そうした中、己の芸術の真価を信じて突き進んでいった者のみが時代を超
えて評価されていくように思えてならない。
しかし、この二人の作曲家の音楽理念を考える時、彼らが決して伝統に全く見向きもせず、それを無
視し続けていたわけではないことも視野に入れておかなければならない。マーラーが独自の音楽語法を
築き上げて言ったのは間違いないが、そこにはベートーヴェンやシューベルトといた古典・ロマン派の
甘美な旋律美の伝統が確かに認められ、長大な時間と巨大な編成を要する交響曲は、彼がブルックナー
の後継者であることを示している。彼が交響曲というまさに古典を代表する音楽形式にこだわり、後期
の交響曲おいてもメヌエットやワルツといった古典的なリズムを採用していることを忘れてはならない。
そして何より交響曲第四番には彼を決して受け入れようとしなかったあのウィーンの人々の甘美な美的
嗜好の影響が認められるのだ。
シェーンベルクは無調性音楽に到達した後、調性に代わり音楽に統一感をもたらすものとしてセリー
(音列)       「十二音技法」
    の概念を採用し、      を生み出すこととなる。ここで彼が用いた基本音列としての「直
              、    、
行」とその変化形である「逆行」「転回」「逆行転回」といった対位法的技法も,中世にはすでに考案
                               、
されていた伝統的な作曲技法である。さらにそれらを「ガヴォット」「ジーク」といった古典的な舞曲
を組み合わせた組曲として編んでいることは、彼の古典を踏みにじるどころかむしろそれを尊重し、継
承しようとしている姿勢を象徴している。彼自身「私にとって重要なのは、人を驚かす音楽の案山子に
                                           」
なることではなく、むしろ十分に理解された古きよき音楽的伝統の自然な継承者となることだ。(5)
と語っていることからもそれは明らかである。
彼らのこうした古典的傾向はその前衛的な音楽からはむしろ意外とも思えるが、どの様な芸術におい
ても伝統を完全に無視した創造などありえないことを思い起こさねばならない。彼らは自らが有益と思
う形式を積極的に用い、他方では創造的試みにとって邪魔になるものに固執することはしなかった。そ
うして生まれた新たな形式は、今日ではもはや新たな伝統の一つに数えられるまでとなった。過剰な効
果をあげる突然の音量変化、互いに関連し合わない旋律線、無調性などの技法は、音楽全体が調和した
全体を築き上げるよりも、互いに溶け合わない一つ一つの音の音色がはっきりと際立ち、それらが互い
に個性を主張しあうような傾向をもつ現代の音楽においてはなくてはならないものとなっているように
思える。



結び
マーラーは1907年、ウィーンの人々の執拗な批判に耐え兼ね、また国際的な指揮者活動に専念す
ることを選択し、ウィーン宮廷歌劇場を後にする。アメリカに渡ったマーラーは、メトロポリタン歌劇
場の音楽監督に就任すると、そこで大きな成功を収める。しかしそうした日々もそう長くは続かず、1
911年重病に倒れた彼は再びウィーンに戻り、同年の5月18日に息をひきとった。マーラーが自ら
の最後に選んだ場所はやはりウィーンだったのだ。
マーラーの足取りをこうしてたどって来たが、彼の人生はウィーンという都市とは切り離せないもの
だったという思いが強く湧いてくる。そこでは何よりもウィーンという都市の環境、空気、そこに住む

                        71
人々が、彼の芸術家としての感性、そして音楽作品に非常に大きな影響を与えていることが明らかとな
った。
都市の近代化が進む中で人々はそれまでにない音環境に囲まれることとなった。こうした変化は驚く
べき速さで実生活の中に取り込まれていったにもかかわらず、あまりに自然に溶け込み、浸透していっ
たため、時として聞き過ごされてしまう。しかしそれは人々の潜在意識や感性を着実に変化させていっ
 大多数の人々はただ受動的にそうした変化に追従するばかりで、
た。                           敏感に反応しようとはしなかった。
マーラーがそうした変化に臆することなく、それを自らの芸術作品の中で顕在化しようとしたとき、彼
らは激しい拒絶反応を示した。それは、もはやそれなしでは生きていくことのできない産業機械たちの
音に囲まれ、時代の変化の波に完全に飲み込まれたにもかかわらず、表面上は古きよき時代の名残にし
がみつき、新たな感性を否定する矛盾に満ちた姿にも見える。先に引用したマックス・グラーフが、マ
ーラーの音楽は全くウィーン的ではないと言った時、それは半分当たって半分はずれていた。確かにマ
ーラーの音楽は伝統的な音楽から逸脱するものだったが、そこには他でもないウィーンの都市近代化へ
と歩み出す中で生まれたその「音」が確かに取り込まれていたのだ。
そうした中、マーラー以外にもこうした変化を確実に受けとめようとする者たちがいた。彼らウィー
ンに集まった前衛芸術家達は大多数の人々に批判されながらも、自らの芸術の中に新たな時代の諸相を
顕示することを止めなかった。芸術は日常生活の中では意識されることのない無意識の世界を意識に上
  人間の時には美しく、
らせ、        時にはグロテスクな姿を批判的に映し出すことのできる重要な活動である。
この時代の前衛芸術家達の作品にあらわれたその姿の多くは、前者とは言い難いものだった。しかしそ
れらはその時代の人間の飾らないなまの姿を何よりも忠実に再現した貴重な証言として、現代において
ますます新鮮な輝きをはなっている。
ひょっとしたら、マーラーや前衛芸術家達は、ウィーンの伝統からくる強い反発の力によってこそ生
まれたといえるのかもしれない。ウィーンの人々の強固な伝統主義は、彼らが自らのもつ芸術の価値を
固く信じているからに他ならない。それは危険を伴うにせよ、彼らのそうした信念は全く説得力のない
ものではない。そうした伝統の上にそびえ立つ都市に引き寄せられる形で、世紀末という時代に優れた
芸術家が集まってきたのだろうか。前衛芸術家達は自らが批判されることを喜んでいたわけではないだ
ろう。むしろ彼らは伝統の側に立つ人々からも評価されたいと思っていたはずだ。そうした彼らにとっ
て、何より伝統を重んずる人々が住み、時代の変化を象徴するような目新しい物事があふれかえるウィ
ーンという都市は、己の力を試す絶好の場所に映ったのかもしれない。




注
  『世界の調律』p.161
(1)
  『グスタフ・マーラー一失われた無限を求めて』p.30
(2)
(3)同上 p.49
(4)同上 p.237
(5)同上 p.128


                      72
参考文献
アンリ=ルイ・ド・ラ・グランジェ、船山隆・井上さつき訳『グスタフ・マーラー一失われた無限を求
めて』草思社、1993
渡辺裕『文化史の中のマーラー』筑摩書房、1990
E.クルシェネク・H.F.レートリヒ、和田旦訳『グスタフ・マーラー一生涯と作品』みすず書房、
1981
R.マリー・シェーファー、鳥越けい子他訳『世界の調律』平凡社、1986
神林恒道編『ドイツ表現主義の世界一美術と音楽をめぐって』法律文化社、1995
                         』中央公論社、1994
ゲルベルト・フロドゥル、大森達次訳『クリムト(画集)
門馬直美『西洋音楽史概説』春秋社、1976




                        73
    「都市映画:ベルリン・天使の詩」
              欧米第一課程 ドイツ語専攻 3 年 福岡礼子

 都市小説、もしくは都市映画を探していて、ふと思い出したのがこの「ベルリン・天使の詩(Der
Himmel ueber Berlin)
                   」だった。思い出したと言っても、別に以前この映画を見たことがあったわけで
はない。                     “こういう題名のドイツ映画がある”
    ただ名前をどこかで聞いたことがあっただけで、                というこ
としか知らなかった。その上、この「ベルリン」という街を、私はどうしても好きになれなかった。こ
の一学期間、ベルリンについてやってきたわけだが、ベルリンというとどうしても“大都市でごみごみ
した所”というイメージがあって、何を読んでもそのイメージが真っ先に頭の中に浮かんできてしまう
  昨年ドイツ国内を周る旅をした時も、
のだ。               あえてベルリンははずしてポツダムに行ったぐらいである。
      「その街」の映画を選ばなくても、とは思ったのだが、とりあえず見るだけ見てみようと
よりによって、
思い、実際この映画を見てみたところ、非常に奥が深い映画だったのだ。
 この映画が撮影されたのは、1987 年、つまり統一前のベルリンである。まだ壁が東西を分けていた頃
の西ベルリンにおける人々の様子、そして街の様子を、カメラが天使の視点でとらえている。そもそも
この天使たちというのは図書館に住んでいて、子どもはその姿を見ることができるが、大人になっても
まだ見える人はほとんどいない。また、天使は人間の考えていることや頭の中で思い描いている情景な
                そういったことをはるか昔からただただ書き記し、
どを見たり聞いたりすることができ、                     報告してきた。
それが彼らの仕事であり、彼らは“天使である限り”死なないのだ。しかしある時、天使ダミエルはサ
ーカスで働いていたマリアンという人間の女性に魅かれ、天使を、そして永遠の命を捨て人間になる決
心をする。1987 年の映画にしてはなぜかモノクロで始まった画面が、天使ダミエルが人間になった瞬間
に全てカラーになるのである。
 このように、この映画においては「天使」と「人間」という、あるはっきりとした“外点”と“内点”
が示されている。だが、天使と人間のどちらもが“外点”となり得るし、また同時にどちらもが“内点”
となり得ると言えるだろう。というのは、最後にダミエルが人間になるとは言うものの、この映画の大
部分は、ダミエルをはじめとする天使たちの目や耳を通しての画像や音声で成り立っている。このこと
      「天使」が内点であり、
から考えれば、         「人間」は外点であると言える。しかし一方で、人間となったダ
ミエルの目を通して見たものは全てカラーであり、より現実味を帯びたものとなっていることから考え
                「天使」は外点であるともとらえることができる。少なくとも天使
ると、やはり「人間」が内点であり、
ダミエル自身は、自分がまるで世界の背後の世界にいるように、まるで不在のものであるかのように感
じており、人間のように自分の重さを感じたい、目の高さでその世界を見たい、と願っていることから、
彼にとっては「天使」は明らかに外点であったのだろう。
    この   と
 では、 「天使」 「人間」の間の境界点となるものはないのだろうか。この二つの外点と内点は、
そもそもはっきりと分けられている上に、モノクロとカラーという方法によってさらにその違いが明ら
かになっている。このため、一見境界点は存在しないようにも見えるが、あえて挙げるならばピーター
ではないかと思う。ピーターというのは現在人間であり、俳優をしている男性であるが、彼はかつて天
使であった。ピーターも数十年前にダミエルと同様、人間の世界に魅かれて天使から人間になったので
ある。つまり彼は「天使」を外点と考えると、昔は外点にいたが現在は内点に存在している。しかし彼
は、天使の姿を見ることはできないにしても、感じることはできるのだ。ピーターはダミエルの気配を
    「自分の人生がないと寂しいだろ?君はここにいない、
感じ取り、                        僕はいる。           」
                                  こっちに来たらいいのに。
と見えない相手に向かって話しかける。このようにピーターは、外点から内点に移動したが、外点との

                          74
接点も失わずにいる、どちらかといえば内点よりの境界点であるとも考えられるだろう。ちなみにダミ
エルは人間になった後、外点との接点を失ってしまった。
      「天使」と「人間」という外点と内点は非常にはっきりと示されているが、少し違った角
 このように、
                                        「ドイツ人以
度から見てみると、また別の外点と内点が見えてくる。それは「ドイツ人」という内点と、
                                     「みんなよそ者だ。
外の人」という外点である。天使たちが毎日聞いているドイツ人の心の中の声には、
        」という声や、ユダヤの星を服につけた老婦人を見て、
あいつもこいつも。                       「ユダヤ人だな。収容所で何
          うそつきどもめ。
を食ってた?犬の飯か。                」
                 今に白黒つけてやる。と思った男性の心の声があったりする。
ベルリンという都市が、そしてドイツという国家がもつ歴史が、この 80 年代の、東西が統一される前
の人々の心の中にも強い影響を与え続けていることがよく分かる。一方で外点である「ドイツ人以外の
   「国境など増えるばかりだ。「ドイツ民族は一人一人ミニ国家を構えていて、よそ者には“入国
人」は、            」
税”     」
  を要求する。 と感じており、ドイツ人が内点と外点をはっきり分けたがっていることは明らかであ
る。従ってこの場合の内点と外点の間には、境界点はないと言えるだろう。
 また、同じドイツでも、ベルリンという都市は東と西に分けられていたため、東を外点、西を内点、
そして壁を境界点という捉え方もできる。この映画については西ドイツによって製作されているため、
街の風景などはほとんど西ベルリンのものであるが、それでも時々東ドイツのテレビ塔が映し出された
り、壁においては、この映画の中で大きな役割を果たしていると言ってもいいほどである。
 ではこの映画において、ベルリンであるがゆえに生じる意味は何だろうか。そもそも、この映画の監
督であり脚本も手がけたヴィム・ヴェンダース(Wim Wenders)は、“ベルリン”という街を撮るた
                                   「
            」と述べている。しかし、先程外点と内点の箇所で少しふれたように、この
めにこの映画を作ったのだ。
映画においては「壁」がこの街の一つの大きな特徴として映し出されていることを考えると、ヴェンダ
ースのいう“ベルリン”とは 80 年代の、まだ東西が統一されていなかった頃のこの街を指しているの
であって、現代のベルリンでは、この映画はきっと意味をもたなくなってしまうだろう。映画の中で、
サーカスで働くフランス出身の女性、                       「ベルリン―
                 マリアンがこのように頭の中で考えるシーンがある。
異郷なのに故郷みたいな街 迷子にもなれない どこへ行っても壁の街 三分間写真を撮ると他人の顔
が出てくる街 そこから何かが始まる・・・」このマリアンの言葉に、ヴェンダースが撮りたい“ベル
リン”の街がよく表されているのではないだろうか。フランス人のマリアンにとって、ベルリンは故郷
のような雰囲気を持っていると同時に、どこに行っても壁に突き当たる街である。ここでマリアンが言
う「壁」とは、実際のベルリンの壁のことでもあり、ドイツ人がドイツ人以外の人に対して作る「壁」
のことでもあるように思う。つまりマリアンは、西ベルリンという内点にあって故郷を感じ、ドイツ人
以外の人という外点にあって「壁」を感じているのであろう。このように、ベルリン特有の「壁」の存
在は、この映画にベルリン特有の意味を与えている。
 しかし、ベルリンであるがゆえの意味はもちろんこの「壁」だけではない。この映画の中ではたくさ
ん、ドイツにおける戦争の歴史の重みが感じられる箇所がある。その「重み」というのは、モノクロの
映像や暗い音楽によってますます重く感じられるのだが、ここで、ある一人の老人が重要な役割を担っ
ていたように思う。その老人は自らを物語の語り手と名乗り、図書館で一生懸命物語を探している。彼
は「中世の騎士や王様が戦う叙事詩ではなく、                」
                     現代の平和な世の中の平和な物語を。 と言って探してい
るのだが、なかなかそういった物語は見つからない。彼はまたある時には、ポツダム広場を探してさま
よい歩く。しかし、彼が頭の中で思い描いているポツダム広場とは、東西分割前のベルリンの繁華街の
一つであり、都市開発の目玉でもあった“ポツダム広場”であったため、いつまでたっても見つけるこ
とができず、途方にくれてしまうのである。現在では高層建築の建ち並ぶポツダム広場も、東西が分割

                        75
                 「    とされて東ドイツ軍の監視下にあった。
された後には分割前の栄光も消え去り、無人地帯」                何人かの人々
の心の中の風景として、敗戦後のドイツの映像が映し出されたりもするが、そんな中で、平和な物語や
かつてのポツダム広場を探し求める老人の姿は、ドイツの戦争の歴史の重みをひときわ際立たせていた
ように思う。
 では、実際のベルリンの都市空間と映画の中の空間との関係はどうだろうか。この二つの空間を結び
つける役割を持つ地名として映画の中に出てくるものには、先ほど挙げた        や、 「マ
                                 「ポツダム広場」 また
リアンネ広場」といった比較的有名なものもあるが、むしろ「リリエンタール通り」や「ポツダム 44
番地」というように、聞いてもどこにあるのかよく分からないものの方が多い。さらにこの映画におい
て重要なことは、映像のほとんどが天使の視点であり、モノクロであるということだ。このため、この
映画の中におけるベルリンという都市空間は、何だか味気ない、とてもつまらないものとして見える。
さらに、東西統一前とはいえ人々の思考も暗いものが多く、ますます重いイメージが感じられるため、
この映画が製作された 80 年代後半の実際のベルリンの都市空間よりも、ずいぶん昔のベルリンのよう
な感じがし、地名やいくつかの建築物以外にこの二つの都市空間を結びつけるものはないように思われ
る。しかし、天使であったダミエルが人間になることで、映像の視点が天使から人間へと移り、画面が
モノクロからカラーへ移った瞬間に、映画の中のベルリンという都市空間が実際の都市空間と意外に近
いものであったことに気づき、天使と人間との視点の違いが、同じ都市空間を全く違ったように映し出
していたことに気づいたのである。
 ところで、この「ベルリン・天使の詩」にはハリウッドでのリメイク版がある。それが、ブラッド・
シルバーリング(Brad Silberling)監督の「シティ・オブ・エンジェル(City of Angels)
                                                       」である。
   「ベルリン・天使の詩」と比較するために、この映画について少し取り上げてみたいと思う。
ここで、
 「シティ・オブ・エンジェル」においても、天使が人間に恋をして最終的に人間になる、という大ま
            やはりいくつか変えられている点もある。
かなストーリーは同じだが、                 大きく変わったところとしては、
           「ベルリン・天使の詩」では、天使の仕事は専ら人間の観察をし、それを報告
例えば天使の仕事内容だ。
し合うことだった。しかし「シティ・オブ・エンジェル」において天使は、死にゆく者を迎えに来て、
その者のそばにいることが主な仕事となっている。そこで天使セスは、自分が迎えに行ったその患者を
                            「ベルリン・天使の詩」では天使の姿が
必死に助けようとする女医、マギーに恋をするのである。また、
見える大人はごくわずかであったが、この映画ではそもそもマギーがセスを見ることができ、また天使
の方も、人間に姿を見せようと思えば見せることができる、という設定になっているのも、大きな変化
である。
 ではこの映画において、                        「ベルリン・天使の詩」
            内点・外点・境界点はどのようになっているだろうか。
         この映画ではそれほど内点と外点の違いがはっきりしていないということである。
と比べて感じたのは、
そもそも「シティ・オブ・エンジェル」においては、天使が“色”というものを知らないという設定は
同じではあるが、天使の視点も人間の視点も、どちらもカラーで映し出されており、モノクロは使って
      「ベルリン・天使の詩」の中の天使の生活は、非常につまらなさそうなものに感じられた
いない。また、
のに対し、この映画の中では特にそうは感じられない。むしろ、天使セスが人間になることを躊躇して
しまうぐらい美しい世界であり、人間の知り得ないようなすばらしいことがたくさんある世界として描
かれているのである。このため、天使たちの表情がほとんど無いに等しかった「ベルリン・天使の詩」
                    「天使」と「人間」の区別がそれほどはっきりとは感じら
よりも、より人間味のある天使になっており、
れないのである。
   「ベルリン・天使の詩」では天使ダミエルの生活が中心であり、カメラの視点=ダミエルの視点
 また、

                             76
であったのに対し、この映画での中心は、明らかに人間であるマギーの生活に移っている。また、カメ
                                       「ベルリン・天
ラの視点もセスの視点のみではなく、マギーの視点も多く取り入れられている。つまり、
使の詩」では内点とも外点ともとらえることができた「人間」が、この映画でははっきりと内点として
                       “数年前に天使から人間になった人”はこの映画で
描かれているのである。さらに、境界点となりうる、
                                「ベルリン・天使の詩」では天
も登場するが、ここではあまりその境界性が感じられない。というのは、
使の姿を見たり感じたりすることができる大人というのはほとんどいなかったため、天使の気配を感じ
ることのできるピーターは境界点とも言えると思ったのだが、この映画においては、そもそもマギー自
体天使の姿を見ることができ、また天使も姿を見せようと思えば見せられるということもあって、天使
の気配を感じることができるということが、特に珍しいことでも何でもないからである。
 では、この都市であるがゆえに何か意味が生じているだろうか。この映画では、ベルリンのような歴
                                       「ベルリン・天
史の重みはなく、全体的に明るい感じがある。人々が頭の中で考えていることにしても、
      「支払いはどうしよう?年金はわずかだし・・・」
使の詩」では、
 「ねばってもどうせ破滅だ」
とか                              「
             というような暗い内容が多かったのに対し、娘に女の子が生まれたわ。
2835 グラム。                   「ベルリン・天使の詩」ではベルリン特有の
        」などの、比較的明るい内容が多い。つまり、
             「シティ・オブ・エンジェル」の内容はより普遍的なものとなり、特にロ
歴史が強く表現されていたが、
                                       “Los Angels”
サンゼルスではなくても成り立つようなものとなっている。あえて一つ挙げるとすれば、
という都市名ぐらいであろう。
 このように 2 作品を見てみると、結果的にストーリーの展開は大体において似たものではあったが、
                             「ベルリン・天使の詩」では自分で見
「シティ・オブ・エンジェル」の方は最初からカラーであったし、
ながら読み取らなければならなかったような部分を全て、登場人物の台詞として表わしているのでとて
も分かりやすくなっていた。このため、一見リメイク版のほうが見やすいし、おもしろく感じるのだが、
その分奥は深くないのである。要所要所に「ベルリン・天使の詩」の重要な部分は盛り込まれているも
のの、一番重要ではないかと思われる“天使の詩”は出てこなかったりする。つまり、根本的に表した
いものが異なっているのである。     「ベルリン・天使の詩」
               このように、          とそのリメイク版である「シティ・
オブ・エンジェル」を比較してみると、前者の強い都市性がよく分かった。




                        77
水曜2限レポート


          小説「冷静と情熱のあいだ」における都市と人間の関係性



                                欧米第一課程 ドイツ語専攻3年
                                    6201107 長谷川恵



 1.はじめに
 映画化もされたこの「冷静と情熱のあいだ」は、フィレンツェ、ミラノ、東京を舞台とした、時と場
所を越えたスケールの大きな恋愛小説として、特に若い女性に好まれている。本レポートでは、この物
語を単なる恋愛小説としてではなく、テクスト内における都市の表され方、という観点から、フィレン
ツェを中心に、ミラノや東京という3都市が、主人公にとってどう位置付けられているのか、また、そ
の位置付けが物語の進行に伴ってどう変化していくのかについて分析することを目的とする。この物語
は、私の場合最初に原作を読み、その後映画化されたものをビデオで見た。よくあることではあるが、
残念ながら映画では原作とは細かい筋が違ってきてしまい、話が薄っぺらくなり、都市についての描写
も少なくなっているように感じた。より恋愛ドラマの色が濃くなっていたと言えるだろう。そのため、
本レポートでは原作だけについて言及し、映画には一切触れていない。また、この物語には原作が2冊
あり、男女2人の主人公それぞれの視点からそれぞれの生活が描かれているのだが、都市の表現という
観点から見た際に、男性側の「Blu(青)」の方がより都市と人物との関係を深く取り上げているように感
じられたので、今回はこの一冊について見ていく。


2.この本における、主人公と都市の関係とその変化(文章編)
 この本の第一章はこの一節に始まり、           「この街はいつだって光が降り注いで
                  この一節で終わっている。
  」
いる。 主人公阿形順正が自分の住む都市、フィレンツェを形容した言葉である。彼は古い絵画の修復士
としてそこに住み、この街の明るい空と光とを心から気に入っている。彼は幼いころ過ごしたニューヨ
ークの空は「遠く狭い」と表現し、学生時代を過ごした東京の空にいたっては見上げたこともないとい
            「空」の見え方の違いに着目した都市の比較であり、彼の3つの都市に対す
う。同じもののはずである、
る印象がはっきりわかる部分である。
                          「現在」
 またこの章では、小説全体を流れるテーマである「過去」     「未来」のうち、
                             「再生」      「過去」と
「再生」について、登場人物と都市とを重ね合わせて表現されている。阿形順正の職業は「過去」の名
画を「再生」する修復士であり、彼は「過去」の恋人が忘れられず、その恋人と10年後にフィレンツ
ェのドゥオモで再会するという約束を今も覚えている。その約束の地フィレンツェは 15,16 世紀のル
     「再生」を意味する)発祥の地であったのだが、今は「過去」の遺産に生きる古都として位
ネッサンス(
        「過去」に縛られる男と「過去」に縛られる都。かつて「再生」の起こった街である
置付けられている。
フィレンツェで、自分の「再生」を願う主人公。この非常に似た 2 者の構図が鮮明に描き出されている。
 第三章では、この構図に「未来」という要素が付け加えられる。ドゥオモを見上げる主人公に対し、
                           「思い出ではなく約束がある」と答える。
ドゥオモに思い出があるのかと彼の師が尋ねるが、主人公は、
               「約束は未来だわ。思い出は過去。
それを受けて彼の師ジョバンナは、              」といい、中世から新しい建物を

                       78
                                  「未来」がある主人公は幸
建てず、歴史を守るために「未来」を犠牲にしてきたフィレンツェとは違い、
福だと語る。これにより、それまで「過去」や「過去」のものを「再生」することばかりにとらわれて
    「未来」という新たな概念が付け加わり、
きた彼に、                 「未来」への道を閉ざされた都市との相違が見え始
める。
第二章、第三章の描写の中に、もうひとつ興味深い部分がある。それは自動車に関する表現である。
主人公がアルノ川河畔を歩くとき、第二章では「小型の自動車が近づいてきてはエンジン音を響かせて
走り去って」行き、第三章では「小型自動車が猛スピードですぐ脇を横切っていった」とある。これを
主人公は「この街の車はいつも速度に慎みがなかった。過去だらけの街で現代と向かい合うことができ
るのが唯一自動車なのかもしれなかった」と受け取っている。確かに、歴史的景観を守るために建物の
改修や新築は法律で規制できても、                 (一観光客としては中世の城
                自動車の使用禁止は聞いたことがない。
壁に囲まれたローテンブルクの街に自動車が乗り入れている瞬間や、スイスにある古びたハイジの山小
屋の裏に自動車が停めてあるのを見たときは、そのギャップにショックを受けたのだが、それはこの場
所にはこうあってほしいという観光客のエゴであって、そこで生活する人々には自動車は生活に不可欠
        )
なものであろう。「過去」に生きる街で「現在」の象徴の一つとしてとりあげられた自動車に、主人公
はある種の憧れさえ感じているように思う。自分もその車のようにスピードを出して「現在」を走るこ
とができればいいのに、という彼の胸中が察せられる場面である。
       「過去」の街フィレンツェから、
第五章の舞台は、             「過去」から「未来」へ向かう街ミラノへと移る。
主人公は、現在の恋人の父を探すために、恋人とともにミラノへ向かう。彼はミラノ駅のホームに降り
たった瞬間、その街に「イタリアというよりはヨーロッパ的な陰鬱な印象」を抱き、ミラノの人々の顔
                        「近代的な建物が窓を塞ぐように建って」いる風
に、東京の人々に似た険しさを感じとる。その他にも、
     「人工的な近代建築の穴蔵」
景に幻滅し、            であるホテルの部屋から見える「四方をビルに囲まれたミラノ
の小さな夜空」に不満をもらす。ミラノには確かに遺跡や歴史的遺産も多く存在するが、近代建築のビ
                  「過去」
ルもそれに混じりあうように建っている。   に彩られたフィレンツェにどっぷりと浸って生きてい
              「過去」の建物を蝕んでいく現代的な建物を不快に感じたのだろう。自
る主人公は、ミラノで目にする、
分の大切な「過去」が侵食されていく姿を無意識のうちに重ね合わせていたのかもしれない。
第六章になり、主人公はフィレンツェに戻ってくる。再び「過去」の名画に囲まれて一日を過ごせる
自身の仕事場の、安らいだ雰囲気が、この章の冒頭に描写されている。だがその工房が閉鎖されること
が決まり、主人公はここで東京へ戻ることを決意する。彼がここで「過去」の街フィレンツェを離れ東
                          「未来」へ向けて少し前進したかに見える。
京へと戻ることは、自分自身と今の職業とを見つめなおし、
だがそれは建前に過ぎず、彼の心の奥底には、約束を交わした「過去」の恋人の住む東京に帰れば、偶
然彼女に会えるかもしれないという本音が存在しているのである。この時点でもまだ、東京の「過去」
の部分に彼はしがみついているのである。
東京の家の窓からの景色を、                    「平坦な印象の、
             帰国した主人公は第七章でこう描写している。       箱庭的な
距離感のない世界」だと。これは、彼が以前住んでおり今回戻ってきたアパートが、高層ビルの林立す
る都心ではなく、梅ヶ丘にあることとも関係するが、それ以上に、彼の心理状態をうまく表現している
ように思える。東京に戻ってきたものの、彼は仕事を探す気にもなれず、毎日無気力に暮らしている。
そんな彼のメリハリのない、行動範囲もかなり狭いといえる生活が、この東京の風景描写に現れている
のではないか。
                     「過去」の恋人との思い出の場所だ。東京という街自
その東京で、彼は母校の成城大学へと足を運ぶ。
身が「未来へと傾斜」していることは理解しており、自分も「未来」のために自分を見つめなおすため

                      79
に東京に来たというのに、彼はやはり、東京の中の思い出の詰まった「過去」の部分しか見ようとはし
ない。そんな中、イタリアから「現在」の恋人が彼を追いかけてきたため、しょうがなく二人は同棲す
         「過去」の思い出の残る東京で、
ることになるのだが、             「現在」の恋人と暮らすことは、彼にとって耐え
                            「現在」の恋人に別れを告げる。その後
難く、これ以上自分の本心に背くことができないと感じた彼は、
ひょんなことから「過去」の恋人が実は今ミラノに住んでいることを知り、彼女からと思われる無言電
                   「過去」の彼女からの(無言電話なので断定はできないもの
話を彼は受け取る。約束の日が近づく中で、
の)初めてのアプローチを受けた彼の心はフィレンツェに向き、恩師ジョバンナの自殺という一報をき
っかけに、彼はフィレンツェに戻ることを決意する。
                                 フィレンツェに戻ってきて、
 東京にいたときには師の自殺の理由を理解できなかった主人公であるが、
その都市をもう一度歩いてみることで、彼はその自殺の理由に気づく。新しい建物が建つことが許され
る東京とは違い、                          「過去」
        フィレンツェでは外観を変化させることは規制されている。   の街に住むことを
選択した人々は、ただ忍耐強くそこでの変化のない生活に耐えねばならない。彼らが何らかの変化を求
                                          「死」を
めようとするとき、そのひとつの選択は「死」である。ジョバンナも、その変化を望んだため、
選んでしまったのではないかと、彼は考える。文中にははっきり書かれてはいないが、彼はこれを自分
                             「過去」に守られるように生きていく
自身と重ね合わせたはずだ。いつまでも「過去」に縛られたまま、
ことの危険性にはっと気づいたのではないだろうか。今まで、穏やかで安らぎのある「過去」の街とし
て描かれてきたフィレンツェに「死」という概念が付け加えられた瞬間である。
             フィレンツェの街や自分の今までのそこでの生活と、
 この危険性に気づいた彼は、                      距離をとり始める。
約束の日までの1ヶ月、彼は駅近くの安宿横丁に宿をとる。それまで泊まっていた、フィレンツェの友
人とつながりのあるホテルを出て、毎日見ず知らずの観光客とばかり顔をあわせる安宿へ。この宿の場
所の変化は、以前の友人関係を断ち切り、フィレンツェの内部の人間から、外部の人間になろうという
意志の表れではないだろうか。その結果彼は、もしドゥオモの上で「過去」の恋人との再会が果たせな
   「過去」 「過去」
ければ、   は    として整理し、新たな地で自分をリセットしてやり直そうと、覚悟を決める。
        「過去」の街フィレンツェを去り、
ようやく彼の中で、              「過去」に縛られる男から脱却しようという決意
が生まれた場面である。
 約束の日、結局、主人公は「過去」の恋人と再会することはできた。だが2人の関係を修復すること
はできずに恋人はミラノへ去り、彼には虚無感だけが残る。ここで彼がフィレンツェを描写した言葉が
    「この街の役目は終わったのだ。
興味深い。              そう思うと何もかもが違って見えた。見慣れた街並みも人々
                                   」普通「ポストカード」
も。すべて、そこら辺で売られているポストカードの中のフィレンツェみたい。
は観光客、                      また
     つまりその都市の外部の人間が買うものであり、 「ポストカード」は購入者にとって「過
去」の思い出になるものである。主人公はこの言葉を使うことで、自分がもうフィレンツェの外部の人
間であるような感覚と、今まで自分が「未来」の約束を信じてこの都市で生きていたという事実が一瞬
にして現実味を失って、遠い「過去」になってしまったという感覚を表現しているのだろう。この時点
 「過去」の街フィレンツェと「過去」に生きる主人公との強固な結びつきはなくなってしまう。そし
で、
て主人公は、今まで自分が「過去」に囚われすぎ、それに帰属する約束という「未来」に期待しすぎて
いたこと、そのせいで「現在」を無視していたことを後悔する。
 「現在」と向き合う覚悟のできた主人公は、恋人を追いかけて、ミラノ行きへのユーロスターに乗り
込む。やっと彼は「過去」の呪縛から解き放たれ、自分と似たもの同士であった「過去」の街フィレン
     「未来」へ進んでいる街ミラノで、
ツェを去り、              「未来」へとつながる「現在」を生きようとする。


                      80
3.この本における、主人公と都市の関係とその変化(図解編)
 文章だけではこの都市と主人公との構図を説明するのに限界があると感じ、次頁に図解を補った。




4.補足(擬人化と擬都市(?)化)
                                「現在」
この物語は上にまとめたように、都市と人間という二つの要素に「過去」  「未来」という時間
軸の中で関係を持たせ、その関係の変化を巧みに描いている。だがそのような、時間軸を経由した間接
的な方法ではなく、都市の構成物とある人間とを直接結び付けて表現する手法も使われている。少し長
いが引用すると、
「ぼくの広場。かつてそう呼んで愛した女性がいた。周囲とうまく溶け合うことができず、生きにく
そうにしていたぼくにとって、彼女はまるで路地の突き当たりにある、突然視界の開けた都会の広場の
ような涼しい存在だった。用もないのにぼくは、時間を持て余した老人たちが好んでそうするように、
        」
毎日そこを訪ねた。「広場を失った後、人生の終焉を待つ最晩年の老人のように、ぼくはもう散歩に出
かけることもなくなり、再び孤独の部屋の窓辺で降り注ぐ陽の光や、流れる雲だけをぼんやりと見上げ
                             」
るようになった。心に鍵を掛け、誰とも会わないようになるのだ。
先にあげた間接的な手法は、都市を擬人化するという方向だが、この後者の手法は人間の擬都市化と
      よくある擬人化の方だけではなく、
でも言おうか。              逆のベクトルも組み合わせて使用しているのである。
これにより都市と人間という二つの要素が、この小説内で重要な意味をもってつながっていることが双
方向から実証され、鮮明になる。斬新な組み合わせだと感じた。


5.終わりに
 この小説をはじめて読んだときには、確かにイタリアの都市の描写に興味をそそられたが、ここま
で鮮明に3つの都市と主人公が論理だった関係性を持っていることが分かるほど、深くは読み込んでい
なかった。今回このレポートを書くにあたり、いつもとは違う「都市」の表現のされ方と言う、新たな

                      81
観点からもう一度この小説を読み返すことができ、より深く理解することができて嬉しく思った。


参考文献
           『冷静と情熱のあいだ Blu』角川文庫
小説:辻仁成(2001)
            『冷静と情熱のあいだ Rosso』角川文庫
   江国香織(2001)
  (2001)
映画:    『冷静と情熱のあいだ』フジテレビジョン 角川書店 東宝




                       82
                    幻想の都市空間



                                    6201171   伊藤ゆり子


<香港からブエノスアイレスへ>


ウォン・カーウァイは、1988年に『いますぐ抱きしめたい』でデビューしてから、常に我々に衝撃
を与えるような話題作を輩出し続けている。彼はその大胆な編集、音楽の効果的な使用法、美しい映像
などによって、解釈は難しいとされながらも、今や香港のみならずアジアを代表する鬼才の監督として
注目を浴びている存在だ。
                                     。邦題は『ブエノス
そんな彼が1997年、ある一つの作品を世に送り出した。タイトルは「春光乍洩」
                         。
アイレス』である(便宜上、これからは邦題で表記する)
これまでに何度となく喧嘩別れを繰り返し、それと同じ数だけよりを戻してきた主人公のファイ(トニ
ー・レオン)とウィン(レスリー・チャン)は、ある喧嘩の後ほんとうに「やり直す」ために、香港か
ら遠く離れたアルゼンチンへ旅行することにする。イグアスの滝を目指すふたりであったが、道中で再
び喧嘩して別れる。ブエノスアイレスで二人は再会して共同生活を始めるが、すれ違いの末またしても
別れることになる。
物語のストーリーはいたってシンプルだ。二人のゲイカップルが喧嘩と仲直りをただ延々繰り返すだけ
である。舞台は 96 年の香港からブエノスアイレスへ旅をするという設定にもかかわらず、香港に暮ら
す人々の民族性の差異であるとか、香港がイギリスから中国に返還される直前の国内事情であるとかが
語られることはない。あるといえばせいぜい、映画の後半でファイが一晩だけ立ち寄った台北のホテル
のテレビに映し出される、中国の実力者で、経済自由化を推進した鄧小平が死去したと伝えるニュース
の映像くらいなものだ。
この『ブエノスアイレス』は一見、そのような香港の内情とはお構いなしの非社会的ともいえる恋愛を
描いた物語なのだが、そこにカーウァイ独特の映像や小道具、編集の力などが加わって、単なるラブ・
ストーリー以上の何かを私たちに提示してくれる。
そして何より、これまでずっと香港を拠点に映画撮影をしていたウォン・カーウァイが次の舞台に選ん
だ、ブエノスアイレスという都市が映画の中で重要な役割を果たしていることは間違いない。カーウァ
イにとってこの南米の大都市が何を意味するのか考察することで、この『ブエノスアイレス』という映
画にこめられた彼の意図に少しは近づけるかもしれない。


<ブエノスアイレスを選んだカーウァイの意図>


まず、なぜカーウァイがブエノスアイレスを撮影の地に選んだか考えてみなくてはならない。彼がガル
シア・マルケスやマヌエル・プイグなどのラテンアメリカ文学に心酔していた事は有名な話であるが、
それだけがこの撮影チームの冒険の理由ではないだろう。
なぜ、アルゼンチンを撮影の舞台に選んだのか聞かれると、彼は次のように答えている。
「何よりも我々には“距離”      『天使の涙』
             が必要だった。     を撮り終えた後、新しい何かを模索していた我々
は、これまで一度も足を踏み入れたことのない、勝手のわからない地球の真裏の土地へ行き、時間や空

                         83
間の感覚を劇的に変えることが必要だったのです」
つまり、香港から最も遠く離れた場所でやり直してみることが彼にとって大きな意味を持っているとい
うわけだが、インタビューのたびにその言動が変わるとも言われるカーウァイのことであるから、この
                      映画にもはっきりとした説明はない。
言葉だけでは彼の本心が分かったとは言いがたい。               ただファイや、
彼がブエノスアイレスの中華料理店で知り合うチャンという若い台湾人がいうように、ただ世界の果て
が見たかった、香港とはおそらく正反対の性格をもつであろう「外」に旅立ちたかったということなの
だろう。
<反転する「内」と「外」>


この『ブエノスアイレス』という作品にかぎらず、ウォン・カーウァイの作品では、常に「外」の存在
        『いますぐ抱きしめたい』の田舎と都会の関係も「内」と「外」に振り分けられるだ
が意識されている。
   『欲望の翼』
ろうし、                           (1994)のカリフォルニア
        (1990)ではフィリピン、そして『恋する惑星』
などが主人公たちの位置から見た「外」として描かれている。
            。ここでは始め「外」であったブエノスアイレスはそこにたどり着いた主人
そして『ブエノスアイレス』
公のファイの中でいつしか「内」へと変化し、むしろ自分の故郷である香港が「外」として認識される
ようになる。
このように「内」と「外」が常に対置されていることや、主人公は必ず「外」を目指していることを見
ると、そこにはカーウァイも含めた香港に暮らす人々の自我の揺らぎというものが映し出されているよ
うな気がしてならない。
彼らの共有する不安定なアイデンティティーは、カーウァイの生い立ちを見ても想像できる。彼は五歳
の時に両親とともに上海から香港へ移住している。このような移住は香港に住む人々の中では全く珍し
いことではない。カーウァイを含めた移住者は、共通して常に自分たちのよりどころにどこか懐疑を抱
いている。今自分がいる場所というのは、自らの生まれた故郷でもなく、そこにこれからもずっととど
まり続けるであろうという確信があるわけでもなく、常に自分は何らかの中継地点にいるという認識を
もっているのではないだろうか。


<中継地点>


                旅をしている最中はそこに自分が現に存在しているのであるから、
旅して訪れる土地は幻想と似ている。
それが現実であることに疑いを持つことはありえない。しかし一度その空間から抜け出してしまうと、
一体自分は本当にその場所にいたのか、自信がもてなくなる。生活者としてではなく旅行者として存在
しているかぎり、視線は常に、自分がやがては帰還してゆく一点へと向いているからである。旅の目的
地といっても、それは自分にとって帰るべき場所へと続く道の、幻想を含んだ通過地点にしか過ぎない
のだ。
   ・
ウォン カーウァイは、まさにその中継地点ともなるべき都市として、ブエノスアイレスを描いている。
                   「やり直すために」
主人公で恋人同士であるファイとウィンは、        ブエノスアイレスへイグアスの滝を見よ
うとやってくる。しかし結局二人は別れ、ファイは最終的に一人で香港へ帰ってくる。カーウァイの描
こうとしたブエノスアイレスは、単なる埋め合わせとしての都市空間ではない。ファイのこの世界への
認識はそこに来たことで明らかに変化している。自分が本当に帰属すべき場所を模索するための、ブエ
ノスアイレスという中継地点は、彼にとって不可欠なものだったのである。

                      84
                           「香港人」
そしてそのような役割を果たすブエノスアイレスの都市像に、    のアイデンティティーを重ね合
わせることは出来ないだろうか。自分は何者なのか、どこに帰属すべきであるのか、葛藤を繰り返し、
答えを探し続ける旅行者のような存在として生きる香港の人々のイメージが『ブエノスアイレス』から
浮かび上がってくるような気がする。


<「外」の不在>


私はブエノスアイレスが中継地点であるといったが、それは彼らがいつか「外」にたどり着けるという
ことを意味しているのだろうか。
映画の中で主人公は「やり直す」つもりで「外」であるブエノスアイレスの地に旅立つわけだが、この
試みはファイと恋人のウィンにとって失敗に終わる。なぜなら、カーウァイの作品の中に「外」など実
在しないからだ。ブエノスアイレスで「やり直す」どころか、香港で既に体験済みの別れを改めて反復
するだけである。彼の映画にとって「外」は決して明確な目的地ではありえず、旅人たちが道に迷うた
            ブエノスアイレスで一度は別れた二人であったが、
めの口実でしかありえない。                     やがて二人は再会する。
香港とは正反対の、全く異質とおもわれた南米の大地での再会は、ファイの中に「アルゼンチンも結局
狭い国だった」という諦めにも似た感情を呼び起こす。だが、ウィンと再び別れた後、ファイの中で「内」
と「外」の位置が逆転する。ブエノスアイレスで彼は「地球の裏側」にある香港に対して強い思いを寄
せるようになる。もはや「外」は香港を離れる口実ではなくなり、逆に故郷である香港こそが、遠く離
れた「外」としてファイの中で意識されるようになるのだ。
             自分が帰る場所などない。
この世界のどこまで行っても、          それがたとえ地球の裏側でも同じことである、
             (もう一度繰り返すようだが)
ということを認識するために、             ブエノスアイレスは通らなければならない
中継地点だった。ウォン・カーウァイの作品では、繰り返し「外」を目指して旅に出る人々が描かれる。
だが、辛い現状を打破するために「外」を目指しても、それは存在しない。カーウァイはこの世界には
                                    『ブエノスアイレス』
「外」なんて存在しないことを肯定して生きるように促しているようにも見える。
のラストでファイが到達したのは、この世界は一つであり、だからこそ、その気になりさえすればいつ
でも会いたい相手に会うことができるという前向きな認識である。


<生活者と旅行者>


次にここで、この映画における三人の登場人物がどのようにブエノスアイレスという都市にかかわって
いるのか見てみようと思う。
ファイはブエノスアイレスという異国の地にいても、一人になれば、仕事を探し、自分が帰る場所を作
る。つまり彼は生活者として故郷である香港の真裏に部屋を借り、自分で料理をし、香港と何ら変わり
のない生活を送っている。
ウィンは同じ所に長く留まることができない人間で、あちらこちらで出会った人間に依存して生きてい
る。そしてそのような生活に疲れ果て孤独を感じると、ファイの元へと帰ってくる。
そんな彼らにとって、始め物語の舞台は香港の延長線上にあり、それがブエノアイレスである必要性は
全く無い。映画の冒頭ではイグアスの滝が映し出されるが、それは最後の方でファイがそこを訪れるま
では、電気スタンドの光りに浮かび上がるだけの、幻影でしかないのである。しかし、その間に彼らの
間には今までのようにただ別れるのとは違った、ある変化がおきている。

                       85
それは途中から登場するチャンという台湾人の若者の存在による。彼は、一見するとこの物語の中でフ
ァイに影響を与えているようには見えない。ファイとチャンの関係はそこまで深いものにはならない。
何度か一緒に飲んだりはするが、突っ込んだ話を互いにするわけでもない。一定の距離を保った付き合
いだ。しかし、それでもファイはチャンに惹かれていく。チャンはファイとは異なり、帰る場所をブエ
ノスアイレスの中には全く求めていない、旅行者である。常に次の目的地へと視線を向けているチャン
にファイは自分の思いを伝えることはできない。しかし彼を想い続けることが、確実にファイを変えて
いく。チャンが去った後、ファイは生活者としてではなく、次第に旅行者としての視点で自分や周囲を
見るようになる。まず彼は、生活者としては今まで感じたことのない孤独に苦しむことになる。深夜の
ブエノスアイレスの街を、刹那的な出会いを求めてさまよい歩く。しかしそのような孤独と同時に得た
ものもある。彼は、地球の裏側、自分の足元に存在する香港を身近に感じるようになるのだ。それまで
も彼はブエノスアイレスの地で、香港にいたときと変わりのない生活を送ってきたが、それはただ、無
意識の習慣の上に成り立っているだけのものなのである。だが、いまや彼は旅行者としてあらためて香
港を再発見するのだ。もともと彼は香港で父親の友人が経営する会社の金を使い込み、逃げるようにブ
エノスアイレスにやってきた。ファイは自分が迷惑をかけたままであった父親に謝ろうとする。
                        「やり直そう」
彼はクリスマスカードにかえて父親に長い手紙を書き、      という。これまでウィンの口から
その言葉が出てくるのを待っていたファイは、それを初めて自分から使うようになる。そして彼はイグ
アスの滝に向かう。それは生活者としての幻想が、旅行者としての現実へと変化したことを意味する。
もう一人の主人公であるウィンはどうであろうか。ウィンはファイが去った後のアパートをかり、よう
やく生活者となり、その生活者としての孤独を初めて味わう。そこでウィンが見つめる電気スタンドに
映し出された幻想の滝と、ファイが見つめる現実の滝は、香港を喪失したままの者と、発見した者との
違いを象徴している。


<終わりに>


我々は、未だ訪れたことのない都市の映像に接すると、その映像によって明らかにされたほんの一部分
から都市全体のイメージを膨らませていく。
ウォン・カーウァイの描くブエノスアイレスの都市風景では、そこに留まる限り人は皆孤独である。し
かしその地での人との接触によって、そこに埋もれたままの者、自分の次の目的地を見つけてブエノス
アイレスを抜け出してゆく者など、               『ブエノスアイレス』
                さまざまな化学反応を引き起こす。         の映像が捉
える人の孤独と別離、そして喪失など、消滅していくような、はかない幻想を含んだ断片的な空間や場
所の映像のまとまりが、私たちの脳裏にブエノスアイレスの都市像として投影される。そしてそれは、
先にも述べたように、どこか別のところにある次の目的地へと目を向けさせる役割を果たしている。旅
の終わりは存在しないが、少なくとも旅を続けることで何かを獲得し、人は成長できる。
この作品でウォン・カーウァイは、拠りどころが不確定な、自分を含めた香港の人々のアイデンティテ
ィーをブエノスアイレスという地球の裏側で表現して見せたのではないだろうか。
あるいはさらにその不確実なアイデンティティーは、現在では香港に住む人のみならず、我々も含め世
界中の人々も共有するようになっていると言っていいかもしれない。グローバリゼーションなどという
言葉が叫ばれて長いことたっているが、そんな中で人々は一体感を得るどころか、あらゆる場所を行き
来し、むしろ故郷が複数に引き裂かれたような感情を持つ人も多いはずだ。このような問題を香港に暮
らす人々だけのものと断定するには無理がある。

                         86
だが、そのような複雑な状況の中で生きる人間たちを、カーウァイは必ずしも否定的に捉えているので
                   「会いたいと思えば、いつでも会える」という楽観的な言葉
はない。それは映画の最後にファイが語る、
に表れているような気がする。目的地に終わりがないからこそ、自分はこれからどのようにでも旅立っ
てゆける。カーウァイ自身もこの映画によって、自分が中継地点にいることを再確認し、これから自分
がどんな目的地へ向かおうかと思いを巡らせたに違いない。




参考映像資料:
           (原題:春光乍洩 英題:Happy Together)監督 王家衛 1997
映画『ブエノスアイレス』


参考文献:
『ウォン・カーウァイ』キネマ旬報社 1996

『ウォン・カーウァイ-期待の映像作家シリーズ-』小倉エージ キネマ旬報社 2001




                           87
 『池袋という都市と群集』
                  6201261   欧米第一過程ドイツ語専攻 小貝敦史


 電車が都市に飲み込まれていく。駅は現代の都市の中心となっていることが多い。大量の人間が箱の
中から排出され、そしてまた箱の中へ押し戻されていく。都市はこの作業を一日に何度も続けることに
よって、自分の中に存在する人間を次々と変化させていく。ルイス・マンフォードは 1961 年に『歴史
の都市、明日の都市』の中で「ほどけたリボンのような舗道からなる巨大な都市」という表現を用いた
が、現代の都市では駅を中心に道路や線路のリボンが広げられ、地中にまで入り込んで複雑に絡み合っ
ている。
 ここでは人間の歩みが移動手段としての中心となり、車という存在はその影を潜める。それらは申し
訳なさそうに人間たちの前を通り過ぎ、都市の外に出て行かないものは地下に吸い込まれ、または上に
積み上げられていき、その動きを停止するのみである。人間たちは太いリボンや細いリボンの上を縦横
無尽にその歩みを進めていく。                      「群集」
              ここで存在する無数の人間は個の集まりではなく、   として表現さ
れる。お互いが高密度に隣接しあいすれ違っているにもかかわらず、それぞれの個が意識されることは
ない、不思議な距離感を内包した群集である。建物の中に入るとき、外の群集と別れを告げたときの一
                   より密度を増した小さな群集へのある種の緊張感を味わう。
種の安堵感とその中に存在する壁で囲まれ、
そしてそこからまた外へ出たときに、相変わらず目の前の通りを行き交う群集を見て、なんの違和感も
なくそこへ交わっていくことができる。このことは、群集を構成する個々の人間の違いが問題となるこ
とはなく、ただ群集というまとまりが存在し続けてさえいれば日常が存続し続けるということを示して
いる。さらに、群集の構成員同士はすれ違うお互いの顔を凝視してはいけないという暗黙のルールを持
ち、互いに無関心であることを示し続ける。さらに、都市の中で人はその役割を自在に変化させていく。
店の中で明るく接客をしていたものも、笑顔をふりまきながら通りでティッシュやチラシを配っていた
ものも、ひとたびその役割を終えると無表情な仮面をかぶり、群集の中に溶け込んでいく。群集に与え
られる役割などはほとんど存在せず、それぞれの目的に応じて都市の中を闊歩するのみである。
 四方八方に張り巡らされた線路がここで交差し、いろいろなところから人間が集められてくる。しか
し、それぞれの人間がそれぞれの土地で培ってきた経験などがこの都市の様子を大きく変えていくよう
なことは起こらない。都市の大まかな枠組みや雰囲気は確立されていて、一朝一夕で変貌するようなも
のではない。現代の都市には不気味な雰囲気が存在している。都市の有名なスポットは雑誌やテレビで
取り上げられる。池袋もその例外ではない。その有名なところへ実際に足を運んで、自らの目でその記
事なり映像なりの確認をしてくることが、その都市へ行ったことの一つの証明となることも多い。
 外へと繋がる曖昧な境界線付近では人間たちが共に都市のカオスへと消えていく仲間の姿を待ち続け
る。携帯電話を操作し仲間の登場を待ち続ける一人の人間は無表情で、都市に感情を吸い取られてしま
ったかのようにも見える。四角い画面を見つめ、駅の中に目をやり、外の景色を眺め、他人とあった目
をすかさずそらし、何もない地面をボーっと見続け、また四角い画面を見つめ直す無表情な仮面は仲間
の登場で一瞬のうちにして剥ぎ取られる。その表情の変化は端から見ていてとてもおもしろく、それま
での仮面と現在の表情を頭の中で比較してついつい楽しんでしまう。そして、そこには仮面をとってく
れる仲間の登場を待ち続ける他の人間たちが入れ替わり立ち替わり存在し続ける。現代では携帯電話は
必需品となり、都市の中でもそれは効果を最大限発揮する。それがないと個と個はお互いを見つけ出す
のに非常な困難を強いられる。いや、なければないでそれなりの工夫が生まれるのであろうが、現代の
                     ある日それを持ち出すことを忘れただけで不安に陥り、
人間はこのちいさな長方形に完全に頼っていて、

                            88
都市の中では完全に孤独になってしまうのではないだろうかという錯覚さえ感じる。この長方形は群集
の中から個の位置を特定し、報告するための非常に役に立つ存在であるといえる。この通信の「線」は
群集の中から都市の中だけでなく外にも放出され、この線を頼ることで一人の人間は群集の中に埋没す
るという恐怖から解放される。また、最近では携帯で自分のいる位置を容易に知ることができ、目的地
まで誘導してくれるシステムが発達している。個人は鳥瞰図によって図式化された都市の中での自分の
位置を知ることができる。
 駅から一歩でるとそこには巨大な建物がひしめき合い、視界は手前で制限される。果てしなく続くは
ずの大地はコンクリートの塊で分断され、地平線などが見えるはずもない。リボンが広げられたという
よりは、塊の隙間をリボンが伸びていくという方がふさわしい様子である。大きさや色かたちの違う塊
は地上にも地下にも伸びていて、それらは空を隠し、お互いを牽制しあいながら自分たちの下を往来す
             塊を彩る鮮やかな文字や絵は駅から次々とはき出される人間を引き寄せ、
る人間を上から見つめている。
それぞれの内部に吸収しようとしている。文字の大きさやカラフルなデザイン、奇抜なレイアウトやラ
イトアップなど、人間たちの目という目がそれらに盛んに注がれていく。しかしこれらの多くはどの都
市でも見られるチェーン店であり、特有なものは限られている。そういった店は他の都市で経験した安
心感を求めるたくさんの人間で溢れかえり、その空間の中では池袋という独自性を感じることはできな
い。少なくとも駅周辺の繁華街ではその土地に昔から住む人々を捜すことは容易ではない。あらゆると
ころから吸い寄せられて、その個性も発揮されないようなところである。いや、必要とされていないと
いうべきであろう。多くの人は自らの目的のために外を歩き、目的地である内へと消えていくのみであ
る。ここではそうした目的を果たすことの出来るものがたくさんあるということだけで大きな意味を持
つのである。中心部である駅を背に歩みを進めていくと、塊たちが自らの内部を見せながら近づいてく
る。ここの塊たちは群集をより多く惹きつけるために内と外との境界を曖昧にしている。透明で大きな
ガラス張りで、内部の様子が奥まで見えるようになっている境界線をもつものもあるが、ここではそう
いったガラスでさえ存在せず、内にある商品が境界線を越えて外にはみ出し、その塊の雰囲気を外へと
放出しているものが目立つ。その他にも店員が境界線付近に立って呼び込みをするものや、中の様子を
十二分に感じさせる写真や手の込んだメニューを出すものなど、それぞれの手の込んだ工夫が都市を明
るくし、群集を刺激する。
 駅には数多くの「出口」という穴がつくられていて、さまざまなところから都市へと繋がり、また、
                        最近では駅の中にまで都市が浸透してきている。
さまざまなところから駅へと戻っていくことが出来る。
駅は箱への乗り換えという意味だけでなく、外の世界と非常に似通った姿をしている。池袋駅では、駅
から一歩も外へ出ることもなく、東武や西武といった大型百貨店に行くことができる。地下2階、地上
9 階にも及ぶこれらのデパートの中でも、外の都市と類似した「都市」が展開されている。東武デパー
トでは一番街、二番街などと同じフロアであってもニューヨークのごとくこまかく振分けがされていて
                      、
(実際この振分けがなければ迷うことは必須だが) 端から端へ行くのにもかなりの時間を要する。西武
デパートの方もワンフロアの広さは膨大で、食品館や書籍館などと縦割りで構成されている。ここでは
連絡通路がないフロアが多数存在するため、横の移動が非常に複雑で、案内板なしでは安心してショッ
ピングすることもままならず、ここから脱出するにも困難を伴う。この中では整然と広げられたリボン
の両脇にさまざまな種類の店が存在し、あの手この手で客の獲得を目指している。そして外の群集が流
入し、外の世界と同じような光景が繰り広げられている。少し違うのは同じ系統の店が同じフロアやス
ペースに割り振られ、互いに密集していることから生じる、人間の年齢や性別、雰囲気の違いである。
さらには四方が壁に囲まれているため、それぞれの場所で違った匂いを発していることに気がつく。こ

                      89
の手のデパートの一階はたいてい女性向けの化粧品売り場となっていて、何種類もの香水や化粧品が混
ざった OL の匂いが漂う。中階層は紳士向けの店が並ぶ。人の数も下に比べると少なく、落ち着いた雰
囲気の匂いがかすかに感じられる。書籍売り場ではさまざまな種類の本が整然と分野ごとに分けられて
いて、新しい本の匂いがワクワクする気持ちを沸き立たせる。大型のエレベーターは何人もの人間を乗
 あっという間にフロアとフロアの移動を完了させる。
せ、                      これはまさに電車が垂直に伸びたものである。
このように、ここの大型百貨店は人間や物財の配置、移動のシステムを整序し整頓してかたちづくられ
た都市の縮小版であり、わかりやすく配置されたものでもあるといえる。なぜなら外の都市の中ではど
のような店がどこにあるのかということを知るには、多くの場合自分の足で探す必要性が生じる。大き
な看板が見えるものはまだしも、細かい店は自分で探し、記憶していくことが求められるからである。
都市は訪れるたびに新発見があり、それを蓄積させることによって個人の都市像が形成されていく。
 非日常的で誰もが不快に思えることが起きたとき、それまで互いに無関心だった群集同士は目に見え
ない強力な結束力を作り上げる。それは誰も予想しない中で起きるものだが、非日常が突如として作り
上げる仮面同士の結びつきは、奇妙で端から見ていると非常にこそばゆいものである。足をとめ、動き
をとめ、同じ話題を共有し都市の中での一体感を作り上げる。そしてその出来事が終了すると元の仮面
に戻り、その余韻に浸りながらもやがては自分の興味関心の世界へと戻っていく。実はこのことは都市
に向かう箱の中から起きていることであり、その中では予想される人間同士の会話以外おきないのが日
常だ。お互いがどこからどこまで行くのかなどということは全く問題にならない。気になることといえ
ば、自分が座りたい席を利用している客がどこで消えてくれるかということぐらいであろう。
   ここではさまざまな音が聞えてくる。
 また、               群集が発する話し声や歩みの音が大多数のはずなのだが、
実際にはその群集を惹きつけようとする音が否応なしに、そして大音量で割り込んでくる。群集の中に
紛れ込んだ店員が発する大声やスピーカーから繰り返される同じような音楽は、群集が続ける歩みを止
めさせることに躍起になっている。また、大型ビジョンに映し出された映像は当然のように休むことな
く流され続け、それはもはや断片的にしか人々の記憶に残らない。いや、始めからそのことは承知の上
で、むしろ開き直って一方的に群集の頭上に情報を注ぎ続ける。             (その多
                             さまざまな音を一度に耳にし、
くは不必要なものであるが)必要なものと不必要なものを選別していくことが求められている。
 混沌とした都市の中で道に迷うと、非常に心細い。ふと気づくと群集たちの出発点であり、都市の中
心部でもある駅は遠くに離れ、すれ違ってきた塊たちにその姿が隠されてしまう。そこに不慣れなもの
にとってこの試練は辛く、非常に心細いものとなる。一瞬のうちにして群集から引き離され、都市の裏
側に迷い込んだ一人の人間は、出発点である駅を求めて孤独な戦いを始める。
 塊たちが自らの音をなくし、明かりを消し、シャッターで入口を閉ざし、ただの建造物へとその姿を
      群集は次第にその規模を縮小していく。
変えていく頃、                駅へと戻ってきた一人の人間はその穴をくぐり、
曖昧な雰囲気の構内を歩きながら、次第に群集という集団から引き離されていく。個人の頭の中にはそ
の都市での経験が刻まれ、その群集を形成していた一部と同じ箱に乗り、数十分という短い時間の中で
群集は個へとわけられ、箱から振り落とされていく。しかし、都市の中での群集は次の日も、また次の
           群集を構成する個は入れ替わっても、
日も絶え間なく存在する。               群集と都市の関係が変わることはなく、
都市は存在意義を保持し続ける。




                       90
前期レポート     葛飾 〜その歴史と風景〜
欧米第一課程ドイツ語科3年
6201455 大川絵瑠奈


-序- 日本の首都が置かれる東京。しかし一口に東京と言っても、実際は23区、と多数の市町村から
成る世界有数の大都市で、一言では語り尽くせないところがある。今回は、その東京の中でも他とは少
し異質な感じのする“葛飾”に焦点を当て、その歴史から町を読んでいきたいと思う。
ここで私は葛飾が少し異質な感じがすると述べたが、それは悪い意味ではない。葛飾区は隣接する足立
区、墨田区、江戸川区等と共に、東京の中の下町として世間に知られている。ここ20年来の住宅進出
で昔の面影は消えかけてはいるが、現在でも場所によっては民家の間に畑が見られる地区もある。また
東京23区内に数えられるとは言っても自然もわりと多く残っており、数年前までは中川岸にガチョウ
(アヒルかもしれない)が数匹見られるような事もあった。このような状況から、私は、葛飾区が東京と
言うよりは埼玉や、千葉の都市に近いのではないか、と思うことがよくある。ここでいう東京とは私の
イメージの中にある山の手方面の東京を指しているのでそう思うのも無理はないだろうが、そのような
葛飾がどのようにしてできたのか、その歴史を紐解いて行く事によって、この疑問が解消される事を期
待しつつ、話を進めて行きたいと思う。


Ⅰ. 地名の由来
葛飾の歴史を年代順に追う前に、その地名の由来について少し見ておきたい。
葛飾という漢字がこのように統一されたのは江戸時代になってからである。将軍家光時代の寛永16年
(1639年)の検地、または正保元年(1644年)の江戸幕府の改訂図作成の頃よりこの漢字が公式に使
われ始めたようで、それまでは種々雑多な漢字が当てられていた。         「葛餝」
                              万葉集に例を見ると、  、   、
                                           「勝鹿」
     、         「可都思加」などはとても経文のような漢字の当て方に思えるが、そ
「勝牡鹿」「可都思加」等がある。
もそも「かつしか」という地名はどこからきたのであろうか?
この名称の起源には諸説あり、今のところ一致した結論は出ていないが、よく唱えられるのがアイヌ語
起因説と国語本来のところによる解釈であり、また外来語説もある。地名の語源研究にアイヌ語や外来
語に用いられる事は古くからあり、またアイヌの人々が古代関東地方に住んでいたことを考えると関東
の地名にアイヌ語が残っていても不思議ではない。例えば武蔵野市、武蔵国で知られる「むさし」とは
          、つまり「刺草ある処」の義であると言う説があり、また東京の上野や三之輪、
アイヌ語の「モセウシ」
千葉の我孫子、利根川の「とね」等もアイヌ語から来たという説がある。しかし、アイヌ語起源説や外
来語説は国語による解釈が不可能な場合に使うべき手段であり、最初からそれで考えるには危険な節が
ある。
       「下総旧事考」の清宮秀堅氏は、
国語説によれば、             「かつしか」は「葛繁」の意で、この地方が武蔵野に
つづき原野が多く、葛かずらが多く繁茂していたのでこの名が生まれたとした。また「房総万葉地理の
              「万葉集」では葛はカヅラ、クズ、ヅラフジと訓まれているが、これは
研究」の著者、今井福治郎氏は、
いずれも蔓草を指していて、つまり蔓草の生い繁っているの意で、また「飾」はかざる、よそおうの意
味であるから、葛が覆われているところ、すなわち「かつしか」であるとした。後出の「高橋氏文景行
紀」によると、古代のこの地方は確かに蔓草の生い繁った場所であり、この「かつしか」という名称が
この地方の古代景観に由来するというこれらの説は有力であると言える。   「かつしか」
                                 異説に、     はいわゆ

                       91
る「狩り場の方」という意味で、南洋系統の民族によって名付けられたものではないだろうかというも
のがあるが、上の両者の説に比べると確実性が薄れるのでここでは「かつしか」=「葛繁」説をとって
おこうと思う。
さて、葛飾という名称が最も古く現れるのは「高橋氏文景行紀」においてであり、現存する逸文の最初
の成立は養老2年(718年)以前で、その後の改作により今日見るような形になったのは、天平勝宝元
年(749年)5月以降、延暦8年(789年)以前とされている。これは、代々宮内省内膳司に仕えた高橋
氏が、同僚の阿曇氏との軋轢に際して自家の由緒を明らかにする為に朝廷に提出したもので、高橋氏の
先祖が景行天皇の東国巡行に随行した時の記録といわれる。この文献の一節に「葛餝野」という地名が
登場し、この伝承が確かであるとすれば、葛飾という地名は2世紀半ばにはすでに存在していた事とな
る。景行天皇の行幸については日本書紀により詳しく述べられており、そう考えるとこの話も単なる伝
承として安易に考えてはいけないような気がする。
「かつしか」という地名にこれほどの歴史があった事には驚くばかりだが、ではその葛飾は一体どのよ
うな変遷を経て、今日の姿になったのだろうか?次はその歴史を見てみよう。


Ⅱ. 葛飾の歴史
<旧石器・縄文時代> 東京都23区の地形を大別すると、いわゆる武蔵野台地(関東ローム層・洪積層)
                                             (沖積
の東端にある「山の手」と、荒川(隅田川)や利根川(江戸川・旧中川)などの河口にできた「下町」
          「下町」とは別名川の手とも呼ばれ、山の手に対する名称である。現在多くの人
層)の2つにわかれる。
がこの単語に抱くようなイメージは、江戸時代以降の町の様子の反映であると思うが、もともとは低い
                   「下町」低い所にある市街。商人・職人などの多く住んでい
所にある市街と言う意味であった(広辞苑;
る町)。この下町部分は東京低地に含まれ、東京低地とは赤羽から上野公園に至る武蔵野台地の東縁から、
千葉県松戸市から市川市にのびる下総台地西縁に挟まれた沖積地を指す。位置的には関東平野の最南端
にあり、江戸時代までは利根川が流れていたこの地域は、現在でも隅田川、中川、江戸川、荒川放水路、
中川放水路が東京湾に注ぐ全国的にも屈指の河川集中地帯となっている。そして現在の地形が作られた
のが縄文〜弥生時代にかけての事であった。
葛飾は昔海だったと言われるが、元々海だったわけではなく、陸→海→陸という経緯をたどってきたよ
うである。陸から海へ移行したのは縄文時代前期のであった。縄文時代は草創・早・前・中・後・晩期
の6期に区分され、その早期までは、葛飾をはじめとする東京低地は陸であった。人々も住んでいたよ
うである。その後、温暖化に向かい、海水面が上昇し、海岸線が徐々に内陸部へと入り込んできた。こ
れを縄文海進といい、縄文前期(約6000年前)にはピークとなって、関東地方の奥まで入り込み、奥
東京湾を形成した。このため現在でも関東地方の内陸部には縄文時代の貝塚が見られる。前期を過ぎる
と地球環境は寒冷化へと変化し、海水面が低下して、海岸線が引く海退となる。海岸線の後退とともに
河川の上流から土砂の堆積が促され、沖積化が進んだ。この地に再び陸が現れるのは弥生時代になって
からの事である。
<弥生・古墳時代> 約2000年前の弥生時代に現在の葛飾区青戸、柴又あたりが陸化しはじめたよ
うである。弥生時代終わり頃から古墳時代前期頃(3C 末から4C にかけて)には集落が営まれるように
なり、再び葛飾の地に人間の歴史が刻まれるようになった。こここでまた地名の話をすれば、葛飾区の
柴又(嶋俣)、江戸川区の小島・長島、荒川区の三河島などはいずれもこの土地生成時代に発生した地名
であり、当時はまだ陸から少し離れたところにある浮島であったようだ。さらに、江戸を始め、葛飾区
の青戸・奥戸、江東区の亀戸、千葉の松戸や埼玉の杉戸・和戸などの「戸」のつく地名は、その起源を

                       92
古代の利根川、荒川両河口に発し、戸は津が転訛したものと言われ、当時の港(船着き場)であったと推
定する学説もある。なお6世紀後半のものと思われる古墳が、柴又(柴又八幡神社古墳)・青戸(立石・南
蔵院裏古墳)に現在でも残っており、出土された円墳、石槨、人物埴輪は当時の生活を知る重要な手がか
りとなっている。
<奈良・平安時代> 大化の改新後大宝律令が定められ、地方にも中央集権の手が伸びて行ったのがこ
の時代である。中央政府は大宝律令により、地方の政治組織として畿内、七道に分け日本全国を約60
の国に区分し、さらに国・郡・里に行政区画を細分し、それぞれ国司(地方長官)・郡司・里長を置いて
                「葛飾」は奈良時代からある古い地名で、現在の葛飾区を含む江戸
これを治めさせた。前にも触れたが、
川流域の古い地域とされており、下総国葛飾郡に属していた。下総の国府は国府台に設けられ、これに
隣接する葛西方面(葛飾区を含む)もこの国府や国府付近に建てられた国分寺を中心として次第に発展し
て行った。
平安時代以降、仏教は葛飾にも広がり、水元の遍照院、柴又の真勝院、東四つ木の浄光寺等が造られて
いる。この頃葛飾地方は桓武平氏の流れをくみ、後世にまでその勇猛さで名を残す坂東武士の一族であ
る葛西氏などの武士によって支配されていた。当時の様子を書き記した資料はほとんど残されていない
が、奈良東大寺(正倉院)に御物として保存されている「養老5年下総国葛餝郡大嶋郷戸籍」が、8世紀
初めの現葛飾区を中心とする葛飾郡西部低地帯地方の集落の様子を知るのに役に立つだろう。これによ
ると当時、嶋俣里(現在の柴又)・仲村里(奥戸又は水元)・甲和里(小岩)なる集落がこの地方に形成されて
おり、一里には平均44戸の家が立ち並び、人口は400人程度、1戸あたりに9人程度の人々が生活
していたようである。また男女の割合を見てみると、どの里でも男性より女性の割合が多く、甲和里に
いたっては女性が男性の1.5倍近くもいたようだ。なぜこのような形態になっていたかは分からないが、
都市の男女比というものは時代々々の社会状況を調べるにあたって面白い研究材料となるだろう。今回
は触れないでおくが。
<鎌倉・室町時代> 平安期にこの地を支配していた葛西氏の中興の祖であり、一族の中心人物と言わ
れる葛西三郎清重は、鎌倉幕府の有力御家人の1人となり、その後奥州藤原氏を滅ぼした手柄によって
奥州奉行に任じられた。この頃の葛飾地方は、敬神の念に篤い葛西一族によって伊勢神宮、また香取神
社(東水元)に神領として寄進され、葛西御厨(みくりゃ)と呼ばれる荘園になっていた。寄進は敵対する勢
力に対して所領の安全を図る為に行われたが、実際は領主が在地支配を行い、決められた米や銭などを
寄進先に納めていた。葛飾の場合、奥州奉行に任じられて以来、葛西氏の主流は関東の地を去り、奥州
方面を根拠地としているので、下総の葛西と葛西氏との関係も次第に薄れ、わずかにその一族の子孫と
称する者や家臣の一部が、先出の両神社の神官や寺院の僧侶または農民として定着していたのみであっ
たが、葛西の東地は神領地にあり御厨として室町中期まで続いた。この間葛西氏に変わってこの地を支
配していたのは山内上杉氏であった。
15世紀に入ると幕府・上杉氏と鎌倉公方の対立が激化し、複雑な事情の中、関東は応仁元年(1467
年)の応仁の乱よりも早く戦国状態に陥る。山内上杉氏は政治・経済活動の中心として、また軍事的にも
葛西を守備する為に葛西城を築き、家臣の大石石見守を入部させた。後にこの城(というより砦に近い)
は混乱に乗じて関東進出を企てる小田原北条氏(後北条氏)に攻略され、その後も北条氏の元で下総最南
端唯一の橋頭堡として、房総の里見・足利義明軍を打ち破り(第一次国府台の戦い)、長尾影虎(後の上杉
謙信)の一時の占拠にあいながらも、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅ぶま
で、青戸の地で北条の要衝として活躍した。現在葛西城跡と見られるものは残っておらず、全く残念な
限りである。

                        93
<江戸時代> 天正18年(1590年)7月、小田原北条氏の攻略に成功した豊臣秀吉は、これに参加
した徳川家康に論巧行賞として、おもに北条氏の領地だった江戸を中心とする関東6か国の地を、家康
の旧領地である駿河・三河ほか5か国と引き替えに与えた。その後家康は江戸城を居城とし江戸に幕府
を開く事となる。
徳川氏は江戸開府とともに、江戸市街やその周辺の開墾事業を行い、戦国期の動乱ですっかり荒廃して
しまっていた葛飾地方にも開発の手がさしのべられた。その所属も変わり、武蔵国と下総国の国境が古
墨田・墨田川から江戸川に移るのに伴い、武蔵国に編入される事となった。
この頃この地方は葛西領と呼ばれ、そのほとんどが武州同様幕府の直轄領であった。関東の天領の支配
には、関東郡代や代官が置かれ、勘定奉行が統括し、村々には名主・年寄(組頭)・百姓代からなる村方(地
方)3役と5人組が組織され村の支配を行った。
領内を通る水戸佐倉道は、宿場の置かれた新宿(にいじゅく)で水戸道と佐倉道に分かれ、宿場として計
画的につくられた新宿の町には、今でも鍵形に道が曲がった古い町並みが残っている。また水戸道の江
                                            、地
戸川べりには、江戸の東の交通の要所として金町・松戸関所が設けられ、とくに「入り鉄砲に出女」
方から江戸へ運ばれる武器・弾薬類と江戸から地方へ行く婦女子が厳重に取り締まられた。開墾ととも
に新しい村が多数誕生し、葛西領は米と小松菜などの特色ある野菜の生産地となり、大都市江戸を支え
る農村地帯として、また堀切の菖蒲園や柴又の帝釈天など江戸からの気軽な行楽地として発展した。こ
の地は江戸幕府創設当初から将軍の御鷹場にも指定され、幕府の年中行事の1つである「御鷹狩り」が
行われた。鷹狩りの行事は洋の東西を問わず古くから行われたが、中世には尚武の1方法として鷹狩り
に託して領内の民情や敵地の情勢を探る政治的な狙いも加わって、武将の間に広く流行した。家康は武
士の練武とともに、鷹狩りにより地勢を知り民情人心の動向を察知する資料にしたとも言うが、以来幕
末まで代々将軍(5〜7代を除く)によってつづけられた鷹狩りは、しかし、実際には郊外の散策と民情
観察を名目にした遊びとして催されたのが実情のようである。
<明治〜現代> 廃藩置県により東京府となった葛西領はその後南葛飾郡に所属することとなった。明
治22年(1889年)には江戸時代の36村は1町6村に統合され、その5年後には総武線が、続いて
常磐線が開通した。大正時代に入ると農村地帯の葛飾にも製紙や染色の工場が建ち始め、関東大震災後
は都心から人々が移り住み、住宅も増え、今日の住宅・産業都市の第一歩が築かれていった。
昭和7年(1932年)には7町村が合併して東京都葛飾区が誕生。太平洋戦争を経て高度経済成長期に
入ると、これまでの農村のたたずまいは薄れ、人口の過密化、住宅難等の問題を抱える現在の葛飾区が
顔を現しはじめた。
Ⅲ. 結論と感想
序のところで述べた疑問は、こうして葛飾の歴史を見て行く事によって解決されたと思う。葛飾にこれ
ほど長い歴史があることには驚きであった。葛飾区の住民である私自身、母や祖母の昔は田圃しかなか
ったという話を聞いていて、葛飾(取り分け水元)をどこからか突然ぽっと湧いてきた比較的新しい町の
ように考えていた。葛飾区は東京都いうより埼玉や千葉の都市に近い気がすると以前述べたが、今にし
て思えばそれも無理もない事である。そもそも東京都はできてまだ百何十年の若い都市であり、葛飾は
その何百年も前から、武蔵野に続く下総の台地として関東の地に緑深く広がっていたのであるから。し
かし、今回歴史ばかりを見て、葛飾の文化、その他の面に全くと言っていいほど触れなかった事は反省
したい。葛飾はしばしば文学作品にも登場し、その水の豊さ、美しさが描かれている。反面、昔から水
害の多い地域でもあり、葛飾と水の関係は切っても切り離せるものではない。現在では、区内の川もゴ
ミや汚染で美しいとは言えないほどになってしまっているが、場所によってはまだ昔ながらの景観を残

                         94
している所もある。また、葛飾区には数多くの民間伝承とそれにまつわる場所が残っており、この地を
特徴づけるそれらのものを紹介できなかったのも残念だ。自分としては多分に消化不良ぎみになってし
まったレポートではあるが、これまで知らなかった歴史を学ぶ事ができ、疑問も解決したので、1つで
も良しとし、次の一句で締めたいと思う。
      「茶水汲むおくまんだしや松の花」         芭蕉
これは、かの芭蕉が現在の江戸川区江戸川にある熊野神社について詠んだものであるが、この辺りも昔
は葛飾地方に含まれており、この句は広い意味での「葛飾」のイメージを表していると思う。この熊野
神社は旧下今井村の鎮守で「おくまんさま」と呼ばれ、江戸川を上下する舟人の信仰を集めていた。神
                      その為出し杭を打って水の流れを和らげようとした。
社前の江戸川は水流の関係で深い瀬となり急流で、
水は特にきれいで、出し杭のためこなれていたので「おくまんだし」の名がつき、徳川将軍家の茶の湯
に使われたということである。又、野田の醤油の製造を始め、本所、深川、大島あたりでこの水を買っ
て飲んだといわれている。清流をたたえた当時の景勝が目の前に浮かぶようである。
「芭蕉句碑スケッチめぐり・東京編」より




<都立水元公園の菖蒲>



参考文献:編集・発行;東京都葛飾区「増補 葛飾区史 上・下巻」1985年
     入本英太郎「葛飾区の歴史」名著出版、1979年
     編集・発行;葛飾区郷土と天文の博物館「かつしかの地名と歴史」2003年
     編集・発行; 同上 「下町・中世再発見」1993年
     作・画 甲斐謙二「まんが葛飾の歴史」東京都葛飾区、1992年
     安斎俊二「芭蕉句碑スケッチめぐり 東京編」株式会社さきたま出版会、
     1987年




                         95
水曜 2 限 都市空間の文学



                 都市・長崎について


                              ドイツ語専攻 4 年 学籍番号 6201611
                                               津山孔明


序論


 前期の講義では、文学の中や映画などにおいて、都市空間がいかなる象徴性や比喩を背負うか、いか
なる意味の与えられ方をしているかという点について様々な点から講義、発表が行われた。それは文章
であれ映像であれ、おのおのの作品のなかに存在し、それを面白み、深みのあるものにしている重層的
な構造を読み解く試みであったと思う。この試みは勿論難しいところを多分にはらみつつも、大変に面
白みややりがいのあることだと私には思えた。町の特性を見出し、それを作品の文脈の中に当てはめて
みて論理的に解釈を下していくところなど、ちょっとした推理小説を読んでいるような気分になった。
しかし、それをいざ自分でやってみようというのは、なかなか厄介だ。名探偵さながらに作品の構造、
町の構造についての推理を展開するのは、少なくともそれなりの労力と時間をかけねばできることでは
ない。そのことは先刻承知で、今回のレポートにはそれなりの準備期間を置いたつもりだったが、諸事
情が重なりあっという間に時間がなくなってしまった。
 そこで少しでもよく知っている都市を選ぼうと、長崎市を取り上げることにした。しかしそれにも大
きな問題があった。私の出身は長崎県の片隅にある小さな町で、市までは電車で約 1 時間半といったと
ころだ。佐賀との県境になっている山並みから、長崎県全体の中心に位置する内海大村湾までの間に広
がる町なので、自然が非常に豊かである。その代わり、生活には不便なところである。ちょうど『とな
りのトトロ』の舞台になってもおかしくなさそうな、いわゆる田舎である。だから、私は長崎県民であ
るけれども、長崎市民ではない。ほとんど市のことについては知らないのである。そして他県の人が知
っている長崎の姿というのは、ほとんど長崎「市内」の姿なのである。そのために、上京して大学に入
学してから他県出身の人間と話しているときに郷里の話題になり、相手が修学旅行などで長崎市に行っ
たことがある、などという話になると、実は一番困る。向こうとしてはこちらを長崎の地元民として見
ているのであろうが、とんでもない話で、こちらは市内の観光名所の話などされてもほとんど分かりは
しないのである。無論、生まれてから高校卒業まで 18 年も県内で過ごしてきて、市内に全く行く機会
がなかったというのではない。休みのときなどには親が連れて行ってくれることもあったし、長じれば
友達と遊びに行くこともあった。しかしそれはテーマパークや商業施設といったある一ヶ所に行くこと
が目的であって、いわば市内を「点」で見ていたわけである。市内のどこに何があるか、路面電車の路
線はどこを走っているか、などという、市内の「点」を「線」にしてつなぐことは全くしなかった。し
かしそのことを認識したのは、前述したように、大学に入って長崎県を離れてからだった。
 以上のような理由で、今回は、長崎の持つ特質についての議論、あるいは全体像とでもいうべきもの
を構築しようと本稿において試みてみた。またその過程で、いくつか思いついたこともあったので、そ
れも記してみたい。

                       96
本論


 JR 長崎駅を降りるとまず目に付くのは目の前の山と、その麓から頂上までびっしりと建ち並ぶ家々
       長崎市は北から流れる浦上川と、
ではなかろうか。             東から流れる中島川の河口にできた平野に位置する。
西には稲佐山、東には金比羅山があり、両脇から山に挟まれる格好になっているために、住居は山の斜
面沿いに作られている。かつて永井荷風は、長崎を評して「円形劇場の街である」と言ったとされるが、
まさにその通りなのである。河口に広がる長崎港をステージに見立てるならば、南東から南西まで周囲
をぐるりと観客席ならぬ家々でびっしりと埋まった斜面が囲んでいる。実際現在では約 7 割の市民が斜
面に住んでいるとされる。
 市街地としておもに利用されているのは、東部から南東部にかけて広がる、比較的起伏の激しくない
中島川沿いの土地である。もっとも、それでも坂道はとても多く、そして急である。観光スポットとし
て有名なオランダ坂などもここにある。そのためか、自転車に乗っている人を市内ではめったに見かけ
ない。よく各地で都市問題になる駅前などの放置自転車の問題もここでは無縁である。
 さて、現在の長崎の町を、その歴史的な意義からたどっていくと、おおよそ 3 つの区域に分割するこ
とができる。ひとつは市の南東部に広がる山手の町。ここにはよく言われる、長崎の異国情緒をかもし
出すような建物、通りがそこらじゅうにあふれている。たとえば幕末から明治にかけて来日した外国人
がかつて居住していた洋館のうち 9 つが集められたグラバー園、儒教の創始者孔子を祀った孔子廟、日
                    などである。
本最古の木造ゴシック建築の教会大浦天主堂、    海岸沿いに北へと少し足を伸ばせば出島跡、
オランダ商館跡を、北東に行けば中華街を見ることができる。言うなれば、ここは長崎にやってきた外
国人が、長崎の風土をベースに置きながら自国の文化を発展させた街である。長崎の郷土料理で卓袱料
理というのがあるが、これは日本料理、中華料理、オランダ料理の技法、素材が交じり合って生まれた
ものであるという。この街はまさにそのようなイメージの当てはまる街である。
 2つめは市の東側、中島川沿いにかけて広がる寺町、風頭公園を中心とする一帯である。この地域は
小高い丘の上に皓大寺や興福寺といった寺社が並び、閑静な地域である。ここから南西に、つまり山手
の方に向かって歩くと、風頭公園にたどり着く。風頭公園の周辺は幕末期に維新の志士がよく滞在して
いた地域である。そのためにその関連の史跡が多いが、特に多いのは坂本竜馬関連のものである。しか
しこの地域にあるのはそれだけではない。さらに南東へと歩みを進めると、昔からの長崎の一大歓楽街
である思案橋地域にぶつかる。ここには居酒屋から高級料亭まで様々な飲食店が建ち並んでいる。江戸
時代にはここには花街も置かれ、たくさんの客でにぎわったという。なお思案橋の名称は、かつてこの
                    橋の前で行こうか行くまいかと思案する人びとの姿から、
橋が花街への入り口となっていたことによる。
その名前がとられたのであった。もっとも今はその橋もなくなり、記念碑が建つだけとなっているが。
そして思案橋から北を向くと、アーケードを備えた商店街が立ち並ぶグルメとショッピングの街「浜ん
まち」がある。このようにこの地域は世俗から隔たった寺院、遠く歴史の面影を忍ばせる史跡、言うな
れば聖なる場を丘の上に配置していながら、その下にはよく言えば賑やかな庶民の憩いの場が、悪く言
えば猥雑な、人間の様々な欲望のあふれる地域、明らかに俗の領域に区別されるような場が配置されて
いるわけである。パブリック(公)なものとプライベート(私)なものの並列ともいえるかもしれない。
皮肉といえば皮肉な構図ではある。しかし、たとえば江戸時代、全国から三重県の伊勢神宮に参拝する
伊勢参りという一大運動が起こったが、それに参加した人々の行動というのが、参拝前は禁欲的で慎ま
しやかな生活を送るものの、終わってしまえば神宮周辺の町で大宴会を開き、芸者をあげて大騒ぎする
というような極端なものであったらしい。聖と俗はつねに分離されているものではなく、ときには両隣

                       97
にあるものなのだろう。ともかくもこの界隈は長崎という都市の中に歴史的に降り積もった聖と俗が、
その形をあからさまにする区域ではある。
 さて、3つめは長崎駅から浦上川沿いに北に向かい、浦上駅前を通り過ぎてもう少し行ったところに
現れる、緑の割合の多い小高い丘に臨む地域である。この地域は今から 59 年前の昭和 20 年 8 月 9 日午
前 11 時 2 分、文字通りに、影まで燃え尽きた。上空 500 メートルで炸裂したプルトニウム搭載型原子
爆弾「ファットマン」は 3000℃から 4000℃の高熱を放射、180m/秒の爆風をもたらし、爆心地は言う
に及ばず、長崎市内全域を壊滅状態に追いやった。この地域では復興とともに植樹が進められ、現在で
は豊かな緑におおわれている。
 長崎駅から路面電車などで最寄の停留所に降り、道路を渡ると右手には原爆落下中心地に立つ黒御影
石の標柱が重々しい雰囲気を漂わせる原爆公園が見える。一方左手には緑に包まれた、頂上までの階段
のある丘が見える。ここが平和公園である。その頂上には噴水があり、その奥には右手を高く掲げた姿
で有名な平和祈念像が鎮座している。丘を下り、道路を渡って原爆公園を抜け、浦上川にかかった橋を
渡ると階段が姿を現す。ここを登るとそこはまたもや丘の上であり、真っ白で大きな建物が現れる。長
崎原爆資料館である。ここには熱線で溶けてくっついたガラス瓶、人の頭蓋骨が付着したままのヘルメ
                              また、
ットなど惨状を生々しく伝える資料が約900 点展示されている。 平和公園から東へ道なりに進み、
急坂を登れば浦上天主堂が見られる。ここは江戸時代から隠れキリシタンとして度重なる弾圧を耐え抜
き信仰を貫いたカトリック信徒たちが、明治に入って信仰の自由を得た後 30 年の歳月をかけて建設し
た、当時東洋最大級の天主堂であったが、原爆でわずかな側壁を残したまま、無残に崩れ落ちた。現在
のものは昭和 55 年に復元されたものである。
                      クリスチャンたるアメリカ人によって落とされた原爆は、
折しも同天主堂でミサ中であった同じクリスチャンの命を焼き尽くした。なお、この近辺には連合軍捕
虜収容所があり、1000 人からなる捕虜が収容されていたが、全員死亡した。アメリカ軍は非戦闘員であ
る一般の日本人のみならず自軍、友軍の兵士をも焼き殺したわけである。このように、この界隈には死
のイメージが、それも、とてつもない不条理な死のイメージが濃厚に漂っている。当然ながら賑やかな
浜んまちや思案橋の界隈とはうって変わって、おおよそいつも閑静であり、町の色も白、黒、緑を中心
とした、足を踏み入れたものを沈黙させるような、奇妙でどことなく無生物的な静寂がある。年間を通
じて観光客の絶えないこの地域は、平和への祈りの町としての長崎の姿を伝えている。
 以上、歴史の街としての長崎の、その外観をおおざっぱに見てみた。
 鎖国時代、幕末時代の外国人居留地として、また中国、朝鮮との貿易港としてつねに何か外国文化を
取り入れてきた、その痕跡を今に伝えている山手界隈。
 寺社が立ち並び、史跡が所々に顔を出すかと思えば、丘の下には歓楽街が広がるというように、聖と
俗、あるいは公と私がコントラストも鮮やかに配置される中島川周辺。
 そして、悲惨や不条理、無念といった、原爆と死にまつわるあらゆる類の言葉をすべて引き受けてい
るかのような、平和公園周辺。
 歴史の街、と先述したが、それは別に長崎が江戸時代から現代にいたるまで、日本の歴史の中で重要
な役割を果たしてきたから、という意味で言うのではない。そうではなく、ここ長崎では過去に作り出
された様々なものがたくさん受け継がれ、残されているということである。いかなる都市も、歴史に裏
打ちされている。ここで言う歴史とは特に政治史や経済史だけを言うのではない。過去に生きた無数の
人々の意志や信念、決意が複雑に絡まりあい、一本の運命として流れていくような時間の流れ、そのよ
うなものを、ここでは歴史と呼ぶことにする。そしてその過程において、何らかの良きもの、信頼すべ
きものとしての価値判断の体系、状況判断の指針が、少しずつその土地の共同体、あるいは社会の中に

                          98
蓄積されていくのであろうと思う。20 世紀初頭のイギリスの文学者チェスタトンは「死者の民主主義」
ということを言った。民主主義に則った政治というものはその時代に生きる人々の勝手な判断に任され
るべきではなく、過去に生きた無数の人々から伝えられた知恵、良識、道徳観、そのようなものによっ
て制限を受けなければ到底まともには機能し得ない、ということである。私もこの説に賛成する。ヒト
ラーが台頭したプロセスを思い出すまでもなく、狂人の独裁を許す可能性が、民主主義の中には大なる
可能性で含まれている。人間の生において、あるいは都市の行く末において、はたまた国の将来につい
て重大な選択を行わねばならないときというものは、今も昔も変わらず生じている。様々な形で発生し
たであろう重大な局面において、先人たちが何を考え、何をしたのか。あるいは先人たちはどんな信念
でもって、その行動を選んだのか。そういうものをいくばくかでも感じ取ることのできる都市、言い換
えれば歴史に対する感覚が自然と惹起される都市、長崎はそういう都市であると、私は思う。


 結論


 このレポートを書くため、久々に長崎を訪れた。中学生や高校生の頃に抱いていた、長崎=都会のイ
メージや、小学生の頃に抱いていた、原爆を受けた町という恐怖のイメージなどの、かつてこの町に対
              この土地を離れていた 4 年の時間によって消し去られてしまっていた。
して持っていた様々の先入観は、
そうした虚心の状態でこの町を歩き、様々なものを見たり聞いたりしていると、この土地に蓄積された
歴史に触れられたような気がした。
 現在、長崎市の先行きについて様々な議論の声が上がっている。不況下の現在では観光収入が徐々に
減少している。あまりに観光に頼りすぎであるとか、新たな商業施設を設けるべきであるなど様々な提
言が市に対して行われている。しかし、できることならば、積み重ねられた歴史のことを忘れずに、バ
ランスの取れた開発をして欲しいものだと思う。



参考文献


『長崎原爆資料館ガイドブック』長崎市監修、発行
『長崎・佐世保マップ』昭文社、2003




                         99
          満男の葛飾・柴又と独り立ち~『男はつらいよ 寅次郎の休日』より~


                   6202041 欧米第一課程 ドイツ語専攻 一宮まどか



 男はつらいよといえば、いわずと知れた寅さんシリーズである。寅さんは日本各地のお祭りで商売す
る的屋で、旅先での出来事と実家の団子屋とらやでの騒動を軸にストーリーが進んでいくというのがこ
のシリーズの定型である。また、そのつど旅先の土地の風俗やことば、景観がさりげなく紹介される。
 私はこのシリーズをほぼ全編見ている。このシリーズは、カメラワークに特徴があると思う。日本全
                        撮る側の思い入れやあたたかさが伝わってくる。
国津々浦々の景色をただ写しているだけのシーンでも、
茶の間のシーンでは、食事や畳のにおい、季節や時間帯ごとに違う独特のにおいまで伝わってくるよう
である。寅さんの映画を見ると、なぜかいつもあたたかい気持ちになるし、明日からも背筋を伸ばして
がんばろうという気持ちになる。
 今回は、寅さんの甥である満男と、その友人泉が中心に描かれた『男はつらいよ 寅次郎の休日』を
とりあげたい。この作品では、満男の目を通して、「幸せとは何か」が模索される。


1.あらすじ


 満男は八王子の大学に通う大学生だ。最近、なんでも自分の世話を焼いてくれる親がうっとうしく感
じられ、独り暮らしがしたくて仕方がない。そんな折、名古屋から友人の泉が満男を訪ねてきた。離婚
して東京で独り働く父に、もう一度母とやり直すように話をしにきたのだった。しかし父は浮気相手と
大分の日田というところで新しい生活を始めているという。父を追って九州に向かう泉の新幹線に、満
男も飛び乗る。
 泉は父と再会を果たすが、幸せそうに暮らす父の姿を見て、女と別れさせるのをあきらめてしまう。
二人を追って寅とともにやってきた泉の母にとってもそれはショックだったようだ。
 泉と母は名古屋に、満男と寅は東京にそれぞれ帰る。家族の幸せを求める寂しそうな泉の姿を見た満
男は、もう独り暮らししたいと思わなくなっていた。そして、周囲の人たちそれぞれにそれぞれの幸せ
があり、他人には幸せに見えるものが本人にとっては幸せでないこともある、と知るのだった。


2.帝釈天の参道
 東京は葛飾柴又、帝釈天の参道に店を構える団子屋が物語の基点になっている。満男は寅の妹さくら
と、団子屋の隣の印刷工場に勤める博の息子で、その近所のアパートで幼年時代を過ごし、今は近くの
一軒家に家族と住んでいる。
 ここは人と人とのつながりが強い町だ。隣の工場の社長は毎晩のようにやってくるし、参道を歩けば
何人もの人に声を掛けられる。何か問題があれば帝釈天の御前様に相談を持ちかけ、噂話はすぐに町中
に広まる。
 実際にこのあたりに行ってみると、短い参道に小さな店がひしめいているし、家族経営の店ばかりの
ようだ。帝釈天の境内もあまり広くはなく小ぢんまりとしているし、取り立てて特別なものはなく、近
所にある神社といった感じがした。狭い範囲内にたくさんのものが密集していて、しかしごちゃごちゃ
した感じではなく、温かく小さくまとまっているという印象を受けた。下町という性質のほかに、地理

                         100
的なせせこましさ、密集した感じは、物語中の人間関係の濃密さに反映されているといえるだろう。
 こんな参道に似つかわしくない大きなオートバイに、満男は乗っている。時間に縛られることなく、
細い道でも一人ですいすいと通り抜けられるオートバイは、満男の独立したいという気持ちを象徴して
いるのだろう。バイクに乗ることを両親はよく思っていないことは、両親はいつまでも彼のことを子供
だと思って心配しているためであろう。前作『男はつらいよ ぼくの伯父さん』で、このバイクにまた
がって、九州まで家出してしまうことは、彼は一人で両親の手の届かないところに行きたいという気持
ちを示していると思う。
 実際に、彼は独り暮しがしたい理由として、もう子供ではないのだから、何もかも身の回りの世話を
してくれる生活にうんざりしていることをあげる。独り立ちしたいのだ。このような満男にとって、柴
又は自分にまとわりつく狭くうっとうしい町なのだ。


 一方、泉にとって東京はどのような存在なのだろうか。
 葛飾・柴又は、泉の両親がまだうまくいっていた頃学校に通っていた町だ。いわば、泉にとっては、
あたたかい思い出の町。そしてここには、葛飾時代の高校の先輩で、文通相手である満男がいる。泉は
よく彼の家族と夕食を共にして家族団欒を味わっては、うらやましがっている。泉にとっての東京に、
さらにあたたかいエピソードがのせられていく。
 前作では、泉は母の元を離れて、九州にいるおばの家で世話になりながら高校に通っていた。今作で
は、名古屋で母と暮らしているという設定になっている。スナックで働いている母は、強がってはいる
が、娘の目から見ると、今も父のことを愛しているし、さびしそうに見える。泉はそんな母と喧嘩して、
父に母とよりを戻させるために東京までやってきたのだった。
 しかし、結局家族のあたたかい思い出は過去のものでしかないし、満男の家で味わう団欒も、一時的
なものでしかない。東京は泉の思い出の中での幸せの象徴であるが、本当の幸せはそこにはない。彼女
は新しい幸せを作り出すためではなく、過去の幸せをもう一度実体化させるために、九州、名古屋、東
京をさまよう。


2.日田


 次は、泉と日田の関係を先に見てみたいと思う。
 泉は父を説得するために、確固たる意思と行動力とをもって、はるばる日田を訪れる。東京とはがら
りと色の違う小さな田舎町だ。昔風の家が立ち並び、地域の祭りが催されている。
 父が住んでいる家を訪ねると、薬局で女が働いているところに、自転車で父が帰ってくる。すっかり
こちらの生活になれ、                      「パパじゃないみたい、
          さちえとの新しい生活もうまく行っているようだ。          日焼け
       」
して元気そうで。 というせりふに現れているように、生き生きとした父の姿は泉が思い描いていたもの
とは違っていた。
 ここを故郷とする内の者にとっては明るく優しい祭りも、壁の外に出された泉の目には冷やかに映る
だけだろう。町は外の者をあたたかく受け入れたのではなく、いかに内が幸せであるか、厳しく見せ付
けたに過ぎないと思う。内が盛り上がれば盛り上がるほど、泉の受ける冷たさや疎外感は強まっていく
のだろう。
 日田までの距離の長さは、泉と父の間の取り戻せない距離を表しているのではないだろうか。彼女に
とって日田は、新幹線やバスを乗り継がなければたどり着けない遠い場所にある。しかも父は彼女やそ

                         101
の母に知らせることなく、その場所で新しい生活を始めてしまっていたのだった。この距離は、父が手
の届かない存在になってしまったことを示していると考えられる。
 彼女は、自分から遠く離れたこの地で新たな幸せを築いてしまっていた父の姿を見て、女と別れても
う一度家族に戻ってほしいと説得する気力もうせてしまい、父の歓迎もそこそこに帰ってしまう。
 以上のように、泉にとっての日田は、到達できない自分の過去の幸せや、置いていかれた孤独感を象
徴している町だといえるだろう。


 さて、満男にとって日田はどのような町であったのか。
 彼は日田を泉よりさらに間接的に眺めていたに違いない。泉の虚脱感や疎外感と日田の町が一まとめ
に認識されるかもしれない。
 しかも、彼は、泉と離れたくないためだけでなく、困難に立ち向かう彼女に心強さを与えるために旅
に付き合ったにもかかわらず、結果的にはその未熟さゆえに何の役にも立っていないように見える。優
しさはまだ頼りなく、ショックを受けた泉の心の支えになるにはいたっていない。
 このように、日田は泉の行動力とは対照的に、満男の無力感を現す町だと考えられる。


3.帝釈天の参道 その2


 日田からは寅と満男の二人で東京へ戻ってきた。今回の旅で、家族の幸せを取り戻そうとしたがうま
く行かなかった泉の姿を目の当たりにして、満男にとって帝釈天の参道は以前と違った風に捉えられる
ようになったのではないだろうか。いつも家族がそばにいて、自分のことを気に掛けてくれていること
のありがたさや、その貴重さを思い知ったのではないかと思う。その結果、満男は独り暮らしすること
をやめる。
 最後に、今作のまとめともいえる満男のせりふが以下のような内容で流される。
 人間は誰でも幸せになりたいと思っている。泉の父は本当に幸せなのだろうか。タコ社長は寅を幸せ
だというが、そうなのだろうか。たとえ寅本人が幸せだと思っていても、母から見れば不幸なのかもし
れない。そうだとすれば、どちらが正しいのだろうか。人間はわかりにくい生き物だ。
 これは以下のように説明できると思う。
 泉の父は幸せになるために泉の母と別れ、新しい女と九州に暮らしている。その姿は泉の目には幸せ
そうに見えたが、本当にそうだろうか。愛する娘を置いて、つらく寂しい思いをさせながら自分だけ楽
しい生活を送ったとして、本当に幸せだと感じているのだろうか。タコ社長は、寅はお金の心配もせず、
責任も追わず、恋だけして気楽に生きられるから幸せだというが、本当に家族をもたず根無し草のよう
な生活をするのが幸せなのだろうか。たとえそれで寅が満足していたとしても、母から見ればやはりそ
れは不幸なのかもしれない。
 満男は泉が過去の幸せを追い求めているのを見て、また、泉の父とさちえ、母がそれぞれに前へ前へ
と進もうとしているのを見て、満男は彼らを否定したり、人道に反していると非難するのではなく、彼
らにとっての、ないし人間にとっての幸せがどのようなものか考えたのだろう。そして、自分のそばに
ある幸せに気付いた。彼が人間関係で困ったときに「おじさんならうまいこと言ってくれるのになあ」と
    いろいろな人にあって、
言うのは、         たくさんの経験をつんできたおじへの憧れを示しているのだと思う。
満男自身も、おじのように、他人の幸せのために身を斬れるような心優しい人間になるのではないかと
予想する。

                      102
4.まとめ


 満男は柴又→日田→柴又と移動することによって、新しいものが見えてきた。特に、はじめの柴又と、
後の柴又はまったく異質なものである。それは町自体が変化したのではなく、日田という町に表される
他者の価値観を通過することによって、彼自身が変化したのである。
 彼は自分のそばにある家族のありがたさに気付いたし、もしかすると、独り暮らしをすることが独り
立ちをすることと直接イコールでつながれるのではないことに気付いたのかもしれない。結局のところ
両親の援助を受けながら物質的に両親から離れたところで、甘えきっていることに変わりはないどころ
か、さらに依存度を高めていることになると思う。年下でありながらつらい境遇に耐え、さらに幸せを
自分から手に入れようとする泉の行動力に感銘を受け、自分が以下に家族や社会に甘えているのか気付
かされたのかもしれない。目に見える大きな変化がなくても、精神的に大人になれば、人に優しくでき
れば、それが真の独り立ちにつながっていくのだと私は思う。一番大切なのは自分が自ら大人になるこ
とであって、外側から、形から変えていこうとするのは結局のところ逃げであり、甘えであると考える。
  彼は少し大人になった。柴又は彼にとってはじめは反発の対象であったが、自身の変化によって愛
着と騒々しさに対する余裕が生まれ、のちに大切な故郷に変わる。この映画の中で、日田という田舎町
がさしはさまれていることによって、満男にとっての柴又の変化が印象的に描かれていると思う。柴又
はがらりと色を変えてしまうというわけではないが、満男の目の前に、少し趣を変えて再び登場する。
観客も、自分の今の生活に自信を持って、また明日から心機一転がんばろうという前向きな気力のわい
てくる映画だと思う。


 参考資料
 『男はつらいよ 寅次郎の休日』原作・監督山田洋次 松竹映画
 『男はつらいよ ぼくの伯父さん』原作・監督山田洋次 松竹映画




                      103
 京都の今
                            欧米第一課程ドイツ語専攻3年
                            6202087 石川美穂
 京都というと、何を思い浮かべるだろうか。多くの人にとって京都は全国で1、2を争ういかにも日
本的な都市であり、外国人旅行客も多く、日本人でも好んでよく行く、修学旅行の定番のコースである。
京都は歴史も長い。平安京を始めとして長い間日本の中心都市であり、京の道はそのまま日本の歴史と
いっても過言ではない。現代小説にいたるまで多くの小説の舞台となり、京都の町のそこここで小説作
品の主人公に出会うこともできる。
 歴史だけではなく、1990年代に入ってからは景観論争が一大センセーションを巻き起こしたし、
94年は平安建都1200年の記念事業で沸き返った。いずれも全国的な関心事となっているだけに、
京都という都市のステイタスは別格であることを認めざるを得ない。本文では観光ガイドに載っている
ような主だった観光地ではなく、京都の街並みについて主に取り上げていこうと思う。
 一言で京都といっても、実に様々な地域に分かれている。典型的な中心地の碁盤の目状の街に古い景
観だけで終わらない。よってここではまずいくつかの特徴的な地域について紹介しよう。
 都心の室町は室町時代以降、京都の中心として繁栄した街で、現在も銀行等の金融機関が集中する京
都の中心業務地区だ。また同時に呉服等の繊維卸売業のメッカでもあり、祇園祭の山や鉾を出す山鉾町
としても有名で、最も京都らしい街の一つである。さらにこの界隅は、平安の造営から今日に至るまで
の1200年もの間、町割りの構造(碁盤の目状)がほとんど変化していない。ところがこの町には大
量の自動車が通り、路上駐車も多い。かなり騒がしいが、一歩路地に入ると静寂な空間が広がっていて、
また休日は自動車の通過も少なく、店も8割がた閉まっている。
 室町には今でも伝統的な京町家が残っている。通り庭は天井が高く、吹き抜けになっている。裏の庭
は表からは見えないが、緑があふれ、落ちてくる光がとても美しい。袋小路とは幅が2mにも満たない
狭い道であり、お地蔵さんがじっと見守っている空間で、何だか別世界の入り口のようで、表通りとは
流れている時間が違うような空間である。袋路空間には緑が多く、遊んだり会話したり、地域コミュニ
ティの源として生活のにおいが感じられる。また、特に姉小路通に並ぶ、老舗の看板めぐりは格好の美
術散歩だ。いずれもそうそうたる人たちの筆により、味わい深く、京の老舗の奥行きの深さを感じる。
 その反面、室町には多くの珍しいもの好きの豪商や町衆が住んでいたため、いろいろなものが外国か
ら持ってきて文化として吸収している。たとえば祇園祭の山鉾の懸装品はベルギー製、旧日銀京都支店
は明治の洋風建築、高倉西小学校はロマネスク様式であり、蛸薬師通りには全国のキリスト教宣教の拠
点となった南蛮寺跡がある。
 西陣も歴史的由緒のある街だけあって、古い町並みは数多く残っている。一つ一つの建物というより
は町全体が醸し出している庶民的な雰囲気は見所である。特に夕暮れ時の千本商店街や通りがいい。
 壬生界隅は戦前に建てられた低層木造住宅をはじめとする住宅群、いくつもの商店街、中小の工場な
どが集結しており、典型的な住・商・工混在地域としての様相を呈している。見た目には高齢者が多く、
その分下町情緒が漂い成熟したコミュニティの存在を感じさせてくれる。ここにはいくつもの商店街が
あり、170件もの店舗が営業している。日常生活には欠かせない便利な町である。
 上賀茂の社家町には代々上賀茂神社に仕えた神職の人々の屋敷が立ち並んでいるが、現在では一般の
サラリーマンや公務員も暮らしている。中には平屋建ての屋敷を下宿にしているところもあるが、風格
があって立派な門の前に自転車やバイクがずらっと並んでいて面白い。社家町は京都市の「歴史的界隅

                      104
景観地区」および「歴史的風土特別保存区域」に指定されていて景観にたいする規制の強い場所でもあ
る。よってほかの町に見られるような巨大な看板やポスターなどが目に付くことはほとんどない。
明神川に沿って立ち並ぶ社家町の一部は「伝統建造物群保存地区」に指定されていて、どれも土塀で
囲まれている。戦国時代に自衛の手段として作ったのだそうだ。個々の屋敷は明神川を挟む道路と門の
間に橋を架けていて、その町並みはお城のようである。ただ残念なことにこの土塀は老朽化が激しく、
現在では木の塀、                   「伝建地区」
        大理石の塀などさまざまな塀となっている。     以外でも社家の屋敷はたくさ
ん残っていて、普通、町家といえば白壁をイメージするが、ここの町家は黒壁で重厚な感じがする。
しかし、こんな京都にも近代化の波が訪れた。              「民間活力」
                     1980年代以降の中央政府の、     による「内
   、開発に対する「規制緩和」によって「四全総」による東京一極集中のあおりたてで地価の暴騰
需振興」
がおこり、おりからの金融緩和も加わり、狂乱地価は全国に波及した。国内いたるところ、地方の小都
市から山間僻地のリゾート地域まで高層建築による乱開発が起こった。それが京都にも押し寄せてきた
のだ。いわゆる先に述べた「景観論争」の引き金となった事件である。外国の資本は、すばらしい環境
を保ち、多数の名所旧跡が間近にあり、文化の薫り高く、しかも国土の中心に位置する便利さに早くか
ら気づき、京都は安いといって、その歴史や文化の伝統などお構いなしに東京、大阪と同じ金儲けのた
めに街を自由に食い荒らそうとしていた。
この地価の暴騰は税金や家賃の値上がりで市民生活を直撃し、地上げ屋の活躍で市民は落ち着いて暮
らせなくなった。住民は追い立てられ、今まで生業や生活でお互いの協力の上に築かれていたコミュニ
ティの中に金の力がぐいぐいと押し込んでいき、住民の心までも分断し始めている。その結果、伝統的
な相隣関係で守られてきた地域の環境を一挙に破壊するような高層マンションやビルが建ち始め、住民
の目をさえぎり、京都の町並みはおぞましいものに変わりだした。京都の街の特色は、大都市でありな
がら三方が山に囲まれ、その緑の山肌が市内に少ない自然を補い、市民に四季の移ろいを伝える安らぎ
のよりどころとなっていた。その山並みがどんどん断ち切られ、五山の火も場所を探さねば見えなくな
りつつある。
住民の間では、この京都の街の変化に対して経済活性と是正する意見と京都の伝統的な町並みを破壊
するものとして反対する意見が入り乱れた。
京都の街では中心地において、31mという高さの規定があったため、京都には隣接する大阪に見ら
れるような高層のデパートは見受けられなかったのである。この事実に対してなんとなく遅れているよ
うで劣等感を持っていた住民もいたようだ。今回の改正ではこの規制を大きく越えた建物の建築を許可
する。もともとランドマークとしての高さ131mの京都タワーの建築を許可したことがこの高層建築
の先駆けであり、これを理由に今回は京都駅の駅ビルを外国人技師を交えて130mにしようという計
画がある。京都ホテルもこれに便乗してか67mまで拡張しようとし、50mの7階建てのマンション
も建築が計画されている。
これに対して、こうした高層のビルは景観を破壊するため建設を中止すべきだといった意見が広がっ
ている。京都の美しさは、慈円が「春のやよひの あけぼのに よもの山辺を 見渡せば 花ざかりか
も 白雲の かからぬ峰こそ なかりけれ」と詠んだように、四季折々に変化する、京都の三方をめぐ
る山並みの景観の良さだった。和歌を始めとする詩韻の文化、歳事の文化、数寄の文化、四季の彩を写
                              借景という言葉もあるように、
し取る図象の文化はすべて山が見える景観の中で京都から生まれた。            数々
の庭から見える美しい山々と美しい歴史的建造物といった趣深い風景も、開発によって山が切り崩され
たり、ビルの出現によって視界が遮断されたりして見られなくなっていく。これは非常に残念な話だ。
せっかくすばらしい財産を持っていて、京都に古きよき日本を見に、全国から、外国から毎年数多くの

                       105
観光客が訪れてきている。もったいない話だ。
たしかに古い歴史的な町並みの家々も、当然、博物館の模型とは違って永久のものではないため朽ち
ていく。街も刻一刻と変化していくのは、ある程度はやむ終えない話ではないだろうか。
たとえば室町界隅の袋路では戦前に建てられた住宅が隙間もなくびっしりと軒を並べているため、過
密であり、老朽化がかなり進行してきている。通り抜けできないために建築基準法や消防法にも引っか
かっている。壬生では、戦前からの長屋群が数多いのだがこれらの老朽化が目立ち、日当たりも良くな
い。
このために両地域では若者の流出と高齢化が進行している。壬生には細街路の数も多く、そこには独
居老人も多い。こういった地域において、現状をこのままにして高齢化をよりすすめるよりは、建物の
建て替えは仕方がないのではないだろうか。壬生界隅においては最近少しずつではあるが一度出て行っ
た若者が戻ってきて二世帯住宅を建てる動きがあるようだ。住民の安全にも関わることなので、こうい
った動きはむしろ是正されるべきではないかと考える。しかし、同じく室町の袋路において、近隣の隣
近所が高層化してきているため、日当たりが悪くなったという点が住みにくい理由に含まれていること
は大問題だ。
また、高層ビルの建設により、次のような問題も多発している。
西陣界隅においては、近年では開発の波が押し寄せ、新しいものと古いものが混在した不思議な空間
を作り出している。
都心の御所西界隅は京都御苑の西側に面し、市バスや地下鉄などの交通の便にも恵まれた街だ。ここ
には京町家、洋風建築、マンションなどが立ち並び、街並みはそろっていない。色彩を取ってみても、
以前は京町家が多かったので全体的に「黒」のイメージが強かったが、現在ではモルタル塗りタイル貼
            「ベージュ」のイメージが強くなってきている。まさに町並みのオセロ化が
りの建物が増えたので「白」
進んでいる。巨大なマンションが増えてきた。
しかしこの御所西界隅では、住民自らによってきちんとこの問題に対処をしている。大部分を占める
                    「マンション等の中高層建築物の建築に当たって個々ばら
中立学区には、ちゃんと「中立方式」により、
             「意見を集約して交渉に当たる」
ばらに施行主と話し合わない」             「町内の人が建て替えをするとか、二階
建て、三階建てのものを建築する場合には、近所とよく相談し、近隣の環境等に十分配慮して建てても
らう」といった規則を決めている。住民の街づくり意識が非常に高い地域である。最初はマンション建
築反対運動があったらしいが、昔は不自然だと思っていたが今は自然に感じるといったように、だんだ
んと住民にも受け入れられてきている。
同じく大きく街が近代化の影響を受けている例として、京都府立総合図書館、植物園、京都府立大学、
ノートルダム女子大学、京都工芸繊維大学、洛北高校、その中心に葵小学校のある葵界隅は、葵学区と
                       家や土地はすぐに買い手がつく。
いうだけで不動産が売れてしまうほど高級住宅街で、             閑静な住宅街で、
京都らしくない、ゆったりとした街区に邸宅が立ち並ぶ。表通りから一歩中に入ると驚くような静けさ
で緑や花があふれていて、表通りとは時間の流れ方が違うようだ。きれいに手入れされた生垣や庭の植
木、テラスの花が通行人の目を奪う。また、葵小学校の付近にはせせらぎのような泉川が流れ、落ち着
いた土塀と泉川の組み合わせが上賀茂の社家町を彷彿させる。少し西に歩けば有名な賀茂川がある。こ
こは水環境においては京都の中で最も恵まれたところではなかろうか。ただ、場所によっては空き缶な
どのごみが放置してあったり、木や草花が手入れされずに生い茂った状態になっていたりする。
この地域の建物は個性的で、大きく分けると近年建て替えが進行して少なくなりつつある数奇屋風建
築、かつて映画関係者や芸術家が住んでいた和洋折衷の屋敷、モデルハウス風の現代住宅の3つに分か

                        106
れる。しかしこのようにそれぞれの住宅が個性を競っているのだが、高さや色などに配慮が見られ、新
旧の住宅は調和し、落ち着いた美しい街並みを醸し出している。ここには学者や文化人などが住み着い
                         現在も表通り以外は第一種住宅専用地域だが、
て建築協定を締結するなど先進的な取り組みがなされた。
ここでも住民自らによって10mの高さ制限などが規定されていて町並みは守られている。
社家町では非常に近代建築と伝統的な建物がうまく融合している。ここでも、建物は近代的な建築で
も三階程度までの高さに制限されている上、そのすぐ前に明神川が曲線を描きながら流れているので落
ち着いた雰囲気を醸し出しており、したがって両脇が町家でその間にハイツが建っていても違和感を覚
えない。逆にこのような新しい建物があって、そこに若い居住者がいることによって、新しい町が形成
されていくように感じさせる。しかし、景観を意識してか、小さな食堂や商店がある程度で自動販売機
などはほとんどなく、やや不便である。
このような住民自身の京都という街に対する愛着と誇り、意識の高さによって、文章上は景観が守ら
れているように聞こえるかもしれない。しかし私が気になるのは、先にあげたようなそれでも破壊され
ていく山並みの景観だ。その地域の中では秩序を持って守られているように思われても、それが他の地
域から見たときにどうなのか。もしかしたら他の地域からの景観を遮断していないか。より視野を広く
持ち、京都全体を考えたときにどうなのかを考えたときに、もっと取り組みは違ってくるのかもしれな
い。
また、たとえば葵界隅では、界隅内には景観保護のため自動販売機すらない。しかし、そこに隣接す
る北大路通りなどには病院、スーパーなどが数多くあるため、便利である。一見、葵界隅の環境は守ら
                        北大路はどうなのか。
れているので近代化に対処したとよさそうに思えるが、        地域ごとの役割分担制は、
低い次元で各区域の生活環境を見たときにはうまく行っている。しかしより広く上を見たときに、それ
はどこかの地域の空の邪魔をしていることもあるのではないかと思う。
しかしこういった話をしていても、私自身は京都の外に住んでいる者で、私としては是非に京都なら
ではの住宅地を残して欲しいと考えるが、実際に内で暮らしている住民にとっては生活もあるし難しい
こともあると思う。先にも述べたような高齢化の問題もあって、新しく京都に住む人々もいることと思
うし、生きた街である以上、人の変化が思想の変化につながっていることも当然のことである。社会も
どんどん便利になっていく。京都だけは近代化するなと私たちが言っても、それは差別じみた押しつけ
でしかない。




<参考文献>
              『京都・素顔の住宅地』
立教大学 リム ゼミナール編、         、淡交社、1995年
      『京都2001年 私の京都論』
加藤周一 他、             、かもがわ出版、1991年
    『京都の不思議Ⅱ』
黒田正子、       、光村推古書院、2003年
        『京都 小説マップ』
現代言語セミナー、        、PHP研究所、1991年




                      107
「テクストの中の都市・テクストとしての都市」
前期レポート
         混沌の街・歌舞伎町-『不夜城』と『リボルバー 青い春』-
                                        6202153 欧米第一課程
                                   ドイツ語科 3 年 加島真由美
 馳星周氏のデビュー作にして、様々なミステリーランキングでトップを飾った『不夜城』の舞台は歌
舞伎町である。この小説において歌舞伎町は単なる「舞台設定」にとどまらず、いわば「主要登場人物」
としての役割を果たしているとも言える。
 その『不夜城』のあらすじはこうなっている・・・
 新宿・歌舞伎町、アジア屈指の歓楽街であるこの街は、日本でありながらも台湾、上海、北京といっ
たチャイニーズ・マフィアの勢力下にあり、警察はおろか日本のヤクザでさえも入り込めない特殊な構
造を持っている。日本と台湾の「半々」であり、日本国籍を持ちながらも日本人社会に居場所を見出す
ことができず、台湾人社会にも身内としては受け入れられなかった主人公・劉(高橋)健一はこの歌舞伎
町をどの勢力に属することもなく、故買屋として器用に渡り歩いてきた。誰一人、自分さえも信じられ
ない健一は他人を利用し、歌舞伎町の実力者達の顔色を伺って自分の利用価値を維持することで生き抜
き、分厚いスチール製のドアと監視カメラに守られた自らが経営するバーの上階の部屋で眠る。
 しかし歌舞伎町に絶大な力を及ぼす上海マフィアの首領・元成貴の右腕を殺して姿を消したかつての
相棒、呉富春が再びこの街へと帰ってきたことによって彼の生活は一変する。健一は自身の育ての親で
あり、歌舞伎町を裏で牛耳る台湾マフィアの柳偉民に裏切られ、いまだ怒りの収まらない元成貴に呼び
出され、富春を引き渡すように脅される。その期限はたったの 3 日後だった。
 そこに現れたのが夏美と名乗る謎の女。富春の元恋人だという彼女は、彼から逃れるために「富春を
売りたい」と健一に提案する。彼女を信頼することはできないものの、切り札としての価値から行動を
共にすることを決める。健一は柳偉民、元成貴、北京マフィアの崔虎、富春そして自分を「兄さん」と
              自らが生き伸びるために彼らを嵌める策略をめぐらす。
慕う周天文などの間を駆け回り、                       そして同時に、
多くの「利用できる」人物からの情報によって夏美の嘘が暴かれ、正体が明らかになっていく。彼女は
富春の実の妹・小蓮だった。自分と同じ匂いを小蓮から感じ取った健一は、これまで他人をカモにして
きた自分が、小蓮のカモになっていく感覚にとらわれながらも、それを受け入れようとする。
 時間がないながらも、自分の生きる道を確保するための作戦を立てる。元成貴に取って代わることを
狙っている崔虎の協力を得て、富春に元成貴を殺させ、その後で富春を処分するというものだ。さらに
香港の程恒生に崔虎を襲うように誘い込む。しかし約束の 3 日目、その作戦は歌舞伎町での支配権を狙
う多くの者の思惑によって健一の予想もしていなかった方向へと進んでいく。
 元成貴の命を救い、恩を売ろうと考えた柳偉民の差し金によって、元成貴をショットガンで吹き飛ば
そうとした瞬間に富春が銃撃される。しかしその直後、崔虎の手下が元成貴の息の根を止めた。これに
よって健一は元成貴の右腕であった孫淳に命を狙われることになり、あっさり捕まってしまう。そんな
状態でも健一と小蓮は機転を利かせてどうにか富春と孫淳を葬り、再び柳偉民に近づいて彼を抑え込む
ことの出来る唯一の台湾人・葉暁丹と、元成貴の後釜を狙う上海人達の一人・銭波を殺すことで、事態
の収拾を任せる。だが、ここでも柳偉民は健一たちの味方というわけではなかった。彼が、程恒生の襲
撃からかろうじて生き残り、健一を探していた崔虎にその居場所を教えたのだった。崔虎の手中に堕ち
た健一と小蓮。普通ではないねじれた愛ではあったが、初めて愛を信じようとしていたふたりに課せら
れた過酷な運命、一連の歌舞伎町の混乱を収めるためにはどちらかの死体が必要だった。健一を撃とう

                         108
としてしくじった小蓮、結局生き残る道を手にしたのは健一だった。そして事件の処理が終わった後、
束の間身を隠していた熱海から戻ってきた健一を待っていたのは、顔ぶれが多少変わっただけの歌舞伎
町という街だった…。
 誰が味方で、誰が敵なのか、誰がどんな裏切りを画策しているのか、誰がカモになり、誰が生き残る
のか。この小説はたった 3 日間という設定ながら刻々と変化していく状況によって、それらが全く読め
ない展開になっている。そしてその背景には歌舞伎町という特殊な街の存在が大きくそびえている。
 とは言っても、私は本当の歌舞伎町を知っているわけではない。もちろん歌舞伎町にも「普通の」お
店はあるわけだから、友達と映画を観たり、お茶をしたり、飲みに行ったりであの大きな「歌舞伎町」と
いう看板をくぐったことは一度や二度ではない。それでも私は歌舞伎町という街に行ったことがあるだ
けであって、決して知っていることにはならないのだと思う。名の知れた街はたいていそうだが、イメ
                                      、そこに行き自分
ージばかりが先行してしまっていて(異国情緒あふれる街・神戸や、古都・京都など)
の目で見たとしても元々持っているイメージの印象の方が強いため、イメージ通りの景色を探すことに
夢中になり、それを見ると満足してしまう。このように、本当の街そのものを知ることは難しいものだ
からだ。街の中にいる者だけがそのすべてを知りうる、それくらい街の持つ「イメージ」は強いものだ
ということなのだろう。
 そのいい実例が私の住む横浜だ。大学に入ってから出会った友人の多くは、横浜について偏った特定
           「横浜」で連想されるものといえば、山下公園やカモメといった港の景色や、
のイメージを抱いていた。
外人墓地や洋館といった山手の風景がほとんどだ。そのすべてが実際にあるものなので、決して間違っ
ているとは言えないのだが、それは横浜の一部であって、「横浜」ではない。
 これと同じことが私にとっての歌舞伎町にも言える。事件を扱ったニュースやドキュメンタリー番組
によって伝えられる強烈な印象が頭の中にこびりついてしまっているのだ。だから歌舞伎町と聞いて思
い浮かぶのは、けばけばしいネオンサインや客引き、ヤクザの抗争、酔っ払いのケンカといった、快楽
の街であり無法地帯といったイメージであり、特に夜のこの街に対して根拠のない警戒心や恐怖感を抱
いてしまうのだろう。これは私一人が感じていることではなく、多くの人の共通意見だと思う。
 この外から見た歌舞伎町のイメージをうまく利用したのが『不夜城』だ。唯一私の抱いていたイメー
ジと違うのが、この街の支配権を握っているのがもはや日本人ではなく、中国系三大マフィアという点
だが、逆にこのことが元々のイメージをさらに強いものにする効果を持っている。まず、設定上なのか、
実際にそうなのか、真実は私にとっては知る由もないが、日本のそれも東京のど真ん中の新宿にあるひ
とつの街に日本人のコントロールが及ばない、ということを自分が特に大きな違和感もなく受け入れて
しまえ、さらには歌舞伎町ならありうるかも、と妙に納得してしまうことで、歌舞伎町の秘める妖しげ
な力を再確認する。そして、そもそも危険な香りが漂うこの街を牛耳っているのが、実は海外のマフィ
アだと考えると、こちらの感じる危険さや無法地帯感は必然的に大きくなる。だから『不夜城』におい
て歌舞伎町は、物語が始まる前、混乱が起こり始める前からすでに混沌としているのだ。
 そして歌舞伎町にそして主人公・健一に嵐を運んでくる男・呉富春の帰京によってすべてが動き出す
のと共に、この街も真価を発揮する。裏切り、裏切られ、時間に追われ、焦りと恐怖の渦に突き落とさ
 どんどん極限状態に追い込まれていく健一の状況が、
れ、                      歌舞伎町の街そのものとリンクしていくのだ。
つまり、この小説では(多少の例外はあるものの)歌舞伎町の奥深くに入っていくほど、健一は窮地に
立たされ、そこから離れるほど束の間の平静を取り戻す、または歌舞伎町の中では健一は首根っこをし
っかり抑えられているが、その外では彼が主導権を握り事態の収拾の工作を練ることが出来る、という
ようにして歌舞伎町内部とその周辺の地理的関係によって、健一の精神状態をより深く描き出したり、

                       109
暗示したりするという手法がとられているのではないかと思う。
 具体的には、富春の出現で身の危険を感じた健一が崔虎という保険をかけるため、彼と待ち合わせた
のは歌舞伎町の食堂であり、元成貴に呼び出され富春を探すための 3 日間のタイムリミットを突きつけ
られたのは歌舞伎町の高級上海料理店だ。このどちらでも健一はマフィアの首領という桁違いに格上の
相手と一対一で話をつけざるを得ない状況に置かれ、神経をすり減らす。夏美という謎の女に出会い、
彼女が元成貴と富春に仕掛けたあまりに穴だらけな計画で、事態がさらに悪化したことを知り愕然とし
たのも歌舞伎町だし、富春が元成貴の襲撃に失敗し、健一が孫淳に命を狙われ始めるのは歌舞伎町を一
        富春や孫淳と決死の銃撃戦を繰り広げるのも同じく歌舞伎町と目と鼻の先の墓地だ。
歩出た辺りの路地、
 そして一方、全面的に健一の味方というわけではないが、かといって敵でもない台湾人の夫婦が営む
密売屋があるのは百人町で、歌舞伎町の住人にもかかわらず自分を兄と慕ってくる周天文に協力を依頼
するのは中野、クスリと引き換えに必要なときに車を提供してくれるカモである中古車屋の息子が住む
のも中野、帰って来た富春と再会し、自分を信用させ計画に引き込むことに成功するのは代々木公園、
夏美と束の間の休息を過ごし、儚い愛が芽生えるのは参宮橋のマンション、健一の仕事相手である在日
朝鮮人のハッカーのマンションは目白にある、というように健一の命を狙う連中たちの影は歌舞伎町の
外には見当たらない。
 しかし物語も終盤になると歌舞伎町の外も安全ではなくなっていく。茗荷谷で行われていた柳偉民、
台湾の実力者・葉暁丹、上海マフィアの銭波による和平工作の場に赴いた健一たちは、事態を収拾する
ためにはふたりのうちどちらかの死体が必要だと迫られる。葉暁丹と銭波を葬ることでその場をしのぐ
ことが出来たが、すぐに春日通りで崔虎に捕まる。やはり健一と小蓮の両方が生き残る道は残されてお
らず、音羽を走る車中で健一が小蓮を撃ち殺すことになる。
 このラストに私は初め、大きな違和感があった。全体を通して歌舞伎町の外と中で「静と動」が描き
分けられていたのに、どうしてこんなに非情な結末である小蓮の最期の舞台が歌舞伎町ではないのか、
と感じたからだ。しかし事態が混乱を極めるにしたがって、歌舞伎町が落とす影が知らず知らずのうち
に広がっていった、と考えることも出来るのではないか、と思うようになった。あれだけ多くの死者を
         普通の街は大混乱になる。
出す事件が起これば、          さすがの歌舞伎町もいつも通りではいられないだろう。
しかし最初から混沌とした街であるがゆえに、これによって内部に抱えている暗闇を吐き出す結果とな
り、健一たちは街の外にいたにもかかわらず、その闇にとらえられてしまったということではないだろ
うか。
 そう考えると(生理的にうけつけられない描写がとても多く、普段の私なら手にとらないであろう、
                、                        「都市小説」
というジャンルであるのも事実だが) この小説における歌舞伎町の描き方はとても巧みで、
であることを気にかけずに手にとった読者にとっても、注目に値することだと思う。
 そして私は『不夜城』を読みながら、一ヶ月ほど前に見たあるDVDを思い出していた。それは松本
大洋氏のコミック『リボルバー』を原作として製作された劇場公開されないオリジナル・ビデオ作品『リ
ボルバー 青い春』であり、今回のレポートとは別の観点から、つまりただ単に主演の俳優達に興味が
あるという動機でレンタルしたものだ。こちらは全編の舞台が歌舞伎町というわけではないのだが、物
語の一部分において歌舞伎町が重要な役割を果たしている。ただその役割は『不夜城』の場合とは少し
異なっている。
 オサム、コージ、タツトシの3人の高校生は、ある日 1 枚の地図を手に入れそこに記さ
れた場所に向かったところ、本物の拳銃と3発の弾丸を見つけた。この拳銃をつかって、
3人は「何かスゲエ事」をしでかそうと考えるのだが、試し撃ちなどであっという間に弾
                       110
は残り一発になってしまう。そこで3人は弾丸を買いに歌舞伎町へと出かけていく。しか
しいくら歌舞伎町といえどもそう簡単に弾丸が手に入るはずはなく、警察に終われること
になったり、羽目を外して風俗店でぼったくられたりと災難が続く。そしてついには仲間
割れをおこして歌舞伎町の真ん中でバラバラになってしまう。三者三様の思いを抱えて歌
舞伎町の夜を過ごす3人。それぞれに苦い体験をし、少しずつ成長する。そして再び集ま
った3人は朝の歌舞伎町を去っていく…。
 この作品では彼らの地元と歌舞伎町という「内と外」の描き分けもされているが、それ
よりも時間による、街と3人の心境の変化のリンクという点に重きがおかれているように
感じた。
 弾丸を買おうと意気込んでやってきた彼らの背景にあるのは、昼間の明るい活気にあふ
れた歌舞伎町だが、災難が続き彼らの間に険悪なムードが漂い始めるにつれて、つまり時
間がたち、日が翳っていくにしたがって、街も危険な雰囲気を帯びた別の顔へと表情を変
えていく。そして夜になると完全に彼らを飲み込んでしまい、仲間割れをもたらす。しか
し、人っ子一人おらず静けさが支配する歌舞伎町に朝日が昇る頃には、彼らの心は平静を
取り戻している。
 この描き方によって3人の心境がとてもストレートに伝わってくる、という効果が生ま
れている。特に朝の静かなコマ劇場前の光景と、3人のなんとも穏やかな表情が印象的だ
った。文字ではなく視覚でとらえたせいもあるかもしれないが、そうだとしてもこの「街
と主人公たちの心情のリンク」は映像作品が持ちうる利点を十分に活かした結果であり、
監督の目指した描写なのだと思う。
 タイプは全く違うが、同じ歌舞伎町を舞台に持つこれらふたつの作品を通して、位置関
係か時間軸か、どちらの方向から街を描くかによって街の見え方や、もたらす効果が大き
く違ってくることを実感として認識し、同時に歌舞伎町が不思議な魔力を秘めた街である
ことを知ることができたように感じる。




                   111
                  2004 年度ヨーロッパ文学Ⅰ
        「テクストの中の都市・テクストとしての都市」前期課題レポート


                                             2004/08/14
                                    欧米第一課程ドイツ語科3年
                                        6202220 丸岡愛子
        水上都市ヴェネツィア―「ベニスに死す」で描かれた幻想都市


ヴェネツィアという都市について
 水に浮かぶ都市ヴェネツィア、車も通らないこの街では、警察も、消防も、ごみ集めも、郵便も、す
べて船でやってくる。世界でたった一つしかないと住民が誇る水上都市なのだ。長い歴史を通じてトー
マス・マン、ラスキン、バイロン、ブローデル、サルトル、三島由紀夫といった多くの芸術家や学者た
ちがこの都市に魅せられ、華やかなオマージュを捧げてきた。もはや、私たちは自らの言葉でこの都市
               野口武彦はヴェネツィアの特性をこう指摘した。ヴェネツィアとは、
を褒め称えることは困難であろう。                    「
何かいおうとすれば必ず先人の引用になってしまう常套句の法則が支配する都市である」つまり、ヴェ
ネツィアという都市は、物理的に実在する都市であると同時に、これら過去の偉人たちの言葉を知った
人々の、                          「ベニスに死す」
    イメージの中に浮かぶ神話的存在でも在り得るといえよう。       の原作者トーマス・
マンとこれを映画化したヴィスコンティもまたこの都市について何か新しいことを語ったゆえに賞賛さ
れるわけではない。この二人の芸術家は、人々がもつヴェネツィアのイメージとテクストを、一人は言
葉によって、もう一人は映像によって密接に関連付けることに成功したのだ。マンの生み出したこの物
語は、あまりに巧妙にヴェネツィアの都市空間のもつ雰囲気に類似している。ヴェネツィアに関する膨
大な言説を全て拾うことは不可能であるが、それらに共通する基本的なイメージは次の五点であるとい
えよう。第一に没落のイメージ、第二に、劇場のイメージ、第三に死のイメージがあり、第四に快楽の
イメージ、第五は迷宮のイメージである。
 まず第一、二のイメージである没落と劇場のイメージ、これらはヴェネツィアの栄枯盛衰の歴史から
知ることができる。ヴェネツィアは東方貿易で富を蓄え、立派な街づくりを実現していたが、この都市
もルネサンスを迎える 15 世紀末には政治的・経済的危機に直面した。世界経済の中心として発展して
いた地位が、ジェノヴァ、ピサ、トルコの脅威やポルトガル人の新航路発見を受けて、崩れ始めたので
ある。経済の頂点に立った都市が、経済都市としての没落を迎えたのだ。しかし、16 世紀以降は商業都
市としては衰退することになるが、それまで蓄積された富によってルネサンスやバロックの文化芸術活
動において中心的役割を果たすこととなる。都市の指導者であった貴族たちの関心が政治と文化にもっ
ぱら集中したのである。他のイタリア都市がどこも寡頭政治に移行し、重苦しい雰囲気に包まれる中、
ヴェネツィアだけが政治・宗教的に独立し、自由な文化的雰囲気が満ち溢れていた。人々は内面的充足
                芸術家や思想家も自由な活動を求めてヴェネツィアにやってきた。
と享楽的な生活を求めるようになり、
それと同時に、それまでは交通・運搬手段として使用された網の目のように張り巡らされた運河は、祝
祭的演劇的空間へとその役割を変化させていくのだ。この価値観の変化を如実に見せてくれる都市空間
はヴェネツィアの表玄関であるサン・マルコ広場であるといえよう。ヴェネツィア唯一の「ピアッツァ」
(広場)という名を有するこの広場は、まるで巨大な舞台のように広い。また 16 世紀以降、この広場
を使って実際に多くの壮麗な祝祭や祭り、スペクタクルが行われてきたのだ。また、ジンメルはこう言
    「ヴェネツィアの人々は皆、
っている。            舞台を行く人のように歩く。何が成し遂げられるわけでもないせ

                        112
わしさで、あるいは空虚な夢想にかられて、人々は絶えず一つの街角に姿を現したかと思うと、次の瞬
                                」複雑に錯綜する都市空間が、
間にはまた別の街角に消えていく。それはいつもどこか俳優を思わせる。
それぞれの街角をまるで小さな舞台のように独立した雰囲気を内包する空間として成立させているので
はないだろうか。建物がそびえる路地を抜けると急に視界が開けて、カンポ(原っぱの意。小さな広場
のような空間)に行き当たる。そこはまるで小さな舞台のような空間である。さらに、ヴェネツィアの
浮島構造もこの都市の没落のイメージを人々に与えている。ヴェネツィアの建物はラグーナ(内海)の
水中に打ち込まれた杭の上に立っている。つまり、この都市は巨大な浮島であり、根底を持っていない
のだ。訪れるものに水没の予感を感じさせるこの都市構造は、没落のイメージをはっきりと視覚化して
いる。
 第三の死のイメージはこの没落のイメージから派生したものであるとともに、この都市で何度も疫病
が流行り、沢山の死者を出したという歴史的な事実にも基づいている。1576 年、1630 年の二度に渡っ
てヴェネツィアでは死の病ペストが大流行し、人口が激減した。ワグナーのような芸術家達がこの街で
死を迎えたこともこの死のイメージの一因といえよう。大運河、小運河その両方の水上を優雅に滑るゴ
ンドラは、この街の風景に欠かせない。トーマス・マンはそのゴンドラを「もっとも豪奢で、人をだら
けさせる座席」       「この世の中にあるものの中では棺だけがそれに似ている、
       と称える一方で、                          この異様に
黒い不可思議な乗り物―(中略)なおも死を思わせる。棺台と陰惨な埋葬式と、最後の、声なき野辺の
   」
送りを。 というように、死へ人を運ぶ棺にゴンドラを見立てている。かつては一万艇あったゴンドラも
今や観光用の 500 艇になっている、地元民がゴンドラを利用するのは結婚式と葬式の時であり、それも
また死のイメージを生むのではないか。
 今では健全な観光都市として栄えるヴェネツィアが、かつては「娼婦の街」として世界に知れ渡って
いたことから第四の快楽のイメージが生まれたのだろう。娼婦の数が多かったのは、女性の奴隷が大勢
                  16
街に流れ込んだせいであるといわれる。 世紀の初め、人口十万人に対して娼婦が一万人いたのだから
驚かされる。娼婦の数が多かったのは、ヴェネツィアが金を持った船乗りや商人が寄航する港町であっ
たからだろう。また、ヴェネツィアには男色が大いに流行ったことがあった。政府は子どもが生まれな
                 15
くなって国力が落ちることを危惧し、 世紀待つには男色を禁じる法律を制定したほどである。この男
色の流行も快楽のイメージに繋がる。ジンメルはこの都市が本質的に故郷ではありえず、冒険のための
都市であると指摘している。この冒険とは、すなわち精神的快楽の追及であろう。
 最後に、迷宮のイメージがある。ヴェネツィアは、街自身が複雑に入り組んだ迷宮のような構造をし
ている。そもそもこの都市は、形成される過程で迷宮としてより複雑になったのだ。まず、ヴェネツィ
アはラグーナにすっぽりと包み込まれている。ラグーナは実に不思議な地形をしていて、大陸から多く
の川が流れ込み、土砂を運んだため浅瀬が生まれた。また、アドリア海の波の力との拮抗の中で、リド
からマラモッコ、そしてキオッジャへと伸びる防波堤のような細長い島が生まれたのだ。人々はラグー
ナの水の流れを読みながら運河を整備し、それぞれの島の形を整えていった。こまやかな土地の条件が
運河の曲がり具合を決めたのである。都市の形を決めるのに最も重要な運河網が曲がりくねっていたの
だから、都市全体が巨大な迷宮になったのは当然であろう。この都市が全体計画を持って発展すること
は不可能だった。それは、ラグーナの水上にわずかに浮かぶ無数の陸地(島)に人々が住み着き、独自
に開発を進めたからである。各島では、移住してきた有力者を中心とした住民たちが教会を核としてコ
ミュニティを形成していった。その成熟とともに公共空間や道のシステムが確立していったが、やはり
道はそれぞれの島の中で完結するものにすぎなかった。こうした道は「カッレ」と呼ばれ、幅は狭く路
地と呼ぶのが相応しい。先を見通すことは出来ず、陽の光があまり差し込まないこの路地が、それぞれ

                        113
の島で迷宮空間を織り成しているのだ。都市化が進むにつれて、寄木細工のように島と島が橋で結ばれ
るようになるが、曲がった道と道とをまっすぐ結べるような箇所はわずかであった。そこで、橋を架け
                「ポンテ・ストルト」
るにも無理に橋を曲げて架けたため、        (曲がった橋)が生まれ、都市としてのヴェ
ネツィアの迷宮性をいっそう高めたのである。さらに、上空からこの都市を眺めると逆S字型のグラン・
カナーレ(大運河)が都市を貫いているのが分かる。この運河もまたヴェネツィアの迷宮性を象徴的に
示しているといえよう。
 「ベニスに死す」論
 映画「ベニスに死す」がその主題を語るにあたって、ヴェネツィアの都市空間が非常に大きな役割を
果たしている。著者トーマス・マンは「都市の秘密とアッシェンバッハの秘密との融合」によって物語
が進むと述べた。そして、ヴィスコンティの綿密な空間設計によってこの二者の融合は見事に視覚化さ
れたのだ。以下で、この映画を空間に基づいて構造的に整理し、物語と空間との関係を探りたい。まず、
この映画で印象的に現れるのは主人公アッシェンバッハが滞在するオテル・デ・バンと、その砂浜の光
景である。このシーンはその他のシーンと交互になって三回登場している。
〈①導入〉―海の場面。アッシェンバッハが蒸気船でヴェネツィアに到着し、さらにゴンドラでリドま
で向かう情景。
〈②オテル・デ・バンと砂浜1〉―アッシェンバッハはホテルのロビーで美少年タッジオに出会い、そ
の美しさに息を呑む。
〈③中間部〉―ヴェネツィアのグラン・カナーレ(大運河)と鉄道駅。アッシェンバッハがヴェネツィ
アを去ろうとするも、それがかなわず帰還する場面。
〈④オテル・デ・バンと砂浜2〉―ホテルに戻ったアッシェンバッハが再び美少年タッジオ追跡に溺れ
ていく。
〈⑤展開部〉―ヴェネツィアの路地。アッシェンバッハがタッジオとその家族を追って迷宮都市ヴェネ
ツィアの路地を彷徨する場面。
〈⑥オテル・デ・バンと砂浜3〉―人気のいなくなった海岸でタッジオを見つめながら、アッシェンバ
ッハは死を迎える。
 まず、この映画では外部空間と内部空間の対立関係が見られる。つまり、アッシェンバッハが自らの
                                          「ベニス
故郷である〈外部空間=ドイツ〉を離れて〈内部空間=ヴェネツィア〉に入り込んでゆくのだ。
に死す」においてドイツは理性と抑圧のイメージを持ち、ヴェネツィアは欲望と開放のイメージを持つ。
〈①導入〉は主人公を乗せた船がヴェネツィアに向かう幻想的な映像で始まる。この映画が海上から始
まることは大きな意味を持つが、それはまた後で述べよう。また、この映画では、蒸気船エスメラルダ
号、ゴンドラ、中盤では小蒸気船が登場する。三度の船の登場によって、船は棺=死のイメージを強め
ていくのだ。そして、アッシェンバッハがゴンドラに乗り込むと、漕ぎ手が彼の言うことを聞こうとし
ない。これは、ヴェネツィアという都市自身がアッシェンバッハの予測を超えた、厳格な規律の支配す
るドイツという日常世界の外部に属していることを意味している。
 〈②オテル・デ・バンと砂浜1〉の舞台であるホテルと砂浜はこの映画における最も重要な舞台であ
                                 、理性と欲望、生と死の境界
る。砂浜はアッシェンバッハにとって〈内部空間=陸〉と〈外部空間=海〉
領域として存在している。さらに、ここでアッシェンバッハは美少年タッジオと運命的な出会いを果た
すのだ。彼らは決して言葉をかわすことはない。終始、その視線だけが絡み合う。タッジオは砂浜を歩
                                「美」と〈海=死〉との同一性
くほとんどの場合において、海を背景としている。水と美少年の主題は、
を暗示するのだ。砂浜を自由に歩き回るタッジオを見つめるうちにアッシェンバッハのタッジオへの関

                      114
心は次第に欲望へと変化してゆく。タッジオに心を奪われればそれだけ、アッシェンバッハは死へと近
づくというわけである。この時点ではアッシェンバッハはまだ海の破滅的な力に気付いていなく、ただ
               〈①導入〉
美少年の肢体を眺めるのみである。    においてこの映画が海上から始まるのは、海=死のイメー
ジとアッシェンバッハを重ねることで、アッシェンバッハがやがて死へと向かうこの物語の結末を映画
の最初から私たちに示唆するためであろう。
                      〈③中間部〉ではアッシェンバッハが一度は離れたリ
 トーマス・マンの言う「幸運な不運」によって、
              〈①導入〉
ドに再び戻ってくることになる。    と同様にヴェネツィアからリドへ向かう情景が繰り返される
のであるが、ここで現れるヴェネツィアはまさに〈海=死〉の領域に属している。この映画ではここま
で「ベニスに死す」というタイトルにも関わらずヴェネツィアの景色はほとんど見られなかったが、こ
のシーンでは死のイメージとともに鮮烈に現れるのだ。アッシェンバッハはグラン・カナーレを渡るこ
とによって生から死への、また理性から欲望への移行を果たすこととなる。          〈④
                                  欲望の強まりとともに、
オテル・デ・バンと砂浜2〉ではアッシェンバッハがタッジオを「見る存在」から「追う存在」として
捕らえるようになる。生と死の境界領域である砂浜の場面では、タッジオが何度もアッシェンバッハの
視線を海の方へと誘導し、死へといざなう。
 〈⑤展開部〉において、この映画の舞台はいよいよ迷宮都市ヴェネツィアへと移るのだ。この映画で
は、ヴェネツィアとは死と快楽の領域である。舞台が変化することは、アッシェンバッハが同性愛的欲
望に溺れ、死に接近する過程に対応しているのだ。曲がりくねって、歪んだ路地でアッシェンバッハは
ひたすらタッジオの後を追い続ける。ヴェネツィアの街は疫病のせいかほとんど人影はない。アッシェ
ンバッハはこの街の全体像を知ることはできない。ただタッジオの後姿を追いかけて迷宮都市の内部へ
と入り込んでいく。迷宮都市の内部とは、すなわち彼の内面的世界でもある。彼の精神は理性と秩序か
ら徐々に逸脱し、精神の地獄へとゆるやかに転落しているのだ。また、このヴェネツィアの彷徨のシー
ンではアジア・コレラの話や、消毒薬の散布、アッシェンバッハの娘の死のエピソードも挿入され、次
第にヴェネツィアの街自体にも死の雰囲気が漂い始める。
 〈⑥オテル・デ・バンと砂浜3〉では、もはや砂浜に人影はほとんどない。再び、アッシェンバッハ
の視線は海へと向かうタッジオを追うのだ。何度も何度も繰り返されるこの視線の移動が、次第に海と
死と美を一つのものにまとめあげる。アッシェンバッハのタッジオへの欲望、それはすなわち死への欲
望であり、これが最高潮に達したときに、彼もまた死に連れ去られるのだ。
 水の打ち寄せる音、朽ち果てそうな建物、微かな腐敗臭、美しいのに死の匂いが漂う街ヴェネツィア、
                              「      は一人の芸術家の、
この映画の中ではこの街もまた必要不可欠な役者のように思われる。ベニスに死す」
美と死への彷徨を描いている。美と死を同時に兼ね備えた街、ヴェネツィアにおいてこそ輝くテクスト
なのだ。


参考文献


                        、新潮社 1967 年
トーマス・マン「トニオ・クレーゲル ベニスに死す」
                  、新書館 1981 年
ルキノ・ヴィスコンティ「ベニスに死す」
                        、鳥影社 2000 年
若菜薫「ヴィスコンティ 壮麗なる虚無のイマージュ」
                   、講談社 1992 年
陣内秀信「ヴェネツィア 水上の迷宮都市」
                  、白水社 2000 年
クリスチャン・ベック「ヴェネツィア史」
                  、講談社 2004 年
「週間世界遺産 ヴェネツィアとその潟」

                       115
          映画『冷静と情熱のあいだ』で語られる都市


                     欧米第一課程ドイツ語専攻3年 6202348
                                     岡本 梨恵子




【参考】
                   (東宝 2001年)
 ・ 中江 功監督『冷静と情熱のあいだ』
 ・ 辻 仁成著『冷静と情熱のあいだ Blu』(角川書店 2001年)
 ・ http://www.excite.co.jp/event/jyonetsu/




 ある実在の都市を背景とした文学、映画について論じるということで、今回このレポートでは映画『冷
静と情熱のあいだ』を題材にした。またこの映画の2つある原作のうち、映画と同様に男性の視点から
描かれている方の辻仁成著の『冷静と情熱のあいだ Blu』も参考にしたが、今回は映画の方を中心に分
析している。まずはこの映画の中で語られている都市を見ていくための前提となる映画のストーリーを
簡単に紹介していくことにする。美術絵画の修復士を志す阿形順正は、フィレンツェの工房で修復の修
行に明け暮れていた。そばには芽美という恋人がいてそれなりに幸せに生きていた。しかし彼はかつて
愛した一人の女性、あおいのことがどうしても忘れられなかった。彼女は香港からの留学生で、常に冷
静で聡明であったが心の奥には情熱的な愛情を秘めていた。順正は二度とあおいと会うことはないと思
っていたが、ふとしたことをきっかけに彼女が今ミラノにいることを知って会いに行く。しかしミラノ
で会ったあおいは裕福な恋人と共に何一つ不自由のない生活を送っていて、全てが満たされていた。そ
こに自分の居場所はなく傷ついた順正は、さらに自分の修復していた絵画が切り裂かれて工房が一時閉
鎖されるという事件もあり東京へと帰っていった。帰国した順正だったがあおいを忘れるどころか、そ
の思いをさらに深めていった。その後工房も再開されたこともあり、彼は最後の望みである“あおいの

                                             116
30歳の誕生日にフィレンツェのドゥオモのクーポラで待ち合わせる”という10年前のあおいとの約
束を信じて再びフィレンツェへと向かった。そしてドゥオモで再会できてお互いの気持ちが確認できた
二人だったが、あおいは次の日ミラノへ帰っていった。一度は諦めようとした順正だったがやはりそれ
は無理であり、あおいより速く着く電車でミラノへ向かうのだった。これが映画の大まかな内容である
が、今説明してきた中にフィレンツェ、ミラノ、東京の3つの都市が出てきた。この映画の中ではこれ
らそれぞれの都市、場所が意味をもって描かれており、都市も非常に重要な要素の1つとなっている。
それらを自分なりの解釈も含めてこれから述べていくことにする。
 この物語の中の舞台の大半はフィレンツェである。だからこそフィレンツェにこめられているものは
大きいと思うし、実際に映画を見ていてそういうものを私は感じることができた。本の方にも書かれて
いるが作品全体を通してフィレンツェは、過去と共に生き歴史を守るために存在する街、また時間が止
まってしまって街全体が美術館のような都市として描かれている。後でまた説明をするが、この点が他
の2つの都市と大きく異なり対比されている。そもそもなぜこのような歴史と共に生きる過去の街にな
ってしまったのだろうか。14世紀にイタリアで起こったルネサンスはフィレンツェから始まった。そ
れ以来フィレンツェでは多くの作品が生み出され残されていった。しかし1966年にアルノ川が氾濫
すると、多くの芸術品が破壊されてしまったのである。そこでそれらを修復する技術がフィレンツェで
は発達し、修復士と呼ばれる人たちが、今も壊れたり古くなったりした芸術品を元の姿に戻そうと奮闘
しているのである。またここに訪れる観光客もそうした過去の建物や芸術品を見るために来ている。そ
                         「
んなフィレンツェという街を眺めて順正の修復の先生は、ここは誰もが過去の中で生きていて過去へ逆
行した街。歴史を守るために未来を犠牲にしてきた街。街だけではなくて、ここに生きている人たちは
       ここを守るためにその人生を捧げなくてはいけないの。
大げさに言えば、                       若者たちに新しい仕事はなく、
あるのは私たちのように遺産を守る仕事か観光業だけ。街はどんどん老朽化して、修復しても次から次
に壊れていく。                            」
       ここの人々は過去を生きていて少しも未来なんて無いのだから。 と語っている。私はフ
ィレンツェに行ったことはないが、映画の映像を見ているだけでもそんな雰囲気を感じ取ることができ
た。建物の屋根は低く、皆同じ色で統一されていて近代的なビルなんてどこにもない。同じく古い街と
いわれる京都ともずいぶん違う。静かでどんなことがあっても変わらないのだ。おそらく意識的にそう
撮ったのだと思うが、順正の絵画が切り裂かれるという事件のあった次の日でさえ、街は今までと全く
同じで何も変わっていないということを感じさせるように映し出されていた。この映画の題名を考える
とフィレンツェは“冷静”な街として描かれているのだろう。そんな街だからこそ順正がそこにいて修
復士をやっている意味が理解できる。順正が修復の仕事に今生き甲斐を見いだしているのは、修復士が
失われた時間を取り戻すことができる世界で唯一の職業ということに気付いたことによると述べている。
おそらくそれだけではないだろうが、順正がこの仕事をしていて成功しているは忘れたくない過去が自
身にあるからだと思う。それはもちろんあおいとの思い出だ。修復の仕事をしながらあおいのことやそ
の思い出を考えているシーンは実際にいくつかある。しかしかつて「再生」を意味するルネサンスを起
こしたフィレンツェで、そんな過去に浸っている自分を再生したいという思いもあるのかもしれない。
 今までフィレンツェ全体の都市像を述べてきたが、ここからは少し一つ一つの都市の中のものに目を
向けてみたいと思う。映画を見ていて目にとまったのは、橋を順正が渡るシーンが要所で出てきていた
ことだ。渡っているのは主にサンタ・トリニタ橋という橋で、初めは美しいフィレンツェの景色を見せ
るためにそういうシーンを入れているのだと思っていた。しかし物語の展開に注意しながら見ていると
何か重要な意味があるように思われてきた。最初と2度目は工房への行き帰りするときに出てきた普通
のシーンだったのだが、最初は修復士という仕事について、2度目はあおいという人物について順正が

                      117
述べているところだった。修復士、ましてやあおいはこの映画の中で中心となるものだから、それを知
                    この最初の2回は重要と言っても説明的なものだったが、
る意味でも非常に重要なシーンだったと思う。
あとの5回は順正の気持ちに変化があったときに登場している。3回目と4回目に出てくるのは中心地
から外れたサン・ニコロ橋という静かな場所にある橋だった。3回目に出てきたときは、工房が閉鎖さ
れたときに順正と先生が別れるときだったのだが、先生にあなたには未来があると言われるものの純正
は未来を見つけることができず東京に帰った。つまりこの橋を渡るところが、フィレンツェから東京へ
と帰る決意をした境界だったのではないだろうか。4回目は先生が自殺をして葬式に出るため一時的に
戻ってきた順正と、かつて工房で一緒に働いていた高梨が話しているシーンだった。ここで順正が修復
していた絵画を切り裂いたのが、先生だったいうことを聞く。そして工房が再開されると言うことも聞
いて順正はフィレンツェに戻る決意をするのである。だからここも順正が決意をするきっかけ、境界と
なったところであろう。次からはまたサン・ニコロ橋になるのだが、5回目のシーンは順正がもう一度
修復士としてやり直すために、そしてあおいとの約束のために前向きな気持ちでフィレンツェに戻って
きたところで流れる。6回目は順正が最後の望みとかけていたあおいとの約束がかなった次の日の朝の
シーンで流れる。そして最後は順正があおいの本当の気持ちを知って、あおいを追いかけて駅へと向か
うときに出てくる。橋というのはこちら側とあちら側をつなぐもので現実の世界でもそこを渡ると、渡
る前と少し世界が変わっているということはある。橋がもつそんな効果をこの映画では上手く使ってい
ると思う。それからこの映画の最初の方では何だか曲がり角が多く出てきた。特別フィレンツェは曲が
り角が多い街というわけではないだろうに一体どうしてだろうと思って見ていると、ここもやはり曲が
っているときには必ず順正があおいとの思い出を語っていた。順正はバイクを乗りながら曲がるため、
角ではどうしても速度が遅くなる。そうやって1つずつゆっくり角を曲がりながら、過去のことを思い
出しているかのようだった。橋もそうだったが、この映画の中では所々で都市の一部を、順正の気持ち
をかぶせながら描いていた。だから実際の都市のあるところが強調して描かれることもしばしばある。
もう1つ述べておかなければならないのはドゥオモだ。ドゥオモは実際もそうなのだろうが、愛や恋人
の象徴として描かれている。フィレンツェのドゥオモで誓った愛は永遠であると言われているから、1
0年前に順正とあおいはそこで会うことを約束したのである。そしてそのドゥオモでの約束が映画のテ
ーマとなっている。
 フィレンツェとは対照的にミラノは、時代の最先端と歴史がつくりだした芸術や建物が混在する都市
として描かれているが、映画では現代的な面の方が全面に出ている。通りは広くて車や人が多く、電車
も街の真ん中を走っている。歴史的な建物も残してはいるが、近代的な建物が立ち並んでいて遠くは見
えない。フィレンツェのドゥオモが街のどこからでも見えたのとはずいぶん違う。ミラノのシーンはさ
ほど多くはなかったが、まるで立ち止まって考えることが許されないかのように、すべての人や物が動
いているという感じが映像を一目見ただけで感じられた。フィレンツェが“冷静”な街ならば、ミラノ
                                  「ミラノでは中世の建築物
は“情熱”の街だと思う。本の中ではミラノのことを次のように述べている。
と近代のそれとが混じり合っている。遺跡や歴史的な遺産を多く持ちながらも、一方でここは世界の最
新のファッションの発信地でもある。しかしこの街にはフィレンツェのような統一感がなく、最先端の
                       」
文化に汚染されているような印象を感じてならない。 そんな現代的な街にあおいは暮らしていた。ジュ
エリーショップで働き、近代的な家に恋人と住み、高級レストランでパーティーを開くといった生活は
順正とは全く異なっている。過去を振り返ることなくまさに現代を生きているという感じだった。その
                       「昔のことは忘れたわ。
ことは順正がミラノにいるあおい訪ねたときの彼女の                    」
                                 今は幸せに暮らしている。
という台詞からもうかがえる。フィレンツェとミラノという街の違いが、そのまま順正とあおいの違い

                      118
になっているようだった。ただしあおいが順正からの手紙をサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会
の庭園で読んだり、ミラノの電話ボックスから順正に電話をかけたりするなどあおいが過去を回顧する
シーンは、非常に静かでミラノの歴史的な一面が感じられる。
 そしてこの映画で出てくるもう1つの都市、東京も重要な意味をもっている。東京はフィレンツェと
もミラノとも違う、時代と共に変化を重ねて時代の流れの中に生きる街として描かれている。東京は順
正が学生時代だったころと、フィレンツェから帰ってきたときの2回登場する。学生時代のころの東京
は、中古レコード店、喫茶店、大学、そして順正のアパートなどがあおいとの思い出と共に語られてい
る。そしてそれから8年後の東京は、渋谷の交差点など人も車も増えて発展した様子が映し出されてい
 思い出の中古レコード店や喫茶店はもうなくなってしまっている。
る。                            だからこの2つを見比べる限り、
一見東京が未来へと向かって走り続けているだけの街に思える。しかしこの映画の中で東京に込められ
ているものは、そうではなくもっと別にある。というのは東京は確かに変化しているのだが、その中に
も変わっていないものがいくつかあるからだ。中古レコード店はなくなってしまったといっても、店が
変わっているだけで建物自体は変わっていない。大学の思い出の場所は変わることなく残っていて、ア
               未来へと向かっていく一方、
パートも昔と同様に存在している。           過去を回顧することができる店や建物、
風景が残っているのだ。だから順正が東京に戻ったとき、昔のことを思い出しながらあおいに手紙を書
くことができたのも、過去にあおいが言わなかった事実を知って、あおいを思い続けることや再び約束
を果たすためにフィレンツェに行くことを決心できたのも、過去から未来へとつながっている東京だか
               “冷静”の街フィレンツェ、
らこそだったのではないだろうか。           “情熱”の街ミラノ、そして東京は“冷
静と情熱のあいだ”の街としてこの映画では登場しているのではないかと私は思う。
 今まで3つの都市を時間で比較しながら見てきた。そして特に自分なりの解釈もしつつフィレンツェ
という都市を見てきて改めて思うのは、実はフィレンツェは順正にとって過去だけの街として描かれて
いたのではなかったということだ。確かに全体的には過去に生きる街として描かれているのだが、はっ
きりと未来、そして現在という一面が見られる。例えばフィレンツェの代表的な仕事である修復士とい
うのは過去と向き合う一方、未来へと芸術品を届ける仕事ともいえる。ドォモの約束にしても、本の中
では順正の先生が「約束は未来だわ。      」
                 思い出は過去。 と言っていったように未来につながるものとうけ
とれる。そしてこの映画の中で一番重要なのではないかと思うのは、このフィレンツェにおいて順正が
過去でも未来でもなく、最後に現在を見つめ直したことだ。あおいを追いかけて駅へ向かうシーンでは
順正の気持ちは“冷静”から“情熱”に変わっており、それにともなってフィレンツェという都市の映
し方もそのように変わっていたように思う。順正自身がラストシーンで「ぼくは過去を蘇らせるのでは
                                  」と語る。つまりここで私
なく、未来に期待しすぎるのではなく、現在を響かせなければならないのだ。
が言いたいのは、フィレンツェは客観的にみたら過去を生きる街でしかないが、それを見る人の心の変
化によって未来にも現在にも変り得るように描かれていたのではないかということだ。そしてこの映画
では過去でも未来でもなく、現在に目を向けることの大切さを教えてくれる都市としてフィレンツェが
あったのだと思う。




                      119
水曜2限・地域専門・レポート
『冷静と情熱のあいだ』
              欧米第一課程・ドイツ語専攻 3 年 6202549 宮田 悠


『冷静と情熱のあいだ』の舞台となるのはイタリアのフィレンツェ、ミラノ、そして東京世田谷である。
3つ都市はそれぞれに異なる外観を持っている。中世で時がとまったような街フィレンツェ、中世の歴
史的風景と近代の都市が混ざり合ったような街ミラノ、そして高層ビルが立ち並ぶような都市の喧騒か
らは逃れつつも東京という空気が流れる街、世田谷である。これらは主人公の青年、阿形順正とその昔
の恋人あおいをつなぐ重要な都市である。
物語は順正とあおいの二つの視点から描かれている。現在から過去へ、そして一方では現在から未来へ
とストーリーは展開し、舞台となる都市もまた時の流れとともに移動してゆく。物語の起点は、学生だ
った順正とあおいが付き合っていたころの約束から始まる。それはあおいの 30 歳の誕生日にフィレン
ツェのドゥオモ(大聖堂)で会おうというものであった。その後順正とあおいは、あおいの妊娠そして
中絶という出来事をきっかけに別れを迎える。順正とあおいは現在 27 歳、そんな悲しい過去を持つ二
人が、過去を思いつつ現在を生きる、その視点から物語は描かれている。このような様々な思いを抱き
つつ生きる二人の感情と、各々から見た都市、そのイメージについて論じてみたいと思う。
現在、順正はフィレンツェ、あおいはミラノにいる。物語のはじめは、現在あおいの住むミラノから始
まる。あおいはアメリカ人の恋人マーヴと同棲生活をしながら暮らしていて、彼女の日常の時間の流れ
は非常に緩やかである。ミラノの街の昼下がりのカフェの賑わい、そこら中で聞こえるおしゃべり、ウ
ェイターのきびきびした動き、煙草のけむり、こうした街の描写はミラノの古い時代と近代とが絶妙に
混ざり合った風景を連想させる。あおいが住むアパートの描写のなかにも“古めかしい外観とはうらは
                         “窓を開けると柳並木の裏通りがあり、狭い路
らに完璧に温度調節がされ…”とある。またその他にも、
地なのに両側に車がぎっしりお路上駐車してある”など、これもまたレンガ色の住宅地のなかで人々が
近代の流れに遅れることなく生活している様子が伺える。あおいの住む近辺には、映画館、ジム、図書
館、レストラン、公園、勤務先のジュエリー店など、生活するには十分なものが街には揃っている。夜
は街灯の明かりに照らされて街路樹の緑がにじんで見えたりもする。近代の交じり合う街の中であおい
の時間の流れがゆっくりと流れるのは、彼女の活動範囲が限られていて、同じ場所へ行き、同じ行動を
し、毎日が同じように過ぎていく為であると思われる。そのあおいによって描かれる街もまた、初めて
                 毎日訪れて入るからこそ見える、
その場を訪れるといった見方ではなく、             そんな視点から描かれている。
彼女が勤めるジュエリー店でも時代の波が押し寄せている。アンティ-クジュエリーからオリジナル・
ジュエリーへと流行が変化している。これらの近代化という時代の流れと、過去に縛られ、時に逆行す
                        これがあおいの心の葛藤を浮き上がらせている。
るようなあおいのゆったりとした生活は対照的であり、
あおいは順正を忘れられず、幸せを感じながらもどこか空虚で、心は別の場所にあるのである。こうし
たミラノの描写から順正を忘れられず、彼と過ごした時の記憶とともに、日々の生活の中で時間の流れ
に逆らって生きているあおいの姿が想像できる。
一方、順正は現在フィレンツェにいる。そして“過去を未来に伝える仕事=絵の修復士”という仕事を
しながら、               “この街にはいつだって光りが降り注いでいる。
     形式上の恋人芽美と過ごしている。                     ここに来
てからぼくは一日たりとも空を見上げなかった日はない。青空はどこまでも高く、しかも水で薄めた絵
の具で描いたように涼しく透き通っている。霞のような雲はまるで塗り残した画用紙の白い部分みたい
にその空の中を控えめに漂い風や光と戯れるのを喜んでいる”という順正のフィレンツェの描写は、感

                         120
情から逃げるように、そして考えることも放棄しているような、そんな順正の心の表れであるように思
える。大聖堂の壁には太陽が注ぐ光と影がみえ、そこには中世の姿そのものが表れ、その時代の人々の
意識を感じることができる。そんな大聖堂のそばに立つのがドゥオモであり、これが順正とあおいをつ
なぎとめる唯一のものであると同時に、順正とあおいの現在の心理状態を作る全ての源である。ドゥオ
モはフィレンツェの街の真中に聳えており、どこからでも見ることができる。天才建築家ブルネッキス
によって掛けられた円蓋ク-ポラはスカートを膨らませたような中世の貴婦人を思わせる。花の聖母教
会とも呼ばれるこの大聖堂の白と緑とピンクの大理石で装飾された外観は威厳と優雅さで溢れ、見上げ
るものを圧倒する。夕方には夕焼け色ドゥオモのク-ポラが夕焼け色に染まる。そんなドゥオモをみる
たびに順正はあおいを思い出す。                  30
               それは順正とあおいが幸せだったころ、 歳になったらフィレンツェ
のドゥオモを一緒に上る、という約束によって引き戻される思い出であった。このフィレンツェの街が
時間を止めてしまった街であるがゆえに、順正は過去から逃れることが出来ない。順正もまたあおいと
同じように、不幸ではないがなんとなくもやもやしたような状態にあり、それがフィレンツェの透き通
る青空と対比されいっそうはっきりと浮き彫りになっている。
フィレンツェはルネッサンス発祥の地で、近代的なビルを探すことは不可能に近い。まるで 16 世紀以
降時間を止めてしまったようであり、街全体が美術館のようになっている。冬は暖房が効かず、夏はそ
の逆で風が抜けずに暑い、そんな街である。この街で順正は、自分はあおいとの過去から逃れ“再生”
できるのか、と自分に問う。しかし、フィレンツェには人を急がせるような要素はまるで無い。ミラノ
のあおいとは対照的に無理に逆らおうとしなくてもこの街では時が止まったように、実にゆっくりと時
       “この街はいつだって光が降り注いでいる”
がながれている。                   というように、順正はその中で約束という
静かな希望を抱きつつ生きているのである。
舞台は変わり、あおいのいる 5 月のミラノにうつる。雨が降り続き冷たく湿った空気がミラノの街を包
み込む。狭い通りには路上駐車の車がぎっしりと並び、雨にぬれて光っている。いつもの風景と一変し
た街の様子が、あおいの心の動き、幸せが微妙に崩れるひとつのきっかけを暗示するかのように描かれ
ている。雨が上がるとまた明るい情景が描かれる。サンタマリア・デッレ・グラツィエ教会の中庭は 4
本の白木蓮と 4 匹の蛙が噴水を取り囲んでいる。澄んだ空色を背景に白い漆喰とレンガが日を受けてま
ぶしいほどに光っている。その風景が、またあおいに普通の幸せを運んできたように思える。
一方のフィレンツェでも雨が降っていた。アルノ川の水嵩は増し流れが速くなっている。その雨もまた
順正の心を不安定にさせていた。順正の働く工房はヴェッキオ橋の傍にあり、四方を石壁に囲まれてい
る。歴史的な中世の作品が無造作に放置されている。とてつもなく価値のある絵画の補修、非常に細か
い作業と集中力の中で、ふとした瞬間あらわれるのはあおいとの思い出であった。雨が上がったアルノ
川河畔にはオレンジ色の街灯が通りを赤く浮かび上がらせている。この暗さの中の温かみのある光は順
正の心の中と重なって、彼の中のあおいの存在をいっそう大きくしていたように感じられる。
                             「今日はどんな一日でしたか」
時に翻弄されつつ生きている順正をはっきりと描いたフレーズは、             と聞か
れた順正が「Era una giornata come quella di ieri」
                                          (昨日にそっくりな一日でした)と答え
る、という様子から伺える。「僕達はいつだって昨日に戻ることができそうにない。昨日は少し前のこと
なのに、明日とは違い永遠に手の届かない場所にあった…。」この表現から彼が時を前に進むことが出来
ずに、あおいのことを引きずって生きていること、それゆえ順正の目に映るフィレンツェの街の空気は
他の人以上に非常にゆっくりと流れている、ということが分かる気がする。また、時間が止まったよう
な街フィレンツェだからこそ、順正はいっそう未来へと進むことができずに、このような思いを抱いて
しまうのかもしれないとも思える。

                            121
フィレンツェの順正の工房の前の通りを 50 メートルほど辿るとパラッツィオ・ピッティの重々しい立
面が姿を現す。フィレンツェでも名高い大商人ルーカ ピッティが 15 世紀後半に作らせた私邸である。
                        ・
ピッティ宮の中にはパラティーナ美術館があり、たくさんのラッファエッロの絵が飾ってある。順正は
中でも「大公の聖母子」を気に入っていた。順正はこの聖母にあおいの姿を重ね合わせていたのかもし
れない。「絵画の持つもう一つの時間、この絵の前では人々は余りにも短すぎる人生しか持っていない。」
ここでもまた、彼が時間というものを常に意識し、感じていることが分かる。
ドゥオモのク-ポラは順正とあおいの時間の中心軸になっている。フィレンツェのドゥオモはヴェッキ
オ橋を渡り、観光客の集まるシニョーリア広場のなかをチェントロへと進み、賑やかなカルツァイウォ
リ通りを抜けた所にある。太陽の光はドゥオモを赤く染め神聖なものに感じさせる。このドゥオモの前
を通るたびに順正はあおいとの約束を約束を思い出す。約束は未来であり、思い出は過去である。しか
し、順正はかすかな未来に期待しつつも過去にとらわれ逃れることが出来ないのである。上記でのべた
ように、フィレンツェの街は過去に逆行した街である。誰もが過去の中に生きていて、京都やパリにで
さえある近代的な高層ビルなどはどこにもない。中世の時代からぴたっと時間を止めてしまった街であ
り、歴史を守る為に未来を犠牲にしてきた街、それがフィレンツェである。古い建物の外観をそのまま
残していて、歴史的美観を損なわないように街全体が保存されている。この街で生きる人々は大げさに
言えば、このフィレンツェを守るためにその人生の全てを捧げなければいけない。若者達にあたらしい
仕事はなく、順正のような遺産を守る仕事や観光業しかない。税金のほとんどは街の修復に当てられて
いる。街はどんどん老朽化し、修復しても次から次へと壊れていく。そして冬は寒く夏は暑い。それで
も人々は過去を生きていくのである。この街にいれば、順正は人々と同じように過去を生きることがで
きる。しかし、順正には約束という未来がある。自分には未来があるということを、この街の中にいる
からこそ順正は気づくチャンスがあるはずだ、とも思える。
東京の五月は、梅や桜が開花する三月や四月よりも新しい木々が一杯に広がりすがすがしい。どこも同
じように見える無機質な街の中でこの緑は人々を和ませる。順正あおいと出会った大学時代に澄んでい
たのは世田谷の梅丘の古びたアパートであった。アパートは小さいけれども居心地が良かった。小田急
線沿いののどかな住宅街で近くには羽根木公園がある。窓からはその公園の長い階段と木々がみえる。
この部屋には順正とあおいの思い出があった。溢れ出た愛情、信頼、情熱とともにある幸福な記憶、そ
して最後に順正とあおいが別れることになった記憶もそこにはあった。悲しい記憶から描かれるアパー
トからの風景は、冬の雨のにおい、雨で濡れた枯れ木、などといった風景である。
東京という都市は未来へと傾斜している。どんどんと立て直されていくビルは未来のシンボルのように
高く聳え立っている。未来へと向かうこの地では過去は切り捨てられているのである。世田谷周辺の駅
は車や人々で賑わい、通りにはカフェ、レストラン、花屋などがたちならんでいる。特にレストランや
洋服やなどは移り変わりが激しく、建てられては消え、また新しいものが登場する。そのような中で人々
                        フィレンツェやミラノとは全く状態を異にする。
の記憶に残りつづけるということは非常に困難であり、
順正は恋人の芽美とともにミラノを訪れた。秋深まる大都市は雲が濃厚に空を覆い隠し、薄暗くなって
いた。湿った空気が歴史的な建造物の硬い表面に染み込んでいっそう辺りを薄暗くさせていた。人々は
足早に歩き、東京にも似た風景が見られる。ミラノの街には近代的な建物がいくつも建ち並び、空も小
さい。ミラノの街で感じる閉塞感は近代建築の粗雑さが歴史的なただずまいに混ざってしまっているせ
いであろう。ミラノは、遺跡や歴史的な遺産を多く持ちながらも、一方では世界の最新ファッションの
発信地でもある。しかし順正は、ミラノの街には統一感が無く、最先端の文化に汚染されているといっ
た印象を持った。フィレンツェには近代的なビルなどはなかったし、順正が修復士という、過去と向き

                       122
合う仕事についているからかもしれない。ミラノの人々はフィレンツェの人々とは違い、未来に向かっ
て生きているのである。ミラノのドゥオモはフィレンツェのものよりも華やかである。数え切れないほ
どの小尖塔が伸びている。内部は外の華やかさとは反対に薄暗く、巨大なステンドグラスが厳かな雰囲
         人々はここで信仰の尊さに目を奪われる。
気を作り出している。                 順正はそんなドゥオモを見上げながら、
自分は過去を追いかけていいものか、未来を信じるべきか迷っていた。あおいの 30 歳の誕生日にフィ
レンツェのドゥオモで会うという、自分だけが覚えているかもしれない約束を胸にしまい、順正は過去
に引きずられて生きている。
順正はフィレンツェへと帰る。背の低い穏やかで統一感のある街並み、周囲の建物より高く聳え立つ大
聖堂は国王のような風格をもって順正を出迎え、ミラノの大聖堂のきらびやかな美しさとは全く対極の
荘厳な外観は日本の京都を思わせ、順正を落ち着かせた。そして、とうとうあおいの 30 歳の誕生日が
くる。様々な気持ちが交錯する中、最終的に順正は芽美を捨て、そしてあおいはマーヴを捨て過去、そ
して未来を求めてその日フィレンツェのドゥオモへとやってきた。ドゥオモのなかは薄暗く、空気はひ
やりと湿っていた。らせん状の階段をのぼると、頂上が近づくにつれ新鮮な空気の匂いがする。この階
段は一段づつ頂上へ、そして過去へと向かっていた。二人にとって、未来は結局この過去の先にしか見
つけることのできないものであったのである。過去を見つける街、それがフィレンツェであった。
こうした過去・現在・未来という観点から見たとき、街や都市は非常に意味の深いものになると思う。
時間はそこに生きる全ての人々と結びついていて、そして人々が生きる街と共にそれにまつわる様々な
感情までも呼び起こす。また、街の中のある風景は、ある人にとっては幸せな思い出であり、ある人に
とっては悲しい思い出であったりする。イタリアの街は、時とその街とが深く結びついていて、特にフ
ィレンツェはその傾向が非常に強い。一方、世田谷の梅丘という街は東京の中でも移り変わりがそう激
しくはない街であると思う。昔ながらの商店街や古い住宅がそのまま存在して場合もある。しかし、東
京の中心ともなれば街の移り変わりは絶えることがない。以前まであったお店がなくなっているという
ことは頻繁に起こりうる。イタリアの街と東京を比べると、時としっかり結びつきゆっくりと流れるイ
タリアの街は、非常に素晴らしいと思える一方で、東京という、常に過去を振り返ることなく未来へと
進み、先を急ぐ街というのも悪くはないと思える。未来へと進まなければならない時、この街は非常に
早い流れで人々を導いてくれることもあるのではないかと考えるからだ。人と都市と時間は密接に関わ
っていて、それぞれが互いに影響を及ぼすものであると思う。その関わりあいは、その人の人生を彩り、
豊かなものにするだろう。自分の周りに見える都市というものがこれからの人生においても非常に重要
な役割を占めるのだということを考えさせられた。


参考文献・資料:
映画『冷静と情熱のあいだ』
小説『冷静と情熱のあいだ』~Calmi Cuori Appassionati~ 辻仁成/江国香織(角川書店)2001




                            123
『不夜城』における歌舞伎町という都市
欧米第一課程 ドイツ科 3年 6202578         竹山 有紗


今回のレポートを書くにあたって私は『不夜城』を題材に選んだ。理由は授業内で先生が勧めていたこ
とと、歌舞伎町が舞台の作品だったことである。新宿は私がしばしば訪れるだ。しかし何故か歌舞伎町
             ごくたまに歌舞伎町にも行ってみるが、
の方にはあまり足が進まない。                どうにも落ち着かない気がする。
やはり危険だというイメージが定着してしまっているのだろうか。この不思議な町を舞台にどんな物語
が繰り広げられているのか。このようにして私は『不夜城』に興味を持ったのである。
この小説のおおまかなあらすじは以下の通りである。日本を代表する繁華街、歌舞伎町はもはや日本人
ではなく、上海、香港、台湾などが入り混じった中国人の勢力圏と化している。そんな町で台湾人と日
本人のハーフである(以下半々と呼ぶ)劉健一は様々な組織の中を潜りながらも仕事をこなしていた。
そんな中、上海マフィアのボスである元成貴の片腕を殺して歌舞伎町を離れていた健一のかつての相棒
の呉富春が、再び歌舞伎町に舞い戻って来る。健一は元成貴に富春を三日以内に捕まえるように脅され
る。一方、健一は富春の恋人という夏美と名乗る女に出会い、富春を売りたいと言われる。富春の方は
元成貴に捕まったと勘違いして、夏美の行方を追う。この状況に夏美と手を組み、富春に元成貴を殺さ
せることを思いついた健一は様々な策を巡らせながら、多くの組織、例えば香港グループや福建グルー
プを巻き込み、情報を売ったり買ったりしながら歌舞伎町を混乱に陥れるような事件を起こしていく。
複雑に絡み合った人間関係を歌舞伎町という町がより複雑に迷路のようにしている。
今現在の歌舞伎町のイメージを説明すると、東京都新宿区南部にある町で、飲食店、映画館、劇場など
が集中している歓楽街といったところだろうか。また、犯罪多発地域であり、年がら年中警察のパトロ
ールがある危険地帯である。昼間は割と静かだが、夜になると店が開店し、風俗店などの客引きや、酔
っぱらいなどで一気に騒がしくなる。ネオンが煌々と光り、派手だが、どことなく汚い印象を受ける。
その一方でかの有名なコマ劇場などの大衆文化の中心地であり、情報の発信地でもある。
では『不夜城』の中での歌舞伎町はどうであろうか。上で書いたような表向きの歌舞伎だけではなく、
もっと深い部分の歌舞伎町が描き出されていると思う。一歩裏に入ると、ドラッグや拳銃が密売されて
いたり、暴力沙汰や殺人さえも起こっている町であり、眠らない町、まさに不夜城として描かれている。
私達には見えない裏の歌舞伎町が存在しているのである。また、日本の中心地であるのもかかわらず、
実は中国人達が支配している町なのである。ただでさえ私達からは見えにくい裏の歌舞伎町を実は中国
人は牛耳っているとしたら、大変な驚きである。日本は中国の植民地でも、勢力圏でもない。にもかか
わらず、日本のど真ん中の繁華街は中国人の手に渡ってしまっているのだ。実際に中国人が歌舞伎町を
支配しているのかは私にはわからないが、そのようにこの小説の中で描かれていることは衝撃的である
と同時に大変興味深い。
ではなぜこの小説の中で歌舞伎町が舞台になったのだろうか。自分自身で色々考察してみた。以下が私
の見解である。まず、歌舞伎町のイメージは何と言ってもごちゃごちゃしていることが挙げられるであ
ろう。主人公の健一は何とか自分の計画を成功させるために、保険と称して様々な組織グループに情報
を売ったり買ったりして、時には手を結びながら渡り歩いていく。健一のこの行動にとって歌舞伎町の
ごちゃごちゃした感じは非常に都合のいいものなのではないだろうか。さっぱりした閑静な町では健一
の行動は手に取るようにばれてしまうだろうし、躊躇してしまうだろう。しかし歌舞伎町の中であるな
       あの空間では人一人の行動に注目することは困難であり、
ら話は別である。                        人混みの中では目立たない。
歌舞伎町は健一を動かすのに最も適した町なのである。健一だけではない。その他の登場人物も裏で動

                         124
いていたりする。そういった場面には歌舞伎町が都合がいい。また人間関係のごちゃごちゃしているの
で歌舞伎町と似ているのである。この小説の中では歌舞伎町は台湾人、上海人、香港人が権力を振りか
ざしていることになっている。この三人種がやがてごたごた事件を巻き起こすのである。この舞台に歌
舞伎町は何の違和感もないと思う。しかし、歌舞伎町が舞台である最大の理由は歌舞伎町が主人公の健
一の心の中と同じ状態であるからではないかと考えている。つまり健一の心は歌舞伎町のように複雑で
ごちゃごちゃしているのである。健一は父親が台湾人で母親が日本人の半々である。しかし父親を早い
うちに失い、母親は完全に親という立場を放棄した生活を送っており、時には健一に暴力を振るうこと
もあった。このように両親の愛情を受けずに育った健一は楊偉民の世話になる。本当の身内のように楊
偉民を信用していたのだが、台湾語を教えてもらえなかったことなどから楊偉民の愛情が偽物であると
悟る。その頃健一は健一に対して激しく嫉妬心を燃やす呂方を殺してしまう。それはあくまで自分自身
を守るためだった。しかし楊偉民はそのことを決して許さなかった。健一を身内から追い出したのであ
る。再び孤独になった健一は誰のことも心の底から信じることはなく、自分が生き残るためには平気で
人を裏切るようになった。このような複雑な背景を持った主人公を描き出すためには歌舞伎町が最適で
あると思う。
この小説の中には歌舞伎町だけではなく他の都市も出てくる。例えば、主な町として中野、池袋、大久
保、飯田橋が挙げられる。中野は健一が弟分である天文と話をするために指定した場所である。歌舞伎
町から中野までは靖国通りを西へ真っ直ぐ進めば着く。中野は池袋と同じで福建人の縄張りである。こ
こはよほどのことがない限り元成貴も他の組織の連中も手を出すことはない町である。元成貴を抹殺す
るという極秘の情報を天文に打ち明けるには最適の場所なのではないだろうか。大久保は始めに夏美が
身を潜めていたアパートの場所である。歌舞伎町と大久保は目と鼻も先にあるので、身を隠すには少し
不適切な場所のような気もする。結果として、夏美はすぐに健一にアパートを探り当てられているし、
鍵まで開けられて中を物色されている。富春から逃げていて、これから危険な道に入ろうとしている女
性がそんなに見つかりやすく鍵もすぐに開けられるような古いアパートを借りるだろうか。私は夏美は
最初から健一をおびき寄せるつもりだったのではないかと思う。そうでなければ正直に待ち合わせの場
所に本人が来て、後をつけられるようなことはしないだろう。すぐに夏美の居場所を探らせるために大
久保にアパートを借りたのではないだろうか。実際に健一はすぐにアパートを見つけているし、夏美は
他にもマンションを持っていた。健一と出会うために夏美に選ばれたのが大久保という町である。次に
飯田橋であるが、飯田橋は健一が借りているマンションがある場所である。歌舞伎町から飯田橋までは
総武線なら一本であるが、かなりの距離がる。今まで挙げた中野や大久保とは違って、歌舞伎町から離
れた都市は飯田橋だけである。ここで飯田橋が特別な場所であるということが理解できる。夏美に会っ
た直後健一は彼女を飯田橋のマンションに連れてきている。ここは健一以外、健一が借りていることを
知らないマンションである。人を隠すにはもってこいの場所であり、健一自身隠れ家のように使ってい
たのではないだろうか。健一は歌舞伎町はいつ危険が起こるかわからないので、決して気が抜けない町
であると言っていた。だから、そんな緊張から自分を解き放つために飯田橋にマンションを借りたので
ある。健一だけの特別な場所として飯田橋は描かれているように思う。しかしい、健一は富春にこの場
所を教えて、ここに隠れているように指示する。その場面で健一は次のように言っている。“富春に飯田
橋のマンションの場所を教えてやった。これでもうあの部屋は使えない。だが、背に腹は替えられない。
この件がうまくいったら、新しいマンションを探せばいいだけのことだ。”飯田橋は健一を安心させる唯
一の場所であるが、それと同時に歌舞伎町で生き残るための手段なのである。飯田橋のような身を隠す
ための町はいくらでもあるが、歌舞伎町はただ一つしかない。上で挙げたような、中野や池袋、飯田橋

                      125
を健一が使ったのは、健一が歌舞伎町で生き残るためである。元成貴を殺すというこの計画を成功させ
なければ、歌舞伎町に健一の居場所は無くなる。それだけを健一は怖がっているのだ。歌舞伎町は落ち
着かないと健一がこぼしている場面もあったが、結局は健一は歌舞伎町から離れる気は全くないし、ま
た、離れられないのである。
歌舞伎町自体の話をしよう。歌舞伎町は正真正銘の人工的に造られた歓楽街である。歴史的に見ると、
江戸時代の幕末期、歌舞伎町のあたりは鴨が飛来する沼地であり、現在の中心地である劇場街の方形の
                 この湿地帯は埋め立て地であり、
中央広場あたりが沼の中心部であった。             府立の高等女学校が建てられ、
戦前は新宿駅から靖国通りの方へ女子学生が溢れていた。しかし、戦争によって空き地と化した。戦後、
この地で佃煮屋や仕出し屋を経営していた鈴木喜兵衛は指揮を取り、一大歓楽街の建設が計画される。
劇場街の一画に最新設備を備えた歌舞伎劇場を建設するつもりだったのだが、資金面や、歌舞伎興行界
との折り合いが上手くいかず、劇場建設は結局実現しなかった。その町名だけが今に残り、歌舞伎町の
由来となっている。また、歌舞伎町は傾く(かぶく)という意味も持っており、この言葉は普通の人間
とは違って、傾斜の強い人間を意味している。傾斜の強い人間が集まる町、これほどぴったりの町は歌
舞伎町以外に見つからないであろう。この正真正銘の歓楽街の中では、流れる時間も人によって異なっ
てくる。歌舞伎町という町は人の時間さえも操ってしまうのである。例えば、健一と楊偉民では時の流
れの速さが全く違っているふうに描かれているように思う。富春を捕まえるのに三日という期限をつけ
                            健一の方が時間の流れは速く感じるし、
られた健一と歌舞伎町の支配権を握っている楊偉民ではやはり、
楊偉民はゆったりと時が流れているように思える。ただでさえ、三日という期限をつけられれば、焦る
ものだが、さらに歌舞伎町という町が健一に焦りと不安を与え、健一に時の流れの速さを感じさせてい
るのである。一方、歌舞伎町を裏で牛耳っている楊偉民にとっては、何が起ころうと自分の力で支配す
ることができるとわかっているので、余裕が滲み出ており、楊偉民には歌舞伎町での時間はゆったりと
流れるものなのである。このように人によって時間の流れの速さが違ってくるのは歌舞伎町の不思議と
も言えるのかもしれない。
次にこの小説に出てくる実際の場所について述べようと思う。不夜城には多くの実際の建物や通りが描
かれている。例えば、健一と夏美が待ち合わせをした風林会館、しばしば背景描写に出てくる靖国通り、
職安通り、明治通りや新宿区役所やコマ劇場などである。とりわけこの3本の大きな通りは歌舞伎町を
囲む通りであり、重要な通りとなっている。しかし歌舞伎町の配置には少し違和感を感じる。公的な場
所、つまり例えば新宿区役所の裏にストリップ劇場があったり、コマ劇場の周りにたくさんの風俗店が
あったりする。人間の欲望を満たす商品が時間と場所をかき回し、秩序の型を破って露出してしまった
のが歌舞伎町という町であり、その絡まった複雑さや狂いざまが我々を混乱させ、ひどく疲れさせてい
るのかもしれない。中国や台湾などの日本と同じ東洋文化圏の人間からも「違和感がある」とか「疲れ
る」などと私指摘されるほど異界を形成している奇妙な配置をしているのが歌舞伎町なのである。この
違和感は西洋人にはわからないであろう。恐らくこの歌舞伎町をエキシチズムの一環として捉えるに違
いない。しかし日本人と同じ文化圏に住む中国人や台湾人は同質の根っこが同じの思想や宗教や規律を
持っている。よって歌舞伎町の違和感がわかるのである。この違和感の上に不夜城という嘘や騙しあい
で溢れた物語を持ってくることは成功であったと言えよう。ただでさえ北京人、上海人。台湾人が交わ
り合い、ドラッグや拳銃が溢れる複雑な物語を歌舞伎町という配置に違和感のある町を舞台にすること
によって更に複雑さが増し、物語に深みが出ていると思う。
では、この不夜城を映像で見るとどうであろうか。まず、映画では歌舞伎町の日常のシーンから始まっ
ている。風俗店の客引きやちんぴら、酔って嘔吐する中年男性、妙に派手なネオン。ここで歌舞伎町が

                      126
どのような町であるかを紹介しているのである。そして本編が始まるのだが、やはり原作が長編なので
映画ではかなりの部分が省略されていた。そこはとても残念に思う。しかし、小説で読んだものを映像
で見るとやはりイメージがくっきり見えるようになるので、よりリアルに不夜城を理解することができ
た。また印象に残った場面としては歌舞伎町のオープニング、靖国通りでの銃撃戦、レインボーブリッ
ジを背景に芝浦埠頭のラストシーンが挙げられる。これらの場面はこれまで撮影不可能と思われた場所
での大規模なロケを敢行したということである。原作では最後健一が夏美を撃つのは歌舞伎町を走る車
の中なのだが、映画では芝浦埠頭の海が見えるところであった。今までずっと歌舞伎町を舞台にしてき
たにもかかわらず、なぜ最後だけ他の場所にしたのかは不思議だったが、より美しいシーンを作り上げ
るためだったのだろうか。また、最後の場面では雪が降ってくるのだが、ここは原作にはないものであ
っった。しかしこの最後の雪は愛した男に殺される夏美の悲劇をより鮮明に残酷に映している。
今まで色々と述べてきたが、最終的に私が言いたいことは、この物語においては歌舞伎町の役割がとて
も大きいということである。様々な人間が入れ替わり立ち替わり登場する上に、日本において中国人が
支配権を持っている町という設定である。この設定にはやはり日本一複雑な町である歌舞伎町を舞台に
するのが最も適切であると思う。歌舞伎町の緊迫感や危険さがあって初めてこの小説を素晴らしい作品
に仕上げたのである。この不夜城という小説にとって歌舞伎町は不可欠な存在であり、歌舞伎町が不夜
城を作り上げたと言っても過言ではないと思う。




                         127
水曜2限『テクストの中の都市、テクストとしての都市』
前期レポート
欧米第一課程ドイツ語専攻
6202651 篠田苑子


                        都市と人

               ~映画『ナイト・オン・ザ・プラネット』を見て~


 地球上にはさまざまな都市が存在し、住んでいる人も話される言葉も時間も違う。しかし、当然の事
ながらそれらは同時に存在し、時差という概念で分けられているが、同じ時間を共有しているのだ。普
段われわれが意識するのは自分の存在する都市、もっと限定して言えば自分の半径数十メートル程度で
ある。つまり、視覚の届く範囲である。メディアや電話などを通してはじめてリアルタイムに他の都市
を意識する。しかし現実に今、地球上の別の都市で、同じように日常を送っている人々がいるのだ。
 『ナイト・オン・ザ・プラネット』はまさにこのことをテーマにした映画である。俯瞰的に地球を捉
え(世界地図だが)、同時刻に、ロサンゼルス、ニューヨーク、パリ、ローマ、ヘルシンキの都市の現在
を切り取っている。面白いのは各都市共通してタクシードライバーの視点から描かれている事だ。同じ
タクシードライバーという仕事でも、走る都市が違えば風景も、出会う人間も、感じることも異なる。
もう一つ共通するのが夜という時間。この時間には、そこに生活する人々でさえ気づかない街の姿があ
る。


 P.M7:07、ロサンゼルス。最初に登場するこの都市のタクシードライバーは 20 歳そこそこといった
若い少女。だぶだぶのシャツに、ずるずるのズボン、後ろ向きにかぶったキャップ。常にガムをくちゃ
くちゃさせながらタバコをふかしている。対するお客は 40 代半ばといったところだろうか、上質なワ
ンピースに高級なスーツケースをいくつも持ったキャリア・ウーマン風な女性。手にした携帯電話で絶
えず仕事の打ち合わせをしている。行き先はビバリーヒルズ。ハリウッド・スターも住む超高級住宅地
だ。全く対照的な二人の女性の姿がアメリカという国の、特にロサンゼルスという町の都市構造を伝え
る。そこには貧富の差、といってはやや直接的だが、確かに労働者階級とエリート階級が同時に存在し
ている。
        車は少ない。
 道路の幅は広く、    道の両サイドにドライブスルーを設けた大型の飲食店のネオンが光る。
社内では客の女性が携帯電話で話しており、その内容から彼女が映画の配役をキャスティングするエー
ジェントであることがわかる。思うような人材が見つからずにいらだつ彼女に関心を示そうともせずド
ライバーはタバコを吸いながらただ自分の仕事をこなす。当初はドライバーの粗雑さに戸惑っていた女
性だったが、やがて彼女の相手を気にせず、ありのままの自分で他人と接する姿に興味を持ち出す。そ
して彼女と会話するうちに、その個性と整った容姿に目をつけ、あることを思いつく。
 タクシーは道路を抜け、閑静な住宅街へ。街灯の明かりが人気の無い高級住宅地を照らす。目的地に
到着し、トランクから荷物を運ぶドライバーに客の女性が話し掛ける。彼女が現在扱っている新作映画
の主役にスカウトしたのだ。しかしあっさりと断られてしまい、             「若い女
                             女性は軽くショックを受ける。
性なら誰でもハリウッド・スターにあこがれ、労働者階級の人々は皆大金持ちになることを夢見ている
   」
はずだ。 彼女の頭の中にあったのはこういうことだろう。しかし、ドライバーには機械工になる夢があ

                         128
り、                                        「ハリウ
  タクシードライバーという仕事はその夢を実現するために計画された第一段階だったのだ。
                                        」と言う。
ッドにあこがれる女の子はたくさんいるだろうが、自分は機械工になる夢に変えられない。
 ロサンゼルスにはハリウッドがある。多くの人々の夢が生きる世界。普通の人間が明日のスターにな
れるかもしれない可能性を秘めている。しかし、この街で人々は有名になることやお金だけが夢ではな
いということを見失いがちになるのかもしれない。


 P.M16:07、ニューヨーク。ロサンゼルスで女性がタクシーに乗ったのと同じ頃、一人の黒人の青年
がタクシーを拾おうと躍起になっている。彼の身なりを見て何台ものタクシーが止まろうともせずハイ
スピードで通りすぎる。ようやく拾ったタクシーのドライバーはろくに運転もできず、英語もやっと話
せる程度の初老の男だった。後からこの男が東ドイツから脱出してきたことがわかる。老人のへたくそ
な運転に痺れを切らした青年は運転を交代する。規則を気にし、拒もうとする男に対し、「規則?ここは
ニューヨークだぞ」と言い放つ。目的地はブルックリン。B.G.M はジャズだ。
 東ドイツから来た男にはニューヨークの何もかもが珍しく,希望に満ち溢れている。立ち並ぶ高層ビ
ルにネオンサイン、たくさんの車が猛スピードで通り過ぎる。裏路地へ抜けるとそこは落書きだらけの
           ニューヨークという街の表の顔と裏の顔。
雑然としたスラムになる。                 黒人の青年はこの街を一言で表す。
「クールだろ?」
 目的地に到着し、青年が料金を支払うと、男はうれしそうにそのままお金をポケットに入れる。すぐ
                     13
に青年は「数えろよ!」と言って取り上げる。 ドルのはずの料金が数えると 12 ドル。「それがニューヨ
ークだ。」
 弱肉強食の大都会。さまざまな人種が流れ込み、新陳代謝を繰り返す。それがニューヨークである。
料金を受け取ると男が青年にこう言った。「金は必要だが重要じゃない。」ニューヨークという大都会が
失ってしまったものに気づかされる言葉だ。


 A. M4:07、パリ。同じ頃、古い石畳の人気のない街にタクシーが一台走っている。
ドライバーはアフリカ系の黒人の青年。その夜このタクシーは変わった女性を乗せる。盲目であるにも
かかわらず、見開かれた黒目のない目を隠すような黒眼鏡をかけていない。最初は同情的だったドライ
バーも、彼女の障害に全くコンプレックスを感じることなく、堂々とした、いかにもパリの娘らしい乾
いた態度に惹かれていく。「目が見えなくてもあんたよりよっぽど多くのことを感じてるわ」、と彼女は
言う。セーヌ川沿いにタクシーは走る。
 やがてドライバーは好奇心から女性に質問を始める。「俺の肌の色がわかるか?俺の国が分かるか?」
女性は興味のなさそうなそぶりで答える。「肌の色の違いなんて無意味よ。色は感じるものだもの。」と
言いながら、彼がコートジヴォワールから来たことを当てる。さらにはタクシーの料金までも当ててし
まう。
 石造りの建物、石畳の道パリの街は灰色だ。夜という時間がいっそうこの街を冷たく感じさせる。特
に黒人の移民にとってその冷たさはなおさらだ。同じフランス語を話すが、それはフランスの植民地で
あった名残だ。この黒人の青年もコンプレックスや差別と戦ってきた。盲目の女の差別を持たず、コン
プレックスのない潔い生き方に男は勇気付けられる。


 同じく A.M4:07、ローマ。この街のドライバーは陽気だ。早口のイタリア語で独り言を言いながら
人気のない古いローマの街並みを意味なく旋回する。道が石畳なのはパリと同じだが、この街の道は狭

                        129
く、中央に石造の泉があったり、石の階段がいたるところにあったりと、タクシーが直線で進める距離
は長くない。背景にはコロッセウム。他の都市が失った歴史が今も息づいているのを感じさせる。
 近くで教会の鐘がなる。鐘の音に象徴されるように、この陽気なイタリア人が乗せた客は黒いマント
を着た聖職者だった。ローマの中にはバチカンがある。一つの都市の中に国が存在するという、それだ
けでもローマは他の都市にない独自性を持っていると言えるが、宗教と街が今なお一体性を持って発展
している姿は珍しい。
 しかし、街が受け継ぐ歴史と伝統を、そのまま住んでいる人々が保ち続けているわけではない。最高
の敬意を持って扱われるべきであった聖職者に対し、ドライバーは相変わらずの早口で一方的に喋り続
ける。おちょくっているようでもある。明らかに不快感を示している聖職者にかまわず、ドライバーは
彼に対し懺悔を始める。懺悔というよりは悪意のない嫌がらせというべきか。しかしその懺悔の内容が
あまりに過激で背徳的であったため、聖職者は発作を起しそうになる。もともと心臓をやんでいたらし
く、薬を取り出すも飲むに至らず、暗い座席の下に落としてしまう。そんな聖職者の様子に気づかずド
ライバーはなおも喋り続ける。途中、派手な身なりをしたニューハーフの二人組から声がかかる。ドラ
イバーとは顔見知りの様子だ。聖職者を一通りからかってしまうと、タクシーは二人を残して去ってい
く。なおも続くドライバーの過激な懺悔と二人のニューハーフの登場というショックに対し、ついに聖
職者の心臓が持ちこたえられなくなる。しばらくしてドライバーは反応のなくなった聖職者が息を引き
取っていることに気づき、あわてる。自分が殺したと考えたドライバーは、聖職者をタクシーから引き
ずり出し、悪戦苦闘しながらもベンチに座らせ、そのまま逃げてしまう。背後には教会の鐘がなってい
た。
 宗教都市ローマで起こったこの一夜の出来事は、現代社会における宗教の地位の低下と、その規律に
縛られることなく、人々が自由意志を実現するという時代の変化を象徴している。しかし人々は宗教を
忘れると同時に無責任になったのかもしれない。


 A.M5:07、ヘルシンキ。明け方近いこの街ではもう雪が降り積もり、すでに木々も葉を落としてい
る。タクシードライバーは気難しそうな顔をした中年の男。無線の連絡を受け、雪が両側に掻き分けら
れた道を、客を拾いに行くところだ。窓の外には海が見える。動くものはなく、灰色の空の下に広がる
海に停泊している大型の船が静けさをいっそう強調している。前方に立ったままお互いにもたれかかり
ながら眠っている三人の男の姿がある。タクシーが近づくと目を覚ました。彼らがタクシーを呼んだよ
うだ。三人とも中年の労働者といった風だが、一人は完全に酔っ払って意識がない。タクシーに乗る金
を持っているのかあやしいところだったが、酔っ払った男が退職金を持っているので大丈夫だという。
三人を家まで送るためタクシーは走り出す。
 石造りの建物が並ぶ点で他のヨーロッパの都市と同じだが、ヘルシンキの街にはそれほどの重量感が
ない。静かな街を走りながら、二人の男が酔いつぶれた男の身の上を語りだす。たった一日のうちに会
社を解雇され、月賦を払い終わったばかりの新車をぶつけられた。家に帰ると娘の妊娠が発覚し、妻に
は離婚を迫られたという。その憂さを晴らすために同僚であるこの二人の男と飲んだあげく、酔いつぶ
れてしまったらしい。「こんな不幸がこの世にあるものか。」と正体なく眠る男を同情的に見やる二人に
  それまで黙って聞いていたドライバーがこう言う。それだけのことか?」
対し、                     「         この言葉に二人は驚き、
憤るが、ドライバーの話を聞くことにする。
 貧しく、共働きのドライバーの夫婦にやっとできた赤ん坊は未熟児だった。医者はもっても一週間だ
という。一週間で死んでしまうのであれば、愛情をかけるとよけいに別れがつらくなる。そう考えたド

                         130
ライバーは、保育器に入れられたその子に一切の愛情をかけるのをやめることを決めた。だが子供は一
週間を生き延びる。次の一週間も生き延びる。ついにドライバーの妻は夫にこう言う。「あなたは間違っ
ている。」と。その言葉にドライバーは「生き延びるためには愛情が必要だ。」と気づかされる。その瞬間
からドライバーは、今までの苦しみが消え、愛情となって溢れ出すのを感じる。「それはとても幸福なと
きだった。」と彼は言う。しかし、喜びに包まれた夫婦が向かった病院で告げられたのは、「娘さんは息
を引き取りました。」という医者の言葉だった。
 車内の男達は黙り込んでいた。そして「あんたの不幸に比べればこの男の不幸なんて大したことない
な。」と言ってドライバーの肩を代わる代わる抱いた。男の不幸を物理的な不幸とすれば、ドライバーの
不幸はそんな表面的なものではなく、深い傷をもった精神的な不幸といえるのかもしれない。
 二人の男が降りたあと、酔いつぶれていた男が目を覚ます。家の前で降ろされた男は、タクシーを見
送ったあと雪の地面に腰をおろす。明日を思案しているように見える男の姿は世界共通の失業者の悲哀
を表しているようでもある。しかし北欧の地の厳しい寒さに耐え抜いてきた人々には、人生のあらゆる
不幸に耐える強さも備わっているのだろうということを考えさせられる。


 この映画で描かれた都市は、もちろんその一部を切り取ったに過ぎない。しかし、比較してみると、
確かにその街だから起こりえる出来事であると言えそうだ。そしてタクシードライバーと客という、全
く見知らぬ者同士から生まれた物語という点で、その都市のさまざまな表情が浮かんでくる。そして背
景となる街の姿や話される言葉もこの物語の重要な要素をなしていることも指摘したい。人と街と言葉
とが互いに影響を与え合い、その都市の物語を作っていくように思われる。たとえば、せわしなく人が
行き交うニューヨークでは早口のスラングが話されているし、ローマの陽気な雰囲気は歌うように話さ
れるイタリア語にも現れている。当然ヘルシンキの雪の残る都市ではそのような陽気さはない。フラン
スの石造りの街並みと詩的なフランス語の響きは、人々の少し冷たく乾いた面を表しているようだし、
夢を追う人々が住むロサンゼルスの道は広大だ。
 そしてどの都市にも等しく時間は流れ、めまぐるしく時代は移り変わっていく。その流れに取り残さ
れた者、流れの中で大切なものを失った者がどの都市にも存在している。どの都市に住んでいようと、
人々が求める者は夢であり、愛情であり、お金に変えられない何かである。だからこそこの映画は世界
中の誰が見ても同じように心に残る作品となるのではないだろうか。



 ナイト・オン・ザ・プラネット
 Night On Earth
 1991   アメリカ
 監督・製作・脚本 ジム・ジャームッシュ
 出演 ウィノナ・ライダー、ジーナ・ローランズ、ジャンカルロ・エスポジト他




                         131
私は今回、江戸を選んで論じることにする。主に2つの視点から見ることによって、江戸の様々な関連
性を掴む。


まず初めに江戸の説明と、論じるにあたって都合がいいように江戸を期間で分けることにする。江戸と
は徳川家康の入国によって発展し、幕府が開かれて以来、日本の政治的・経済的・文化的な中心地とな
った関東の都市である。そして江戸を発展別に分けると、①家康が入国して幕府を開くまでの1590
年―1602年が草創期、②幕府成立から明暦の大火までの1603年―1657年が成立期、③明暦
の大火後の1657年以降が発展期と呼ばれている。これを基にして論じていく。


第一に、江戸の、とりわけ市街地を中心とした地域の成立過程を見ていく。初期江戸は、江戸城を中心
に「の」の字の様に渦巻状に形成され、その一部に初期の市街地を組み込んでいった。初期江戸の最大
の特徴は、軍事防衛として造られていることである。江戸城を守るように御三家の屋敷が建てられ、そ
の他多くの大名屋敷も相次いだ。その外側に町民の町が形成された。江戸城は、周囲を大名と町民そし
て海と山によって囲まれた要塞として造られたのである。武士が住む地域を山手といい、町民の市街地
は下町という。初期の江戸は、江戸城、山手、下町を含めた地域のみを指しているが、最初の下町とは
神田と日本橋のみであり、非常に狭かった。これらの町は江戸町、古町と呼ばれた。文化年間には浅草
や深川も江戸に組み込まれていき、江戸は拡大していくことになる。話を戻すと、そこに町割が生まれ
始めるが、町割の中心となったのは縦軸としてのメインストリートである。町割とは、京都の町並みの
様に計画的に設計された地域のことである。そしてこの最初の縦軸が形成されたのは1590年に家康
が江戸に入国する以前のようだが、江戸入国の時点で既にそれは江戸城と浅草寺を結ぶ道として発達し
ていて、家康がそれを整備して町割を造った。後の多くのメインストリートは、町割構造にするために
計画されて造られていくのだが、この最初のメインストリートが自然発生的なものであり、その町も町
割ありきで造られたものではない。計画都市と呼ばれることになる江戸の初期構造が自然発生であった
ことは興味深い。そして、その縦軸に交差するように横軸が造られ、町割は発展する。この通りの交差
する地点が町を都市化させるポイントである。これ以外にも、橋もまた同等以上の働きをしている。当
時の江戸の中心は日本橋であった。これら2点に様々な人々が集まり、盛り場が形成されていった。今
回は盛り場の、とりわけ遊里に注目し、後の段落ではそれらを通して江戸を見ていくことにする。ここ
では町割と盛り場の誕生までを中心にして話を進める。次に、新市街地ができ始めるのは、1603年
の江戸幕府成立から1657年の明暦の大火までの江戸成立期になる。この新たな町割の地域は全て埋
め立て地である。日比谷入江が埋め立てられたのだが、今後江戸の中心地となっていく地域が埋め立て
られた土地というのは画期的である。なぜなら、日本人の社会が初めて臨海低地に意識的・継続的に都
市を造り、更に海を埋め立てて海上に進出したのは江戸が初めてだからである。ここでも町割はメイン
ストリートを縦軸として、横軸と橋を伴い形成されるが、ここでのメインストリートは人工的に計画さ
れて造られた。この町割は埋め立てのために、何一つ名称を持っていない。そのため、まず町割が生ま
れ、それから地名、町名、橋名などがつけられ、記号的な意味を持ち、その土地の名のいわれから土地
が見えてくる。


ここまでが町割の形成期であり、江戸が武装都市であった期間である。幕府が開かれたために、多くの
          100万人を超える人口となった。
人々が江戸に流れ込み、              ちなみに浮浪人や非人の数は入っていない。
当時の世界の大都市を見ると、ロンドンは70万人、パリは32万人、ベルリンは18万人であり、江

                      132
戸は世界一の人口都市となっていた。ところが、ここには多くの難点がある。人口は多くても、その人々
の身分はほとんどが町民、農民なのである。人々は身分によって住み分けされていて、武家と寺社の人
口が2,30万人であるにもかかわらず、武家、寺社の地区と町民の地区の大きさは同じくらいだった。
そのために町民は過密状態になり、町割の空間には隙間がなくなっていた。そこに起こったのが165
7年の明暦の大火である。この大火事によって江戸は大惨事となり、江戸城と本丸の炎上、3万人を超
える死者を出した。この事件を契機にして江戸は災害防衛都市へと変わっていった。寺社は多少場所を
変えて再び建立され、大名屋敷は郊外へと移され、市街地には防災を施した造りになった。これ以降は、
ある程度決まった形となり、江戸は拡大し大江戸となっていく。もう少し江戸の拡大について書くが、
それは遊里の段落で述べる。


また、地図からも江戸時代の社会関係は窺える。ほとんどの江戸図は西が上になっている。これは江戸
城が上にくるようにされている。そして、城の東部にできた町が城の下の町になる。これには地形の高
低という要素もあるが、社会関係の上下とも見て取れる。そのために「下町」と呼ばれたのかもしれな
                                  、南へ行くことを「下る」
い。また、京都は御所を上と考える空間であるので、北へ行くことを「上る」
と言う。それに似た空間を江戸で作った、と考えられなくもない。


第二に、先にも述べた、吉原を代表とする遊里の成立の特徴とその歴史を見ていく。吉原のように、そ
の区画全てが幕府公認の元で隔離され運営された遊里を傾城町と呼んだが、吉原が傾城町として認めら
れたのは②成立期の1612年という比較的遅い段階であり、それまでには傾城町として定められた地
区はなかった。もちろんそれまでは非合法の遊女屋が町割の中に点在していた。これらは、幕府による
都市計画(町割)のすき間に自然発生したものであり、都市空間のアンダーワールドである。それは人々
が集まる場所、つまり盛り場の界隈に形成されるものであり、必然的に発生するものである。この頃に
賑やかだった町割は限られており、その3地区は麹町・鎌倉河岸・柳町であり、遊女屋があったのもそ
の地区である。いかに非合法とはいえ、遊女屋とは都市の中に潜む必然悪である。そしてこれらは、幕
府による上からの町割とは別に形成されたものであり、都市計画からはみ出して生まれ、町割を冒し、
侵食していく。例えば、このアンダーワールドは人の集まる場所にできる。それは町割を作るために集
まりだした人々のところにも集まる。町割ができるころには、それは既に町割りの重要なポイントを占
      といったことがある。
めていている、        ある時点まではアンダーワールドも新しい町の成立に刺激を与え、
1620年頃まではある程度は町割と共存していたが、町が発展すれば、それらは邪魔になる。したが
って町の境界の外へ移されていくことになった。幕府公認の元で吉原が現在の人形町周辺に成立したの
は1624年のことである。これによって、傾城町は初めて町割に編入された。ただ、この吉原には様々
な規制が課せられており、また町民が簡単に来られる場所でもなかった。決まった服装、人脈、ある程
                     ここまでが③発展期までの吉原の流れである。
度のお金を持った人のみが入ることを許された。                   ここで、
町割の中心に自然発生的に生まれたアンダーワールドが、町割を侵食し、その中に組み込まれていった
     そしてこの吉原の成立は、
かが分かる。          必然悪である遊女屋が町割から拒否された第一段階ともいえる。


この構造に変化を与えたのが③発展期の発端になった明暦の大火と、岡場所の発生である。明暦の大火
は振袖火事とも呼ばれるが、これが起こった時に江戸の町割はかなりの過密状態になってしまうほど人
口が集中していた。そんな町の中心地に吉原があったこと、そこにすき間もないことで十分な防災対策
ができなかったことなどが原因となり、吉原は移転することになる。大火による江戸の激変の中で、吉

                      133
原も変化を余儀なくされた。吉原は浅草北部に移り、新吉原が成立する。これが、現在もなお吉原と呼
ばれる場所である。江戸も軍事防衛から防災のための機能都市に変えるため、一気に抜本的な都市改造
が実施された。まず大火後に、大名屋敷は江戸城外郭の外側に移され、寺社は深川、浅草、駒込、目黒
などの江戸郊外、つまり新市域の最外周部に移された。また城、寺を町屋の火事から守るために広小路
が造られた。そしてこの広小路が、元禄期以降の江戸を活気づかせる場所になっていき、また盛り場も
生まれた。両国広小路という回向院界隈の門前となる通りは江戸最大の盛り場となる。特に大名屋敷や
寺の移転のために、江戸が拡大して大江戸となり、郊外が発見されてそこに火除け・広場が形成され、
ここにも盛り場が新たに発生した。これらは元禄期の都市計画の産物である。そしてこのような盛り場
から生まれてきたのが岡場所と呼ばれるものである。これは傾城町が成立して以来、町割で許可なく運
営している遊女屋がある場所を指す。特に浅草などが有名であるが、岡場所は江戸各地に生まれて大繁
盛し、岡場所の最大の功績は江戸を大きくする契機になったことであるが、また岡場所が生まれたこと
で、そのネットワークから大江戸というまとまりを見ることができる。ではその郊外の岡場所の代表例
といえば、新宿である。このような郊外の最大の特徴は、幕府の権力が届いていないことである。その
ため、そこには浪人などが多く住みつき、治外法権的な空間となっていた。郊外はまだ町割になってい
るのではなく、農村が多かったため盛り場を中心として町は発展し、都市と農村の関係を保ちながら、
江戸が拡大していった。この外郭の発展こそが、江戸拡大の最大の要素である。


遊里、岡場所の発展と役割を見てきたが、徳川吉宗と大岡越前による享保の改革の際に岡場所と私娼は
厳しく取り締まられた。その時に郊外の新宿も廃止されたが、田沼意次によって再開された。このよう
に遊里、特に吉原は依然、隔離された一角で保護されていたが、ここで更に構造が変化する。1806
年の文化の大火によって吉原は全焼する。これで吉原の全盛期は終わる。というのは、吉原の特徴は贅
沢な座敷に遊女を呼んで遊ぶものであり、莫大な費用を必要とした。しかし享保の頃には、遊女屋に直
接行って遊ぶという岡場所の気軽さが好まれ始めていたからである。これ以外に、享保の改革は更に2
つの特徴を持つ。まず、明暦の大火以降の防災都市化がいっそう推し進められ、防災改革が行われた。
この時期には江戸の人口が激増し、家屋も密集し、スラム化していた。明暦の大火の反省で造られた火
除地にも家が建てられていたので、享保初期には火事が多かった。そのため、再び火除地が造られた。
    江戸郊外の発見である。
2つ目は、         これはアンダーワールドのネットワークによる江戸の拡大ではなく、
公的な拡大といえる。方法として、まず郊外に多くの桜が植えられた。これらは山や堤などに植えられ、
また防災のために郊外に明地(火除地)を造り、そこに桜、桃、松などを植え、江戸市民の遊覧地とな
っていった。2つ目の方法として鷹狩がある。綱吉が生類憐れみの令で中止にしていたのを吉宗が復活
させ、鷹場を郊外、江戸の外郭に設けた。そこには鳥見という鷹匠の下で鷹を飼う人がいて、彼らには
鷹の飼育以外に、郊外にある大名の下屋敷などの動静を探る任務が与えられていた。これには単なる鷹
の世話を主とはせず、治安維持や監視といった目的を持っていたといえる。このように、鷹場は江戸の
外郭で警備や統制のネットワークになっていた。岡場所・新宿などの荒れた地域が廃止されたのも、こ
のような防災、治安維持が重視された時期だからである。


話を吉原に戻すが、吉原は更に変化する。1855年に安政の大地震が発生し、吉原は再び全焼する。
吉原には、火事で焼けた時、郭外の指定された場所で決められた期間だけ営業してもよい、という仮宅
             安政の大地震の際には500日間という例のない期間が許可され、
の制度が認められていたので、                            浅草、
深川、本所の約20 ヶ所で営業された。ところで吉原というのは、遊女町を1ヶ所に限定してコントロ

                      134
ールするという政策からつくられ、それ故に他の岡場所が取り締まられてきたのである。水野忠邦によ
る天保の改革の際にほとんどの岡場所は潰されてしまったが、吉原の仮宅をあちこちに造ることは、吉
原を解体して岡場所を再生させるという皮肉な結果を招いた。しかも500日といえば1年半近くであ
り、たとえ仮であってもその間に営業していれば、それはもう一時的とはいえない。更にそれ以後も4
回程、ほとんど2年おきに、幕末の吉原は深川の仮宅で営業しており、深川はまるで吉原の出張所のよ
うなものになっていた。このことはつまり、吉原の独占性、閉鎖性が失われたことを意味する。
以上のことをまとめると、江戸とは極めて計画的に造られた都市構造をしていて、その中で人々の集ま
る場所に盛り場が自然発生してきた。軍事防衛都市から防災都市へと江戸は変化し、また遊里のような
アンダーワールドが町割を侵食し、共存し、隔離されていく中でも江戸は変化してきた。更に、防災や
警備などの目的で江戸が拡大していき大江戸となり、また郊外にできる盛り場が発展して町が造られ、
江戸が拡大していった。つまり、幕府による、いわゆる「表」社会によって行われる都市変化や社会変
化と、都市のアンダーワールドという「裏」社会によってなされるそれが、全く異なる方法で同じよう
な結果となっているといえる。盛り場とは、都市の中で最も変化しやすい部分ではないだろうか。そこ
には人々の活力が溢れているだろうし、人々の生活エネルギーやアンダーワールドのエネルギーが湧き
上がる。それらの行き過ぎを抑える政策を出すことで、幕府の都市運営も同じ方向性を持つのだろう。
これらのことから人々、そして遊里といったアンダーワールドの力が、計画都市を変化させていったと
いうことが窺える。




                      135
ヨーロッパ文学Ⅰ
「テクストの中の都市・テクストとしての都市」
前期レポート




              都市小説「ウィーンの血」を解読する




                              学籍番号6299247
                              欧米第一過程 ドイツ語専攻
                              野田 容子




「ウィーンの血」は著者、エイドリアン・マシューズによって書かれた、2026年の冬のウィーンを舞台とする都
市推理小説である。この作品は2000年度の英国推理作家協会賞、シルヴァー・タガー賞を受賞した。
あらすじを要約する。2026年11月28日の寒い朝、“Wiener Tages Zeitung”のコラム担当記者である、主
人公シャーキーはウィーンのトラムに乗り Staatsoper(オペラハウス),
Kunsthistorisches Museum(美術史博物館),Stadtpark(市立公園)の前を通過しながら、ある男のことを
考えていた。3ヶ月前にシュヴェヒャート空港で会って、その後ハンブルクのカンボジア料理店「ラ・パロマ」で
食事をした、レオ・デトマースのことだ。彼の遺体がプラーター公園で発見され、Wiener Tages Zeitung の
4面に載ったのだ。レオの妻ぺトラは、彼の死が事故死ではなく、何者かによって殺されたのではないかと思
い、シャーキーに調査を依頼する。男は生前ネット・ブローカーをしており、コンピューターで不正アクセスした
産婦人科病院、マリアヒルフに手がかりを求めて、シャーキーはシステムへの不正侵入を試みる。そして、驚
くべき真実が徐々に明らかになっていく。
ウィーンという都市の構造を特徴づけるものは、グラシ(城壁)とリーニエだ。この2つの機能と意味が、重要
である。グラシの持つ第一の機能、それは17世紀のトルコ軍による侵入の防御だった。しかし、1857年にフ
ランツ・ヨーゼフ2世によってグラシ撤去の計画が発表され、翌年に実行される。その後、コンペによる大規模
な都市改造が行なわれ、グラシの跡に「リンクシュトラーセ(環状道路)」が建設される。
本来の機能を失った後は、上流社階級と労働者階級を隔てるという、社会的・政治的機能を担うことになる。リ
ーニエはウィーン市の境界になっており、そこから外はもはやウィーンではなかった。すなわち、ウィーンは、
リンクシュトラーセの内側の都心から、第一郊外地区(フォアシュタット)、外上環状道路(リーニエギュルテル)
を超えた外側の第二郊外地区(フォアオルト)、と円周部へと進むにしたがってほぼ一律に住民の階層が低く

                               136
なり、生活水準は低下するといった、顕著な住み分け構造が形成された都市なのである。
私は、この小説を、「リーニエ」を境界とした、2つの異質な世界をシャーキーが経験し、異質な世界の女性ぺ
トラに惹かれてゆく話、と解読した。シャーキーは新聞のコラム担当記者で、一般的に見ると権力をもった人
物ではある。しかし、生まれた家は、ウィーン郊外19区に多く存在する
“Heurige”というワイン居酒屋で、自分を最初からぺトラとは住む世界の違う人間と認識している。
死んだレオとぺトラの住むフンデルト・ヴァッサー・ハウスは、ブルジョワジーの住む高級住宅街にある。「まる
でお伽話の中から抜け出てきたような家は、屋上に2つの葱坊主が据えられておりひとつは金色に、ひとつ
は褐色に輝き周囲を圧倒している。」と描写されている。また、彼女は美人でアートの才能があり、展覧会を開
いたり、ピアノを弾いたりしながら生活している、上流社階級の貴婦人のような女性だ。
一方、シャーキーの住むのは、カールマルクスホーフという1926年に建設された、プロレタリアート、労働者
階級の集合住宅である。地図で確認すると、リーニエの外に位置している。ここは1934年の労働者意識の
高揚と、反ファシズム蜂起の最後の拠点となった場所である。
シャーキーがウィーン市内にある警察本部から、ドナウ河をマリーエン橋で渡り、アウガルテン公園に隣接す
る駐車場まで車を取りに行き、北に向かってカールマルクス・ホーフの自宅に帰ろうとして、渋滞につかまる
描写がある。


・…・角を曲がると見えてくるフライシュマルクトの警察本署の鈍重な外観は、肩甲骨のあいだに着きつけられ
たショットガンの銃口のように力強い。アドルフ・ロースが“窓の上に眉飾りのない建物”の提唱者だとすれば、
これはその被装飾的な野蛮さを食った棺桶に打ち込まれた、さらに一本の釘だった。窓のないカンラン石造り
の塊は巨大な多面体で、あらゆる角度に変えて反射している。オーストリアの顔(Östereiches Antlitz)。悪
夢を華々しいテクニカラーで再現するのに、演出段階で破片をひとつひとつ光・温度反応性の染色薬にひた
したようなもの。かくして今や、暴力的な粉砕されたイメージは光学アートの狂乱した色合い―金・群青・青紫・
黄緑・暗褐色―に燃え上がり、陽射しの強さが変わるたび、また重なり合った雲のベールの陰で太陽という石
のように冷たい目が上って動いて落ちていくたび、溶解したり強まったりを繰り返している。
……やっと渋滞を抜けて、ハイリゲンシュテッテシュトラーセの最後の直線は快適に飛ばす事が出来た。車は
いつのまにか<カール・エーンの労働者楽園>に入っている。1200メートルのファサードと1600戸のアパ
ートメントを持つ、カール・マルクス・ホーフの巨大なピンク色の要塞だ。オーストリアのファシストが1934年
に大砲で破壊しようとしたが、この共同住宅は今もそのイデオロギー的な華麗さと栄光の中に立ちつづけ、社
会主義的未来の新人類の家、人民宮殿となっている。裏手には遺伝子をいじったアメリカ蔦(つた)が茂って
いて豆と苺が収穫できる。だが正面にあるのは掩蔽(えんぺい)壕を思わせる入口のアーチに彫られた細長
い火星人たちの姿と、日光を避けるような労働者階級の部屋の小さな窓と、赤い小塔から好戦的に伸び上が
って雲をケバブ料理のように、串刺しにしている何本もの鋼鉄の旗竿―解散した軍団の飾り気のない軍旗だ
った。死んだユートピアの同志集団、ホーム・スイート・ホーム・…。


警察本部はリンクシュトラーセのショッテンリンクにある。ブルジョワジーの住む世界だ。カールマルクスホー
フの描写からは、時代から取り残されたような、さびれた雰囲気が感じられる。しかし、2つの世界を行き来す
る、彼の心の揺れ動きは感じられない。シャーキーはジャーナリストならではであるが、何事も客観的で批判
的に見てしまうようだ。また、この地域は彼にとって「日常」となってしまい、輝きはなくなってる。
しかし、それがフンデルトヴァッサーハウスのぺトラの部屋で彼女とはじめて会った時の描写は、明らかに気
持ちの高揚が感じられる。

                            137
……この人物には存在感がある。一級品で、手入れが行き届いている。この種の女性のまわりには磁石に
吸い付く鉄のように、人生が従順につき従う。その動きには自然な気品と権威があって、そのために本人は
年齢以上の歳に見える…・少しだけ私に背を向けるようにしてときどき足を踏み替えるので、その度に大きな
形の良い臀部が位置を替えた。片方が上がり、もう片方が下がる。その現象を見ていると思春期の少年のよ
うな気分になったが、それでも目をそらすことができない。魅惑的で、まるでインターコンチネンタル・ホテルの
エレベーターの表示を眺めているようだ…・。


この2人は、最後には恋愛関係になるが、いわば「リーニエ」を超えた階級の差のある恋愛だ。世紀末のウィ
ーンでは、このような関係は責任をもたず、いずれは後腐れがなく別れる事のできる、自由な恋愛として、ウィ
ーンの街では、見られるものだったという。小説の舞台となる2026年でも、この境界は少なからず存在して
いる。
しかし最後には、「ここはニューヨーク5番街じゃないぞ」とシャーキーに言われながらも、ぺトラはカールマル
クスホーフに、別室を借りて住み始めることになり、彼女はいとも簡単に2人のあいだの「境界」を乗り越えて
しまう。しかしそれは自然な結末とも言えるかもしれない。なぜなら2人は、マリアヒルフ病院で行なわれた人
工授精によって、同じ遺伝子から生まれた兄弟だったのだ。その他に233人の兄弟が同時に誕生し、本人ま
た両親にすら知らされず、別々の親の元で育てられ、その後の経過を観察されていたのだ。
私は、前田愛のテキスト「空間のテキスト テキストの空間」に触れられていたように、「境界」を運命の急転、
と結びつける解釈が、この小説の中でも適用できると思う。シャーキーは、ぺトラからレオの死の調査を依頼
された時、断ることも出来たはずだ。しかし、深入りして「境界」を越えて深入りした為に、最後には自分の誕
生時の秘密と、2人は兄弟という「運命の急転」を招くことになるのだ。彼は当初、ジャーナリストの職業病であ
る飽くなき知的好奇心から、レオの死について調査するのだから、自分の行動にそこまで感謝してもらっても
困る、とぺトラに対して言っている。しかし、最後には自分の行動が「ぺトラへの愛情」から出たものだという事
に気付くのだ。
この小説は森鴎外の「舞姫」と似ている。上流階級―労働者階級の関係が、舞姫の場合とは逆転している点、
純文学と推理小説という形式の違い、最後の結末、「境界」を乗り越えられるか否か
など、相違点は多々あるが、大都市を舞台とした「境界」をこえた恋愛をテーマとしている点では、
同じだと言える。



参考文献
「ワールドガイド ウィーン・オーストリア」               JTB
「図説 ウィーン 世紀末散歩」                  河出書房新社
「輪舞の都 ウィーン   円形都市の歴史と文化」         平田達治




                           138

				
DOCUMENT INFO
Shared By:
Categories:
Tags:
Stats:
views:149
posted:2/18/2012
language:Japanese
pages:138